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紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

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 ◆ 3352号(5月26日発売号掲載)

時代のなかで書くことの覚悟

――「フランス文学者」として
インタビュー:鈴木道彦氏 (聞き手・中村隆之氏)

 ■プルースト『失われた時を求めて』やサルトルの『嘔吐』などの翻訳でも名高い鈴木道彦氏の新著が、講演集『余白の声』として閏月社より上梓された。これを機に、御年八九歳、驚愕すべき記憶力の持ち主である鈴木氏に話をうかがった。聞き手は、『エドゥアール・グリッサン』などの著作がある中村隆之氏にお願いした。(インタビュー日・4月5日、東京・鈴木道彦邸にて。須藤巧・本紙編集)

 ■「言葉」と「行動」

 中村 鈴木先生には、『異郷の季節』(みすず書房、一九八六年)と『越境の時』(集英社新書、二〇〇七年)という回想録が既に二冊あります。本書『余白の声』は講演集ですが、その回想録の系譜に位置づけられると思います。本書には六つの講演が収められています。鈴木先生は想いをこめて本をつくられてこられたと思いますが、本書冒頭にはラテン語で「verba volant, scripta manent」(言葉は去るが、文字は残る)と書いてあります。

 鈴木 ああ、それは版元の閏月社の本の冒頭には必ず入っているんだそうです。

 中村 あ……、それは失礼しました(笑)。

 鈴木 ただ、その文言のようなつもりは常にあって、消えていく講演が本になるのはとても嬉しいことでした。

 中村 「余白の声」という表題がまず印象的です。副題の「文学・サルトル・在日」は、鈴木先生のお仕事を象徴する言葉で、これらの言葉がどれひとつとして切り離せないところに鈴木先生の独自性があるのだと思います。本書を読んでまず響いてくるのは、文学とアンガージュマンの関係で、とりわけ、「独自的普遍」というサルトルの言葉からプルーストに向かっていくところです。他者の「独自的普遍」を探求するという鈴木先生の文学者としての姿勢が深く響く。小松川事件(一九五八年)に接するときもそうですが、社会との関わり方のなかの鈴木先生の文学者としての立ち位置、態度は、サルトルを経由して培われてきたものだと感じます。

 鈴木 その通りだと思います。小松川事件のことを考えるときも、その前にサルトルの『方法の問題』(一九五七年発表)がありました。本来なら李珍宇のことを詳しく知っていなければ書けないけれども、当時はそれができなかったから、在日朝鮮人の普遍的な条件のなかに、彼の独自性が強く出てきているのではないかと考えたのです。そのように彼の心を想像して、一種の「感情移入」(empathie)をして理解することができるのではないか、と。サルトルはその方法を「了解」(comprehension)と呼んでいます。『弁証法的理性批判』だと一番強調されるのは「知解」(intellection)という言葉ですが、「了解」というのは一種の実存的な理解の仕方で、そのことが『弁証法的理性批判』の序文としておかれた『方法の問題』に書かれています。

 中村 鈴木先生は一九五四年にフランスに留学されます。当時はまさしくアルジェリア戦争(一九五四~六二年)の時代に当たります。そこから六〇年代末までのことは、『越境の時』で詳しく書かれています。

 鈴木 『越境の時』は、上野千鶴子さんにしきりに勧められて書きました。ぼくにとって、小松川事件もそうですが、金嬉老の事件(一九六八年二月)のときは全力投球をして、八年半ほど裁判に関わりました。一番脂の乗り切った時期をこの問題に捧げるわけですから、フランス文学者として「これでいいのか」という気持ちがないわけではなかった。しかしぼくはどうしてもこれをやらないわけにはいかない、と思いました。それが一段落ついて、公判対策委員会も解散して、時間の余裕ができたときに、これは初めての経験でしたが、『異郷の季節』という回想を書く気になったのです。しかし、まだそのときは、在日のことは書けなかった。

 中村 『異郷の季節』にはフランス滞在のことが書かれています。

 鈴木 ただ、その裏にはずっと在日のことが頭にありました。いまでも『異郷の季節』はときどき読み返すんですが、当時、他の人が言っていないことが出てくるので、書いておいてよかったと思っています。もう一つの回想としての『越境の時』は、『異郷の季節』で書けなかったことを書いてみようと思ったのです。

