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 ◆ 3353号(5月26日発売号掲載)

憑依者の自画像

――描写と断片の人、ミシェル・レリス
対談:谷昌親×千葉文夫

 ■平凡社から刊行されていたミシェル・レリスの『ゲームの規則』が、この二月の『囁音』の刊行によって完結となった。シュルレアリスム、民族誌などの多岐にわたる活動から、レリスはいかにしてこの大著を書いたのか。全四巻からなる本書をめぐって、このたびの翻訳に携わった千葉文夫氏と谷昌親氏に対談していただいた。(対談日・四月二三日、新宿区・高田馬場にて〈村田優・本紙編集〉)

 ■レリスをレリスとして読むとき

 千葉 最初にミシェル・レリスの『ゲームの規則』第Ⅰ巻が『ビフュール』というタイトルのもとに刊行されたのは一九九五年で、そのときは筑摩書房から出ました。今からだと四半世紀近い時が経ってしまったことになる。訳者の岡谷公二さんは四巻すべてを刊行する予定でしたが、出版事情などの関係もあり、この一巻だけのまま宙ぶらりんになってしまいました。それでも岡谷さんは超人的なエネルギーと熱意をもって仕事に邁進し、平凡社の編集者である松井純さんと話し合いながら刊行を進めようとしました。新たに『ゲームの規則』全四巻刊行の企画を立てたのは、谷さんも四巻目のあとがきで触れていましたが、もう一〇年ぐらい前だったようですね(笑)。だから、『ゲームの規則』完結までに非常に長い時間がかかってしまいましたが、レリス作品の翻訳作業が非常に難しかったこと、全四巻の大著ということで分量が多かったことなど、致し方ないという面もありました。

 第Ⅰ巻『抹消』の原書は一九四八年に出ました。その後、五七年に第Ⅱ巻『軍装』、六六年に第Ⅲ巻『縫糸』、そして七六年に第Ⅳ巻『囁音』と続きます。私にとってのミシェル・レリスは半分同時代の作家で、『囁音』が出た翌年、私はフランスに留学し、そのころの彼は盛んに文章を書いていたわけです。私自身はこれまでレリスの遺言と言ってもよい『角笛と叫び』(一九八九年)を翻訳し、谷さんも『オランピアの頸のリボン』(一九九九年)を訳しましたが、それも大分時間が経ってしまったなかで、このたび『ゲームの規則』によってレリスと再びつながりを持ったことになる。今回の翻訳に関わって私が痛感するのは、研究者としてこれまでレリスと向き合っていたときは、自分の研究テーマに従って都合のよい部分だけを読んでいたかもしれない、ということですね。実際に翻訳するときは、汚い下着なんかが散らばっているような部屋に入り込んで付き合わなくてはならず、辟易するところもないわけではありませんでした(笑)。ただ、そうやってレリスと向き合うことではじめて感じたことや見えたこともあるような気がします。たとえば、私にとって興味深かったのは、アメリカ人小説家のリディア・デイヴィスがレリスにすごく入れ込んでいることで、彼女は八〇年代にレリスと会っていて、これまで『ゲームの規則』だけでなく、評論集『獣道』の翻訳も手がけています。また、デイヴィスはプルーストやフローベール『ボヴァリー夫人』の英訳もしていて、本格的なフランス文学のなかにマイナーな存在ではなく一作家としてレリスと付き合っていて、アメリカにこうした読者がいるのかと思いました。ある意味で我々にとって心強い存在ですね。

 このたびの仕事はやはり岡谷さんの功績なくてはありえません。『ゲームの規則』の翻訳では我々を誘ってもらいましたし、岡谷さんのレリス作品との関わりについても考えなければならないと思います。

  ミシェル・レリスの翻訳がどのように出ていたのか少し調べましたが、六八年に岡谷さんも共訳として関わった『黒人アフリカの美術』が最初の刊行だったと思います。その後、七〇年から「ミシェル・レリスの作品」が四冊出て、そのなかで七二年に出た『日常生活の中の聖なるもの』は岡谷さんの翻訳です。さらに七四年に『夜なき夜、昼なき昼』、七六年に『成熟の年齢』、『闘牛鑑』と続いていって、この時期にかなり集中して日本語で翻訳が出たことになりますね。これは僕が高校時代から大学に入るときにあたり、そうした翻訳を見ながら後に自分の卒論の対象としていきました。

 今から振り返ってみると、日本におけるレリスの導入のされ方は作家にとってわりと幸福なかたちで行われてきたのではないかと思います。当時はレリスについての情報があまりなかったと思いますが、それでもよい翻訳者がついていました。岡谷さんはもちろんレリスに関心を抱いていくわけですし、『成熟の年齢』の訳者である松崎芳隆さんはミシェル・ビュトールの翻訳者でもあり、ビュトールにレリス論があったことから翻訳を手がけたのだと思いますが、訳文もよく、さらに丁寧なあとがきまでついていて、僕も学生のときに参考にさせてもらいました。ただ、一方でその時代のレリス観は、ジョルジュ・バタイユの友人という側面が強かったんじゃないかと思います。レリスが日本語に訳された背景も、当時のバタイユに対する興味から出たものかもしれません。

 そういったなかでも、レリスの主要作品である『ゲームの規則』がⅠ巻しか出ていない状況が続いていて、欠落感みたいなものがありました。今回の翻訳でその欠落部分を埋めることができ、なおかつバタイユの友人だとかシュルレアリスムの一人だとか、あるいは民族誌学者兼文学者といったレッテルを剥がして、レリスをレリスとして読むことがある程度できるようになってきたのかと思います。読者だけでなく、若い研究者も増えてきているなかで、古い世代がある種の色眼鏡でもってレリスを見ていた部分を、もう少しレリス自身にフォーカスして読むことができるようになってきたという背景もあって今回の翻訳が出せるようになった気がします。

 千葉 いろいろな判断ができると思いますね。レリスが遭遇したことが現在では歴史的な問題になっていて、たとえば第Ⅲ巻『縫糸』では革命中国の話が出ていますが、今の読者から見るとあまり実感がない。かつて左翼知識人たちが信じていた革命という面において、その文章はある種のアクチュアリティを失ったところもありますが、サルトルやカミュと違って、レリスの場合はアクチュアリティで読んでいない部分のほうが大きいです。だから、今読んでも別にそんなに古くなっていないんじゃないかと感じます。

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 ■断片を言葉の力でつなげていく

 千葉 『ゲームの規則』は全四巻で、各巻の題名をそれぞれ日本語で二文字の漢字で表しました。これはかなり過激なことをやったのではないか。第Ⅰ巻『抹消』は、フランス語での原題はBiffuresで、岡谷さんはそこにはbifur――分岐、二股に分かれること――という言葉が潜んでいると繰り返し指摘しています。原題からして非常にダブル・ミーニング的な、言語遊戯的なタイトルですね。Ⅱ巻の『軍装』、これは題名をつけるのが難しかった。スッと落ちない、少し異様な感じがありますが、これ以上にいい言葉はありませんでした。もともとはfourbisという言葉で、「がらくた」や「物置」といった意味合いを持ち、これもⅠ巻同様二重性がありますね。この二冊の翻訳は岡谷さんが担当しました。

 最初の『抹消』は一九三〇年代から執筆していて、本書の冒頭「……かった!」の章で、おもちゃの兵隊がテーブルから落ちたとき、それが壊れていなかったのでフランス語で“heureusement”(「よかった」)と言うべきところを、“…reusement!”と幼少期のレリスが言い、周りの大人にそれを注意されたことがショックだったと語っています。これは幼少期の言葉の記憶を辿って、思い違いなども含めて言葉が喚起するものを執拗にたぐり寄せ、言葉を中心に世界を再構成していくというレリス的な回路が非常によく出ているはじまりです。次の『軍装』でも引き続き幼少期の記憶や言葉を辿っていく部分がありますが、兵役の際に訪れたアルジェリアで出会った娼婦ハディジャについて中心に語り、最後はヴェルディのオペラ『アイーダ』の場面と重ねて終わっています。Ⅲ巻目『縫糸』は私が訳しましたが、一九五七年にレリスが自殺未遂事件を起こして、その前後の流れが非常に濃厚に投影された一巻です。五五年に中国を訪れたことからはじまり、自殺未遂を経て療養後、もう一度執筆作業に復帰していく筋になっている。そして第Ⅳ巻『囁音』になると展開ががらりと変わっていて、果たしてこれを全四冊の作品と呼べるかどうか、それぐらい違いますよね。