 中村 六〇年代、鈴木先生は既に様々な著訳書をお持ちでした。例えば、これは一九七〇年のことですが、『政治暴力と想像力』(現代評論社)を出されます。

 鈴木 その本の最初に収録されている「民主主義のなかの暴力」は、山﨑博昭が死んだ一九六七年一〇月八日の羽田闘争のころ、「暴力学生」と呼ばれて、学生がメディアの袋叩きにあっていた時期のものです。もちろんぼくは全面的に学生と同意見ではなかったけれど(ぼくは「大学解体」という言葉を使ったこともなく、高橋和巳と違ってヘルメットもかぶっていません)、マスコミが暴力学生といって学生を叩く不当なやり方は、必ず批判しなければならないと思っていました。しかし、それはかなり勇気がいることでした。バッシングがすごいのです。同じことが在日や朝鮮について発言したときも言えます。北朝鮮が拉致問題などで悪の塊のように見なされているときに何か言うと、必ずたくさんの批判が飛んできます。しかし、やはり言うべきことは言わなければならない。

 中村 「民主主義のなかの暴力」は最初、『現代の眼』(現代評論社)という雑誌に掲載されました。

 鈴木 もちろん『世界』などの雑誌も既にありましたが、『現代の眼』や『展望』(筑摩書房)などは、わりに自由にものが言える雑誌でした。

 学生の“暴力”について当時ぼくが最初に書いたのは「一橋新聞」の「事実とは何か―大合唱に抗して」でした。メディアの報道では、山﨑博昭が死んだのは、警察の放水車を学生が奪って、それを運転して彼を轢き殺したことになっているけれども、そんな証拠がどこにあるのか、いかにメディアが警察発表のタレ流しをしているか、という指摘です。それに続いて、「民主主義のなかの暴力」を書いたのです。その「事実とは何か」を友人の哲学者竹内芳郎が読んで、連名の公開質問状を朝日新聞に出そうということになりました。それで『展望』に相談すると、『展望』は迂闊にも誌面を提供してくれたのです(笑)。

 公開状への反響はすごいものでした。当時、もちろん「新聞は偏っている」なんて評論家的に書く人はいましたけれど、このようなかたちで新聞に直接切り込んでいく批判の仕方はありませんでした。しかも公開状が出たあと、またぞろ『展望』は迂闊にも(笑)、朝日の社会部長に面会を取りつけてくれましたが、そのころになってあちこちから『展望』への圧力が強まってきて、編集部がビビり始めた。しかし私たちはもうそこまでやっちゃっているんだから、その面会の状況も結末も書こうじゃないかということで、二回目の原稿を『展望』に書いたのです。当時、竹内好や荒正人などは、『展望』から頼まれたのか、それを書かせまいとして直接間接に圧力をかけてきました。だから竹内芳郎とぼくの二本目の論文の最後には、竹内好を念頭において、「水に落ちた犬を打つのはフェアプレーの精神に反する」が、「フェアプレーは時期尚早である」と書いたのです。

 中村 時代のなかで書くことの覚悟を感じます。書くことによって自分の身を晒したり追い込まれたりするような言葉の強さ、あるいは書き手の覚悟を感じることが難しくなった時代に、いまはなってきている気がします。

 鈴木 だからみんな何も言わずに黙っているでしょう。

 中村 現代の言論についてはどうお考えですか?

 鈴木 批判的なことを書こうとする人の書く場がなくなっていますね。昔のような総合雑誌もあまりないから、事情が違うとは思いますが。しかしいずれにせよ、何か言ったら、吐いた言葉はもう取り戻せない。その意味で、ものを書く人間と政治家は違います。政治家はすぐ撤回するじゃないですか(笑)。ぼくは、物書きの端くれとして、その覚悟だけは最初から持っていました。例えばアルジェリア戦争のとき、「一二一人宣言」というのがありました(一九六〇年)。フランス人でありながら、植民地体制の崩壊に寄与するアルジェリアの民族解放戦線(FLN)を支持し、それに対して武器をとることを拒否するフランス人の態度を正当と見なす、という一種の「非国民」宣言です。それを紹介するときに、肯定的に書けるだろうかと考えました。もしそれを称賛したら、同じようなことが起こったときに自分も同じように行動するしかありませんから。しかし、思いきって覚悟を決めました。

 中村 書くこと自体は孤独な作業でもあると思いますが、同志というか、この時代にこの人がいるから連帯しあえるという同時代の書き手には、どんな人がいますか?

 鈴木 非常に親しくしていたのは竹内芳郎ですが、彼とぼくはずいぶん違います。彼には、肉体を動かすということがありません。知的にはものすごくレベルが高く、書くことは非常にラディカルでしたが。

 中村 鈴木先生にとって、言葉との関係において「行動」はどういう位置づけだったのですか?

 鈴木 「言った以上は」ということです。そう思っており、そう書くならば、そう行動すべきだろうという単純なことです。例えばデモに行くとか、あるいは日本で脱走兵の問題があったときは、それに関わるとか。

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 ■金嬉老事件と、金嬉老という人物

 中村 脱走兵のことにも金嬉老事件にも、鈴木生は深くコミットされましたが、その区切りとなるようなことはあったのでしょうか?

 鈴木 金嬉老の事件が起こったときは、一年間フランスに行くという予定が既に決まっており、ぼくは最初逃げ腰だったんです。『越境の時』にも書いたことですが、とにかく、起こっている事態がよくわからない。けれど、金嬉老という人物が二人を殺して、立て籠もっている、と。それを最初にぼくに伝えてきたのは中嶋嶺雄です。彼はその後どんどん右傾化しましたが、六〇年安保のころはリベラルな立場にいました。彼が言うには、ぼくと大島渚と二人で出かけていって、金嬉老に呼びかけるべきだと。「なんで?」と言ったら、在日のことがわかっているのはその二人だからだと。大島渚には『ユンボギの日記』(一九六五年)があり、『絞死刑』(一九六八年)も既に撮っていましたからね。後で聞いたら、金嬉老の情報が大島のスタッフのところに飛び込んできたとき、彼らは飲んでいて、「それは面白い、行こう!」と言ったそうです(笑)。彼らはそういう感覚なんだな(笑)。

 ぼくはそうやって逃げていたけれども、ぼくの中学の二年下の古山洋三君という人がいて、当時はベ平連の有力メンバーでした。反戦や労働運動を手がけていた人で、重厚で堅実な人です。その晩、たまたま脱走兵の問題で、彼のところに行く必要があった。彼の奥さんの和泉あきは『近代文学』の流れを汲む同人誌をやっていて、伊藤成彦も同人でした。古山君の家にいるときにその伊藤から電話がかかってきて、ぼくがそこにいると知ると、「中嶋嶺雄などもいるから、是非来てくれ」と言う。金嬉老が翌日自殺すると言っていたときだったので、こちらも気になるから、じゃあ仕方がないということで、伊藤たちがいた銀座の東急ホテルに行きました。朝まで議論し、金嬉老に渡すものを作り、それを伊藤と金達寿が寸又峡にこもる彼のところへ持っていったのです。

 金嬉老が捕まった後、ぼくは何回も面会に行きました。そして、彼は最初に思っていたのとまるで違う人間だということが分かりました。ぼくは最初、小松川事件などのことがあるから、金嬉老は自覚的に、かなり激しく闘争心を燃やしている人なのかなと思っていたんです。もちろん在日だから様々な経験を持っているけれども、一口に言えば彼は相当いい加減な人間なんですよ。だから面会に行っても最後のころは、柵を通して絶えず言い合いでした。彼は、すべてを他人のせいにする。自分は事件を起こす前の晩に知り合いの大橋巡査という人のところへ行き、ライフル銃を見せたけれども、巡査は本署に通報しなかった。だから事件の責任は大橋巡査にあるんだと言うんです。「そういう言い方はないだろう」とぼくは反論する。そのうちに、金嬉老が獄中結婚をします。二度も三度も結婚しては、そのたびに別れ、元奥さんの悪口を言う。「それはやめなさい」とぼくは言いました。「あなたが選んだんじゃないか」と。つまらない喧嘩だけれども、それで彼の人柄が分かりますね。自分の責任を取らず、常に他人のせいにするのです。金嬉老の裁判が終わったときに、ぼくには「相手を見間違えていた」という苦い意識があったから、あまり伝える気にならなかった。

 中村 その意味では李珍宇が残した『罪と死と愛と』との出会いは、もっと根幹的なものだった?

 鈴木 はい、一番重要でした。とはいえ、金嬉老事件の裁判も、いったん引き受けた以上、ずいぶん一生懸命やりまして、一審の最終弁論(『金嬉老弁護団最終弁論』)も弁護士と一緒に作りましたが、そこには弁護士だけではできないことがたくさん入っています。例えば「金嬉老と日本語」なんていう項目があったりします。

 中村 金嬉老に最初に与えられた言葉が「他者」の言葉だった。

 鈴木 そう。しかも朝鮮人を侮蔑する内容を含む言葉です。彼は結局、日本語が母語で、日本語しかしゃべらなかったから、その言葉で、「自分は朝鮮人なんだ」と考えなくてはならない。それは非常に辛いことですが、中村さんの専門のクレオールやカリブ海にも通じることですよね。