  作品の完結にとても時間がかかっていますので、全体としてまとまりがあるのかと言われるとどうかと思いますが……僕は今回の翻訳ではじめて巻ごとでなく通して『ゲームの規則』を読みましたが、これまでと少し印象が変わりましたね。最初の二冊を岡谷さんが、あとの二冊を千葉さんと僕が訳しましたが、最初の二冊とあとのものではちょっと書き方が違います。最初はある意味で『成熟の年齢』の書き換えという気がするのですが、『成熟の年齢』でレリスは文学者としての道を見つけたのだと思います。そこから『ゲームの規則』に取り組んだときに『成熟の年齢』を言葉とのかかわりのレベルでやり直したのが『抹消』です。『抹消』も『成熟の年齢』と同じ幼年期を扱うのですが、ここでは言葉の問題が前面に出てくる。その一つはシュルレアリスムの時代の言語観から抜け出すことです。当時彼は言葉が絶対的でそれしかないような唯名論みたいな立場にいて、それが前衛的な言葉の使い方につながっていくという、ある意味で過激なことをやっていたわけですが、そこからの脱却です。

 僕自身が全体の流れを簡単に述べるとすると、『抹消』では記憶や実人生との関係と結びつけるかたちで言葉を考えようとしたのだと思います。Ⅱ巻目の『軍装』ではそれを幼年期から青年期、中年期と、書いているレリス自身の年齢に自身を近づけていった。それに対して第Ⅲ巻『縫糸』になってくると、先ほど千葉さんが触れた自殺未遂のことが大きく出てきますが、一方で『ゲームの規則』のまとめにも入っていきます。そのことによって、書くという行為を見直す一種のメタレベルが作品に入り込んでいった。創作時の段階でそこまで考えていたわけではなかったかもしれませんが、三冊目の時点でまとめに入ってしまったので、第Ⅳ巻では拾遺集みたいに残ったもので作品を組み立て、なおかつ形式も新しいものでやらなくては成り立たなかったのではないでしょうか。

 千葉 一読者の実感として、作品として第Ⅱ巻が一番完成されていたような気がします。構成もきれいに章を三つに分かれていてわりと古典的なつくりになっていますし、文章も芸術的な彫琢が非常に行き届いています。一方、訳す前は第Ⅲ巻が完成された巻だと考えていましたが、翻訳者として実際には破綻がすごく目に映りました。特に文章の反復ですね。レリスはⅡ巻後から一〇年ぐらいのあいだ、自分の書くものがどうしても反復にならざるをえないことをすごく意識していました。やはり逝き過ごしてしまったということがいろんな文からにじみ出ているように思えます。ある意味では第Ⅲ巻は破れかぶれのまま出たものではないか。まとめに入っているようだけれども、全然まとめになっていない。本書のあとがきで、訳しているときにベートーヴェンの最晩年の作品『ディアベリの主題による三十三の変奏曲』が繰り返し頭に浮かんだと私は書きましたが、あれは嘘偽らざる実感です。これも本当によくわからない曲なんですが、晩年のベートーヴェンが抱いていたようないろいろな思いがレリスの小説にも繰り返し出てきているように感じました。それがある種の強さというか、執拗な力、反復力みたいなものとしてよく表れている。この話、前にも出てきたよね、と思いながらもしっかり付き合っていき、それを何度か繰り返すにつれて、うまく整理できない新たなレリス像が少し見えてきましたね。これは私が今までお目にかかれなかった姿です。