 中村 その問題については、本書に収録されている「在日の問題と日本社会」のなかで、サルトルの「黒いオルフェ」に言及されていますね。アフリカやカリブ海の黒人たちが、フランス語によって自分を表現しなければならないときに陥る、自己と表現する言葉に関する複雑な関係性があります。ここは私もずっと気になっています。「自分の言葉」は「母語」と呼ばれますが、「本当は自分の言葉ではなかったのではないか」というところから想像していくと、植民地出身の最初の世代が詩を書く経験などは、サルトルが書いているように「言葉にならない」面があっただろうと思います。

 私自身は、カリブ海やアフリカの人たちとはまったく違う時間、空間、文化圏、状況のなかで生きていますが、なぜか出あってしまった。そのことと、自分がなぜ書くのか、自分が何を伝えたいのかを結びつけて考えていかなければ意味がないと、いまははっきりと言えます。これは鈴木先生のお仕事から深く学んだことでもあります。以前は、研究者になるということは、ある作家を選んで、その人についてたくさん勉強をして、他人が言っていない何かを差し出すということでした。私とフランス語との関係はカリブ海の作家から始まっているので、そもそもフランス語やフランス文学の制度の「外」の作家を扱っています。しかし、その作家を文学(史)のなかで価値づけるために研究するのではなく、その作家がなぜ自分にとって、あるいは社会にとって大事なのかを考える。客観的で普遍的で無色透明な研究者という主体があるのではなく、生活者としての自分、日本語を使う自分がいて、たまにフランスに行ったりする。その「私」が日本語でカリブ海のことを書くときに、ではどういう関わり方があるのか。それは常々考えていることです。

 鈴木 むしろ中村さんにお聞きしたいんだけど、「ポスト・コロニアル」と言う人のなかに、フランツ・ファノンが出てくることがありますね。だけどファノンは基本的にはコロニアリズムの思想家でしょう。クレオールはポスト・コロニアルな世界でこそ、存在が公認されてきたんじゃないですか?

 中村 そうですね。おそらくクレオールの問題の政治的な位相を語ろうとすると、カリブ海のマルティニック、グアドループという島々が独立を達成できなかった、一つの民族としての文化的内実を形成することが難しかったということがあると思います。その状況はコロニアルな状況と言えるかもしれません。

 鈴木 そうですね。在日もそうです。

 中村 ポスト・コロニアルという言葉が出てきた背景には、その前にポスト・モダンがあったことが大きいのだと思います。ですから政治的な関係性を人文科学に再導入するためにも、コロニアルな問題はまだ終わっていないんだよ、ということが、「ポスト・コロニアル」という言葉に込められた意味だと思います。終わったというよりは、研究者はその問題を意識しなければならないよね、という呼びかけの言葉だと捉えています。

 鈴木 なるほど。それはよく分かります。

 ところで、いま大学で問題なのは、例えばフランス語の教師を探すときに、フランスで博士論文を書いた人を優先しますね。フランスの博士論文は必ず、独自な何かを発見するものでないといけないし、大体がパリ大学のクソ実証主義(笑)、非常に保守的な実証主義のもと、それに沿った人間を博士にする。そういう人間ばっかり育ってしまっている。文学研究をする人も、「まずは博士論文を書いて」ということになる。ぼくらの時代には幸いにもまだ空席がいっぱいあって、そんな努力をしないでよかったので、どんなに出来が悪くても拾ってもらえたんですよ。

 中村 何をおっしゃっているんですか(笑)。

 鈴木 『越境の時』にも書きましたが、基本的には自分の実存と無関係なことを研究して、それを着実に間違いなく、誰からも非難されないように正確に書く、という研究者にはぼくはなれない。