  それはⅢ巻目の特徴でもありますね。『縫糸』はそもそも自殺未遂の話で、その回復期にいろいろ幻覚を見たことが描かれていて、支離滅裂とまではいきませんが、どこまでが事実でどこまでが幻想なのかわからない話がどんどん続いていく。ある意味で書き方のレベルの破綻と重なっているように思います。

 千葉 レリスが民族誌に興味を持ったのは言語への関心とエチオピアの女たちの共同体の憑依現象ですよね。この二つはレリスにとって他人事ではなく、憑依現象は距離を取って分析的に取り組むと核心が吹き飛んでしまいますが、逆になかに入りすぎてしまうと訳のわからないままうまく相対化できない。だから距離をいかに取るかという問題が出てくるのですが、Ⅲ巻の執筆に際しても自殺未遂から回復する過程をレリスがきちんと整理してしまえば、自分自身が見えなくなってしまうと思います。本書ではそのあたりが微妙なかたちでブレンドされている。レリスはここで、憑依や幻覚、夢といった、自伝では追及しない内的な生のほうへ向かっていく書き方をしたのではないか、あるいはこれ以上書くことができないところまでいったのだと思います。ただ、だからそれが傑作だというわけではないし、うまく書かれていると言うつもりもありません。

 Ⅳ巻の方向転換については、Ⅲ巻の最後は「詩」(ポエジー)という言葉で終わっていますが、ここで書き方の流れを変えたのだと言えます。また、レリスが自殺未遂の後、クロード=ベルナール病院で『生ける灰、名もないまま』に収められることになる詩篇をノートに書いていて、本人の意識が詩のほうに強く進んでいくんですね。Ⅲ巻を訳した私から見ると、Ⅳ巻はそれに対する答えとして表れたのだと思います。つまり、レリスにとって詩のあり方とはこうだ、という一種の転回なのではないか、と。

  おっしゃるとおりで、第Ⅳ巻では詩というものが全面に出てきますね。ただ、彼のなかではそういった問題意識はそれまでもずっと持っていて、Ⅱ巻でⅠ巻を振り返っている箇所があったと思いますが、散文形式で書いていたある場面を行替えみたいに切っていくと詩に近いものになったと述べていて、ここからも詩に対するこだわりがあったことがわかります。ただ、それがⅣ巻であのような形式として表れたのが面白いところで、やはりⅢ巻までで自分が最初からやろうとしていたことをある程度書いてしまい、残り物でなんとか取り組んでいくときにどうしようかと考えた。『成熟の年齢』を書く時点で一種のモンタージュみたいなものをレリスは希求していましたが、そう言いながらもそのときはモンタージュの全体像が見えていたと思います。しかし、『囁音』では全体図が見えないなかでやらなくてならないので、断片を断片としてつなげざるをえないことになっていった。それがはからずも、彼が考えていた詩というものに近づいていったと言えるかもしれません。たしかにⅢ巻での省察を受けてという部分はありますが、最初からそれを狙っていたというより、取り組んでいくうちにそうなっていったのだと思います。

 千葉 先ほど言ったⅡ巻が完成されているんじゃないかということと関係してくるかもしれませんが、Ⅲ巻には「ラ・フィエール、ラ・フィエール」というタイトルがあって、中身もそれぞれⅠ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳとローマ数字で章分けされているので連続して読むことができるけれど、実際は場面がなかなか続かないですぐに話が終わってしまう。つまり、やはりレリスは根本的に断片の人で、断片をうまくつなげてソナタ形式のように展開させるのではなく、それをただ並べるタイプの作家のような気がします。そうした素質がよく出ているのは『囁音』の他に『オランピアの頸のリボン』、『角笛と叫び』といった作品でしょう。

  少なくともある時期までは、断片をいかにつなげていけるか、ということにもレリスは関心があったはずです。普通ならつなげられないところでも言葉の力でつなげていったのだと思います。それもまた面白く、だからこそ読ませる文章でしたが、それがⅣ巻を執筆しているころになると限界に辿り着き、そこでなにか新しいことをやろうとしたわけです。むしろ読者が断片と断片のあいだをつなげていかないといけなくなり、逆にいろんな読み方が可能にもなります。

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 千葉 谷さんとしては今回の翻訳はどうでしたか。岡谷さんは翻訳をすいすい進めていましたが、なにか苦労したところがあるかと思います。第Ⅲ巻は言語遊戯的な文章は比較的少ないけれども、第Ⅳ巻は書体の変化も含めて、声もスタイルも違う。また、『ゲームの規則』はいわゆる連作で、レリスの生の連続性が表れており、特に第Ⅲ巻まではそれを強く感じますね。過去を書き直すわけではなく、その上に重ね合わせて書いている。それはⅣ巻目でも同じでしょうか。

  たしかに『囁音』にも少年期や青年期のエピソードがあり、そういう意味では連続性なのかもしれません。しかし、本全体のなかでは、断片の問題もあり、むしろ非連続性が際立っている。Ⅳ巻では三人称が使われていたり言葉遊びばかりの文章が並べられていたりして、ある意味で別人格の人間が書いたような箇所が見られます。ただ、言葉遊びの翻訳に関しては逃げのかたちでしか扱えなかったのがもどかしく、第Ⅰ巻の「……かった」のエピソードから見ても言葉の問題がレリスにとって核の部分であったにもかかわらず、ルビを振るぐらいでしか日本の読者に面白さを伝えることができませんでした。

 千葉 そう考えると、岡谷さんは非常にうまく訳せていると思いますね、その「……かった」のエピソードが簡潔に、直感的に言い表している。

  ところで、先ほど夢や幻覚の話がありましたが、レリスはもともと夢に興味があって、『夜なき夜、昼なき昼』といった夢ばかり集めた作品もありますよね。『ゲームの規則』にも夢の話がたくさん出てきて、さらに記憶を辿っていくなかで記憶違いが起こりながらもどんどんそのまま書いてしまうことがある。本人はそうした作品を自伝的エッセイ、告白だと言い、一般でもレリスを告白の専門家などと呼んでいますが、そういう枠でくくっていい作品なのか、僕は個人的に疑問に思っています。夢や幻覚はやはり自伝では普通扱うものではありませんから。また、『ゲームの規則』では「私」という一人称を使っていますが、そこでの「私」は社会的な意味からこぼれたもの、外れたものですので、一般的な自伝としての「私」とも違う。フランスの文学史のなかではよくルソーなどと比べられるけれど、今回訳してみてやはり自伝とはちょっと違うものだと感じました。むしろレリス作品は日本の私小説に近いんじゃないか。

 千葉 そうですね。たしかにフランス文学に詳しい人ほど、レリス作品を自伝文学の傑作だと言う傾向がある。自伝文学の研究というものがフランスにおいて、特に一九八〇年代から非常に盛んにされるようになった経緯があって、アンドレ・ジッドやロラン・バルト、ある時期のヌーヴォー・ロマンの作品などを組み込みながら自己回帰、自己投影としての文学について考察し、そのなかにレリスも入れてしまった。ところが、フランスにおける自伝文学の第一人者であるフィリップ・ルジュンヌは博士論文でレリス論を書いていますが、『ゲームの規則』はⅠ巻とⅡ巻しか言及していません。つまり、Ⅲ巻、Ⅳ巻を入れてしまうと論として成り立たなくなると思ったのでしょう。このように、読めば読むほどレリス作品は自伝とは異なると考えるようになっていく。岡谷さんもそんなことを言っていましたし、私もそう思いますね。もちろん簡単に「自伝じゃないなら、じゃあなんなの?」「これだ!」と言える問題ではありませんが……。