 中村 なれないですし、そもそもなりたくないですね、私も。

 鈴木 つまりそういうことなんですね。いまはどうもそういう研究者があまりにも多い。それは、文学をつまらなくします。

 中村 その通りだと思います。そういう状況に生きざるをえないのはつらいことでもありますが……。

 strong >鈴木 それは適当にごまかして、表面を繕ってやらなければ(笑)。

 中村 ありがとうございます(笑)。

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 ■大勢順応主義の鈍感な日本人

 中村 『余白の声』に話を戻します。「あとがき」で、戦前に日本人がどんなことをやってきたのかが端的に書かれています。

 鈴木 「大勢順応主義」ということですね。ぼくは、いまの日本に大変危機感を覚えています。いまはまさに一九三〇年代と同じではないですか。一九三七年には盧溝橋事件があって日中戦争が始まっていますが、その当時の日本人は実に能天気でした。もちろん出征している人は苦労しましたが、その当時からゴルフが流行り出します。しかし戦争が始まり、真珠湾攻撃があり、最後には日本全国が空襲でひどい目に遭う。そういうときでさえも、実は今日と同じように明日がまた続けば何とかなる、という感じで生きていました。それは粘り強い、辛抱強いと言えるかもしれませんが、要するに鈍感なんですね。戦前から日本人のそうした習性はずっと続いてきた。戦後は民主主義が上から来たもんだから、それに従って大勢順応で行く。だから本当に民主主義だった時代なんて一度もないわけです。自分の力で何かを作ったことがないから、真の意味で反省するということもない。明治以後の日本人は、概ねそのように生きているのではないでしょうか。

 中村 当時の鈴木先生の言葉で言えば「民族責任」というかたちで、在日の問題と向き合ったということですよね。しかしそれがなかなか日本人の戦後の歴史の記憶のなかにしっかりと組み込まれない。

 鈴木 例えば一九六八年についての本はいっぱいありますが、民族の問題は多くの論者の視野からほとんど欠落している。だけど、六〇年代にはそういう問題もあったんですよ。事件もいろいろあった。しかしそうした問題について、自分にも責任があると思う人がどれほどいるのだろう。日本社会でそういうことが起こっているんだということを、いくらかは考えてほしいわけです。それはアルベール・メンミが言っていることだし、日本では戦後早くに小林勝が「私は一五年間、日本人として朝鮮にいた。(……)私が子供で、無害だったとしても、一人だけ、日本帝国主義と植民地の歴史から除外されるわけにはいかない」と書いていることです。そういう日本人もたまにはいたのですが、一般のものにはならない。

 中村 いまはSNSなどで誰でも言葉を発することができますが、有力な媒体で何かを発することは、いまでも限られた人にしかできません。そういう人を仮に知識人と呼ぶのであれば、知識人がなぜこのことを共有していかなかったのか気になります。

 今年は一九六八年から半世紀ですが、六八年については様々な本があるなかで、鈴木先生の『越境の時』は六八年に話題が限られた本ではないですが、やはり視点が独自なのではないかと思います。

 鈴木 ぼくはたまたま六八年四月にパリにいました。金嬉老事件は既に起こっていました。日本でもベトナム反戦運動が盛んで、山﨑博昭は前年に死んでいる。「この日本を見捨てて、いまフランスへ行くのか」と言う人もいましたが、フランスでも同じような状況だったのです。自分の研究テーマはあったけれども、とにかくできるだけ六八年のフランスの様子を見ようと思っていました。六八年に「三月二二日運動」(D・コーン=ベンディットを中心とするパリ大学ナンテール校の占拠)があったことを最初に知ったのは、とある知り合いのジャーナリストを通じてです。彼はその前年にぼくが日本でやった脱走兵についての講演を聞きにきていたのですが、ぼくがフランスに着くと同時にその彼から連絡があって、三月二二日運動というのがある、と。だからその人たちと会って、経過を見ることにしました。そして、日本で「五月革命」と呼ばれる事件の経過はつぶさに見ました。また、モーリス・ブランショなどが関わった「学生‐作家行動委員会」にもよく通いました。学生‐作家行動委員会には誰でも入れます。すると、突然やってきた人がすごく無責任な提案をすることがある。マルグリット・デュラスなどはそれに腹を立てて「じゃあお前がやれ、ここでは言った者がやらなければならないから」と言うと、相手はビビって帰っていく(笑)。デュラスは一種の革命コンプレックスがあるような人でしたね。

 中村 その前年の六七年三月、鈴木先生はアルジェリアに滞在しますが、その前に「アジア・アフリカ作家会議」に出席します。

 鈴木 六〇年安保当時は第三世界で民族独立運動が広がっていました。安保闘争のエネルギーを継続させる意味も含めて、一九六一年にアジア・アフリカ作家会議が東京で開かれたのです。そこには阿部知二から始まって大江健三郎や開高健まで作家が集まりましたが、アルジェリアの臨時政府代表も来ていました。彼らは独立運動家なので、決して物書きではないけれども来ていて、ぼくも顔を出しました。一方でぼくは新日本文学会に属していましたが、六七年に今度はレバノンのベイルートでアジア・アフリカ作家会議があるので、新日本文学会の作家たちも参加することになるんだけれど、彼らは言葉が喋れない。そうするとぼくは頼られて、一緒に来てくれということになったのです(笑)。だから六七年に行ったわけですが、ついでにアルジェリアに立ち寄りました。ほんの三日間くらいでしたが、アルジェリア臨時政府代表として日本にいたキワンと、ぼくのアルジェリア人の友人たちが歓待してくれました。アルジェリアに滞在したのはそのときが最初で、次は八〇年に行きました。このときにはフランツ・ファノンが勤めていたブリダ=ジョアンヴィル精神病院も訪れました。