  レリス作品の、特に『ゲームの規則』で通じて出てくるものとして、旅のエピソードが大きなウエイトを占めていますよね。彼のなかで「私」ということを考える一方で、「旅」という、外に出ていく行為との関係が常にあって、普通に考える以上につながりがあるような気がします。先ほど出た夢や記憶違い、あるいは言葉への異常なこだわりも、通常の「私」ではない、自分に見えない「私」に入っていき、それがやがて外に開けていくことを意味しているように思えますし、あるいは旅によって未知の自分を発見しているとも言えます。このあいだ、朝日新聞で鷲田清一さんが連載している「折々のことば」に、千葉さんが訳した『グレン・グールド――孤独のアリア』からの引用――「遠くからやってくるものほど、私の内奥に触れる」――がありましたが、その「遠く」というものと、自分が知らない「私」の響き合いをレリスにも感じるわけで、普通の自伝にはない「私」を書くことで、「私」の外に出ようとしたのではないかと思います。

 千葉 同時に、旅の挫折みたいなことも書かれていますね。中国へ行っても、エジプトやギリシアに行っても、結局なにも変わらなかったとレリスは考えていました。レリスにはそうしたグロテスクな自分に対する自己観察がある。

  レリスにとってそれも含めての旅です。『幻のアフリカ』もどんどん不満を募らせて、民族学者のマルセル・グリオールと喧嘩してしまうんですけれど、これもある種の自己発見だと言えます。単に旅をして楽しかっただけではなんの発見にもならず、つまずくからこそ自己を見出すことができる。

 千葉 また、普通の自伝だと連続性や人生の教養小説のような展開といった物語的な流れがありますが、『ゲームの規則』ではまるで絵みたいに断片として話が進んでいきますね。他の作品にも言えますが、これをポートレート的な、自画像的なエクリチュールだと捉えることができ、ここ最近レリスを読むと、私は自画像とartiste――芸術家/芸人――との関係についてつい考えてしまいます。レリスは自画像としての存在を瞬間的に見出すだけでなく、それを自分自身とダブらせているような気がするわけです。たとえば、レリスは子どものときに見たインチキ手品師を自分と重ね合わせ、記憶として文章として書いたりしています。自己を芸人として、そのポートレートを的確に描写していく。

  レリスは憑依を演劇的に見る論文を残しているように、芸人的なものと憑依することはつながっているのではないでしょうか。それは一種の別人格というか、日常生活を生きている自分とは別の人格が芸人というかたちで立ち現れたのかもしれません。

 今回の翻訳書についていろいろ感想をもらうなかで、バタイユの研究者から「レリスは難解なんでよくわかりません」と言われたりしました――僕からしたらバタイユのほうが難解だと思うのですが(笑)。レリスの言っていること自体はそこまで難解ではないけれども、やはり書き方の部分でそう思われているのではないかと考えます。バタイユの友人ということで同じくくりで見られがちですが、文体もそうですし、堂々巡りしている描写などはレリス独自のもので、バタイユとは決定的に違うところだと言えるでしょう。

 千葉 フランス文学に詳しい読者がレリス作品を自伝文学の傑作だと言ったり、一方でバタイユの思想的な部分に着目している読者が『ゲームの規則』にうろたえたりするわけですが、逆にそれは別の読み方を可能にしてくれることを意味しています。レリスに対してこれまでちょっと無知だったり感性が鈍かったりした部分もあるかもしれませんね。

 バタイユだけでなく、レリスはシュルレアリスムやサルトルともつながりがありますが、岡谷さんや谷さんが研究しているレーモン・ルーセルとの関係について特によく聞きますね。バタイユと違って、ルーセルの読者がレリスを読むとスッと入り込めるように思えますが、そのあたりはいかがですか。

  そうですね……ルーセルとレリスは真逆の書き手ですが、ルーセルもある意味で断片の人でして、エピソードがどんどん語られるだけで全体をつなげる太い物語が書けなかった。ルーセルはジュール・ヴェルヌになりたいのになれなかった作家ですから、そこはある意味でレリスと似ています。あと、言葉に対するこだわり方で両者はつながっている。ルーセルもまた独特の手法を用いて、普通ならば結びつかないものを言葉遊びによって結びつけ、飛躍させていきました。レリスも日常において関連づけられないものをつなげていきましたが、どちらも一般的な視点からするとかなり変わって見えます。