 ファノンのことは、最初は知りませんでした。アルジェリア臨時政府の副代表がベンハビレスといって、「ソクラテス」というあだ名の、学者風の落ち着いた人でした。ぼくはその「ソクラテス」と親しくしていました。最初に彼から「ファノンのこの本を知っているか?」と渡されたのがL’An V de la revolution algerienne(アルジェリア革命第五年)で、後に『革命の社会学』として翻訳されたものです。それにも好感を持ちましたが、翌年だったか翌々年だったか、Les Damnes de la Terre(地に呪われたる者)を読んだときは仰天しました。サルトルの序文がまたすごい。その序文を海老坂武とたしか『中央公論』に訳し、その後でみすず書房を出版元にして本文を訳しました。日本語訳『地に呪われたる者』が出たのは一九六九年でしたが、鮮明に覚えているのは、六八年の五月革命がいったん終息した後で、秋にかけて、『地に呪われたる者』のあとがき(「橋をわがものにする思想」)をフランスで書いたことです。そのとき、自分の親しかった友人(橋本一明)が日本で肺癌で死んでいくのが分かっていたので、その死に叩きつけるように、夭折したファノンのことを書いたのをよく記憶しています。その一方では、その年に起こった金嬉老事件のことも考えていた。だから異色のあとがきになっているはずです。

 また、そこにも書いたはずですが、六八年当時、ぼくは最初、BUMIDOM(ビュミドム)[海外県移民局。主にカリブ海出身の若者にフランス本土での職を斡旋する機関――編集部注]の事務所の近くに住んでいました。ある日、近所の行きつけのレストランに行くと、大騒ぎになっているので、どうしたのかと聞くと、BUMIDOMが黒人に占拠されて、中に白人女性が一人取り残されている、と。白人女性と黒人には、性的なコノテーションもあるし、みんなが恐怖を感じていたらしい。「奴隷貿易反対」という趣旨の横断幕も掲げられている。それでぼくが、占拠している黒人に近づいて、「何をしてるんです?」と訊くと、「いまフランスのあちこちで起こっていることが、ここでも起こっているだけだよ」と言って笑っているんですね。ところが、そこには一日半で警察が入りました。黒人たちは、実は学生たちにピケの応援を要請するために、占拠されているソルボンヌにも行ったんですが、学生は全然動かなかったそうです。

 中村 先ほど、ファノンの『地に呪われたる者』の話がありました。『余白の声』でも、暴力の問題がイスラム国(IS)のことなどに触れて出てきます。抑圧される側の人間が行使せざるをえない暴力、暴力に抗する暴力と言うべきでしょうか、そうした構造は現在でもあまり変わっていないのでしょうかね。

 鈴木 そうだと思います。ただ、ISの暴力がそのように作られたとしても、ISがやっていることを肯定するわけにはいかない。

 中村 鈴木先生の『アンガージュマンの思想』(晶文社)には、「アメリカの黒人たち」というエッセイが収められています。一九五八年に『新日本文学』に掲載されたものですが、これは鈴木先生がヨーロッパに行った後でアメリカに滞在した、そのときの旅行記のようなものです。

 鈴木 当時はアメリカ中南部のリトルロック高校で、白人と黒人の共学にかんする事件が起きた直後でした。だからアメリカの黒人の姿を観察したいと思っていました。が、勝手ばかりも言えないので、三カ月ほど、アメリカでのフランス語・文学教育の仕方などを見てまわりました。何でも開けっぴろげに見せてくれるし、行く先々で知り合いになる人たちが実に親切でした。最初にニューヨークで泊まったのは、黒人の夫と美しい白人の夫人のところでしたが、これはもうごく普通のことなんだとまず気づきました。シカゴでは、ドレイクさんという黒人の社会学の教授がBlack Metropolisという分厚い本を書いていて、「これを知っているか?」と問われたので「知らない」と答えると、「明日までに読んでこい」と言われた(笑)。本を開いて何とか見当をつけて、その翌日はシカゴの黒人街をつぶさに案内してもらいました。

 中村 その後、六九年九月には、ブラック・パンサー党員が来日していますね。

 鈴木 ブラック・パンサーって何だかわからないから、すごく怖い人たちかと思っていたら、意外に陽気な人たちでした。しかも彼らはまったく無防備でした。ブラック・パンサーのことは当時大きく報道されましたね。

 中村 去年は千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館で「1968年 無数の問いの噴出の時代」展が開催され、六八年を多角的に見る試みがありました。そこでもベ平連がクローズアップされていて、ベトナム戦争の脱走兵のことも、六八年の運動の一環として示されていたと思います。鈴木先生はアルジェリア戦争のときのフランス人の従軍拒否問題とまず出会いがあって、それからアメリカ兵の脱走支援活動のほうに関わっていかれます。

 鈴木 それは本当に偶然です。六七年にパリでフランシス・ジャンソンに会い、その体験を詳しく聞きました。彼はアルジェリア戦争のときに、フランス人でありながらFLNを支援し、従軍を拒否してフランス軍を脱走する兵士たちを外国に逃がす脱走援助機関を作った人物です。ところがその六七年に日本で、ベトナム戦争を拒否するアメリカ脱走兵の問題が出てきた。そのときにまず関わったのはベ平連で、「イントレピッド」という軍艦から逃げてきた四人の脱走兵を外国に送り出したのですが、それは後に「ジャテック」と呼ばれる「裏」の組織で、お金を集めたりする「表」の組織がない。その「表」の組織を担ってもらえないかと言われたのです。既に「イントレピッド四人の会」という名前までつけていました。ぼくはそれまでベ平連と何の関係もなかったんですが、彼らがそう言ってきたのは、おそらくぼくには何の党派の「色」もついていなかったからだろうと思っています。それで、高橋武智と福富節男とぼくが世話人になりましたが、ぼくが中心ということで、連絡先が自宅になっている。だから怪しげな電話が毎日かかってきて、危ないんですよ(笑)。ちなみに、その「イントレピッド四人」のうちの一人が、いまメキシコにいて、先日日本に来て講演をしたそうです。

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 ■なぜサルトルとプルーストと在日が結びつくのか

 中村 話を『余白の声』に戻しますが、本書で「アンガージュマン」という言葉が繰り返されます。狭い意味ではこれは「政治参加」ですが、必ずしもそれだけではないと何度か強調されています。一般的に「政治参加」という狭い意味でアンガージュマンを捉えている人にとっては、鈴木先生のお仕事の一方にサルトルがいて、もう一方にプルーストがいることが異質なものに感じられると思います。

 鈴木 サルトルとプルーストだけならまだいいかもしれないけれど、在日がありますからね。

 中村 なぜサルトルとプルーストが、あるいはなぜプルーストと在日が結びつくのか、改めてお聞かせください。

 鈴木 最初に私が飛びついたのはプルーストでした。端的に言えば「私」という問題に飛びついたんです。二十歳くらいの若者によくあることですが、「私」はぼくにとって呪縛だった。その「私」を考えたいと思っていたら、たまたまプルーストと出あいました。『失われた時を求めて』の第五章「囚われの女」で、語り手でも主人公でもある「私」がもし著者の名前と同一であれば「マルセル」ということになると書いてある。その他にもう一か所、同じようなシチュエーションで、恋人が「マルセル」と呼ぶ場面がある。あの長い長い小説のなかで名前が出てくるのはこの二度だけ、それもきわめて不自然な出方です。むしろあの小説の語り手は無名と考えた方がいい。そういうことは、ぼくのような初心者でも、字引きを引き引き読めばすぐ分かる。ところが、プルースト研究を何十年もやってきた人たちが、そういう問題について誰も何も言っていません。だからぼくはびっくりして卒論にそれを書いたのですが、その部分をフランス語に訳したらちょっと話題になった。とにかく、ぼくにはプルーストが最初にあったのです。