 千葉 岡谷さんがあとがきに書いていましたが、『抹消』の「ペルセポネー」の章における円筒式蓄音機の細密な描写は、ルーセルの『ロクス・ソルス』の撞槌付き気球や『アフリカの印象』の水車式織機といった架空のへんてこな機械の描写と似ていますね。ただ、レリスはルーセルと異なり現実のものを想定して微に入り細を穿つ書き方を試みているので、結果としてルーセルにおける純粋な空想上の産物とレリスにおける現実の精密描写がわりと近い関係になっているのは面白いと感じました。

  ルーセルも描写の人なんで、延々と書き続けていきます。日常的にはありえない機械や変な出し物、さらに『眺め』という詩集では写真や絵の光景をただただ描写している。レリスの場合、たとえばⅠ巻冒頭のおもちゃの兵隊が落ちたというだけの話でも、まず部屋の様子からはじまり、周囲のことなどをものすごく細かく書いていますね。これによって書いている時間と書かれている時間の言葉のズレだけでなく、物語やレリス自身のその経験にも大きな意味を持たせることができるので、両者とも言葉、描写の力を感じさせます。最近は描写があまりない小説が多いなかで、レリスの作品はある意味で新鮮なのではないか。

 千葉 研究者としてはいろんな意見があるでしょうが、先ほど谷さんが述べた言葉を借りるならば、今回は未知なる日本の読者に向けて翻訳したと言えます。というのも、個人的にレリスに関しては保坂和志さんの印象が大きくて、以前『レリス日記』を翻訳したときに保坂さんが面白いと思ってくれたのですが、私自身は実を言うとその翻訳になんの意味があるのかよくわからなかった。読みたい人はフランス語で読むだろうし、著名なシュルレアリスムのフランス人研究者もよい本だと思っていなかったようですが、保坂さんは真逆で、レリスは作品よりも日記のほうが面白いとまで言った。これは私にとって驚天動地でしたね。本書でも、多くの人が洗練された研究を崩すような野性的な読み方をしてくれたら、と思います。

  よく、レリスは延々とモノローグを続けているといった受けとめ方をされるのですが、たしかにモノローグのように見えるけれども、自分自身との、それも他者として自分とのダイアローグなのだと思います。たんに過去を回想しているわけではなく、それこそ精神分析医の診療室で長椅子に身を横たえて自由連想的に過去の記憶をたぐりよせているようなところがあり、だからこそ夢や幻想のようなことも語られる。つまり、自分にとって未知の自分を探ろうとしている。しかも、そのようにして語る自分を観察するもうひとりの自分がいて、精神分析医のように注釈をほどこす。だから繰り返しが多くなる一方で、先ほども言ったメタレベルのようなものも入ってくるわけです。要するに、二重、三重に自己という他者と対話を試みているのが『ゲームの規則』という本だと言えるかもしれません。そのように一種のダイアローグとして、しかもある意味ではけっして終わることのない、未完のダイアローグとして開かれているからこそ、僕らはレリスの文章に惹かれ、そこに読者として参加したくなるのでしょう。しかもそうした自己との向き合いでレリスが最終的に目指すのは、言語が社会的な規範に組み込まれてしまう以前の世界、つまり「よかった」ではなく、「……かった」の世界です。それは制度化された言語では描けないはずの世界で、だからこそ先ほども話があった異様に細かい描写が出てきたり、言葉遊び的な意味のズレにこだわったりする。そこで問題になっているのは、それこそ野性的な世界や思考ですが、僕らはそうしたものを普通は忘れ去っているけれども、どこか根っこの部分でまだ持っていて、それでノスタルジーのようなものも感じる。だからこそ何十年も前に書かれた本であっても、新しい読者を引きつける力があると思います。千葉さんがおっしゃるように、そうした新しい読者には、ぜひ野性的な読みをしてほしいし、それがレリスを読むにはもっともふさわしい姿勢だと言えるのかもしれません。

 (了)