 その後で、フランスに留学したときに、サルトルの占める位置、その影響力が分かってきました。それまでもサルトルを読んではいましたが、留学後、日本へ帰ってサルトルを本格的に勉強しようと思って、すべてを読み直し、『サルトルの文学』(一九六三年)を書きました。そしてサルトルの植民地主義にかんする態度などにも惹かれて、在日の問題に入っていきましたが、そのサルトルは、実はプルーストから非常に影響を受けているのです。影響を受けているくせに、「プルーストはブルジョワ文学だ」なんて批判したりする。サルトルが日本に来たとき、ぼくは「あなたは実はプルーストに影響を受けているでしょう。プルーストがお好きなんじゃないですか」と訊いたんですね。そうしたら「おっしゃる通りだ」とサルトルは言っていました。サルトルはプルーストに強い関心があり、そしてその関心は、彼の若かった頃の流行の一つでもありましたが、こちらはずっとプルーストを読んでいて、面白いと思っていた。サルトルの「独自的普遍」という言葉をプルーストは使いませんが、プルーストは自分の経験をもとにして、当時の社会を普遍的な形で描きながら、そのなかで「私」というものを追究しています。だからプルーストは一種の「アンガージュマン文学」だとぼくは言っていますが、誰も賛成してくれない(笑)。ましてやプルースト研究家は「そんなことは知ったことか」といった態度ですが、ぼくにとってはそういう位置づけなんです。

 もちろんプルーストからだけでは、在日の問題は出てこなかったでしょう。でもサルトルがあって、自分の経験があって、プルーストも好きで、プルーストのなかにも、明示的には言わなくともそうした要素が含まれている。例えばユダヤ人についての描き方などは非常に面白いです。かなり切り込んで、ユダヤ人の「奇妙」なクセを描いている。

 中村 いまのお話を聞いていても、鈴木先生のお仕事に一貫しているのは、月並みな言い方ですが他者への想像力だと感じます。テクストであれ、向かう相手であれ、その人間がどのように考えているかにまず向かう。

 鈴木 それはその通りですね。『アンガージュマンの思想』にプルーストについて書いたものを収録しましたが、そこではカトリックとユダヤという二つのものに引き裂かれた存在として描いています。プルースト自身がユダヤの血筋の半分入った人間だし、反ユダヤ主義の荒れ狂った時代に成長しているのだから、プルースト理解にはユダヤ人研究が絶対に必要なのです。

 ――(編集部)言葉と行動という話がありました。私は3・11の後で街頭に出たような人間ですが、街頭行動は言葉の闘争、言葉と言葉のぶつかり合いでもあるという当たり前の事実を痛切に感じます。六八年もそうであったとは、お勉強としては知っていましたが、現場で直接それを感じました。

 鈴木 咄嗟に判断をしなければならないしね。

 中村 SEALDsなどの街頭デモでは、リズミカルに言葉を発するけれども、お行儀がいいというか……。

 鈴木 お行儀がいいから、そんなにマスコミに叩かれないでしょう。もうちょっと何かしたらいいと思うんだけど、それを上野千鶴子に言ったら、彼女はSEALDsのファンだから、「SEALDsに火炎瓶を投げろって言うの?」と言うんだけど、冗談じゃないよ、そういうことではない(笑)。もうちょっとやりようはあるだろうし、ラップ調もおとなしい。

 中村 彼らも何かの組織に属しているわけではなく、自然発生的にこういう活動をしていこうとして続けてきたんだと思いますが、様々な関係が切れているからこそ、デモの垣根も低くなって、いろんな人が参加できるようになった。その一方で、それ以前の街頭行動における闘い方が受け継がれなくなる側面もあります。

 鈴木 そもそもは「声なき声の会」ですよ。ベ平連はその流れの上に出てきている。ぼくが最初ベ平連に距離を置いていたのは、声なき声の会のようなおとなしいものなのではないかと思っていたからです。しかしベ平連のいいところは、ベトナム戦争に焦点を絞ったところです。声なき声の会は、よくわからないリベラルな層が集まっていた。焦点になる問題が解決すれば解散することがベ平連にはできるけど、他はそうはいかない。とはいえ、基本的にはベ平連も市民運動で、ぼくらがやっていたこともそうなのです。

 中村 最後の質問です。当たり前ですが、鈴木先生の肩書きは「フランス文学者」です。フランス文学者という肩書きが持つコノテーションが私のなかにはあります。それは「行動する学者」ということです。サルトルを代表例として、行動すること、時代と関わることが、「フランス文学者」という肩書きに内実を与えてきたのだなと思っています。

 鈴木 編集者は最初、必ず肩書きに大学の名前を求めます。ぼくは一橋大学に三一年間いました。そのときからものを書き始めましたが、「一橋大学講師」とか「助教授」という肩書きで書くのが嫌だったんです。それで、おこがましくも「フランス文学者」と名乗ったんです(笑)。それ以来、大体その肩書きで通してきている。もともとどこの大学の「准教授」だろうが「教授」だろうが、それが自分を規定するものにはならないでしょう。

 (了)