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紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

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「図書新聞」の紙面で紹介した書評や、対談記事をご紹介します。【週1回更新】
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 ◆ 3356号(6月16日発売号掲載)

景色の中に埋め込まれた過去と未来を訪ねて、小高へ、小岩へ

インタビュー:島尾伸三氏

 ■写真家の島尾伸三氏の『増補新版 小高へ――父 島尾敏雄への旅』(河出書房新社)が刊行された。父祖の地である福島県南相馬市小高区は、二〇一一年三月一一日に起きた東日本大震災で地震と津波に襲われた。さらに福島第一原発の爆発によって高濃度放射能汚染区域になった。島尾氏はこの小高から、父である作家・島尾敏雄一家の移動の記憶をたどって、生まれた神戸、家族と過ごした東京の小岩、奄美大島、父と訪ねた沖縄へと、これまで旅を重ねてきた。そうしてふたたび、小高へと戻っていく。今夏には続編の『小岩へ』も刊行の予定である。『小高へ』とともに、小岩への記憶をめぐって、島尾氏に話をうかがった。(5月9日、東京都世田谷区にて。聞き手・米田綱路〔本紙編集〕) 母が言った

 ■母が言った「私の一〇年を返せ」

 ――『小高へ』には家族の写真をはじめ、訪ねた土地々々の写真がたくさん収められています。写真を撮り始めたのはいつ頃からですか。

 島尾 生まれて初めて自分の写真機を持ったのは、小学三年の後半だったと思います。母が「婦人画報」に載っていた、フィルムが入る子ども用のおもちゃのカメラを買ってくれた。半年ぐらいしたら、こんどはフジペットという子ども向けのカメラが発売された。フィルムが六センチ×六センチのブローニーサイズで撮れるものでしたが、小遣いを貯めて買い、写真を撮り始めました。

 最初は友だちや家族を撮りました。運動会に行っても競技の様子を撮るのではなく、見るでもなくごろごろしている友だちや、たむろしている小学校入学前の子どもたちを撮ったりした。知り合いの写真屋さんにフィルムをもらったり、新聞社が使っていたトライXの期限切れのものを記者の方からもらったりして、それで撮っていました。現像は父が現像に出す時にまぜて現像してもらった。プリントは作らず、ネガを眺めていました。

 やがて、そんなこともすっかり忘れてしまったけれども、いまだに同じことをしているのかな、と思うことがあります。写真を記録の道具にしようというのではなく、自分が興味のあるところを撮って、また眺めて、撮った時の気分をもういちど思い出したりする。そんな、見物したことの副産物として写真がある。そんなふうに写真を見ていると、生き物が静かに生きているところや、物が静かに置かれているようなところが、自分は本当に好きなんだなと気付いたりします。

 ――記録としての写真ではなく、撮ったものの存在感や、撮られた時の気持ちや記憶を確かめる写真ということでしょうか。

 島尾 そうですね。記録性ということに強くこだわる写真ではないです。

 自分が生きている同時代の人に強くアピールすることを目指している人の写真に、もし記録性がなかったら、時がたつと何が写っているか分からなくなってしまって、ゴミになる。たとえば女の人の裸は、時代によって好みが動くし、より面白いものが次々出てくるはずだから、ある普遍性を持っていない限りは、どんどん古びていく。

 そういう運命にある作品が、リアリズム写真が終わった後の写真には多いのではないでしょうか。それが良いか悪いかは、また別ですけれども。時代に呼応していくことが社会性だという考えもあるのでしょうけれど。

 では、記録性があれば良いかというと、そうとも言えない。すごく観念的になっていって、撮ったのがいつの時代か、何が写っているのか分からなくなっても、ものの考え方として、ある普遍性を持っていたりする写真を求めている人もいると思います。

 ――大学では写真を専攻されたのですか。

 島尾 東京造形大学に入って最初は映画を専攻したのですが、気に入らなかったんです。映画を作っているという雰囲気に酔いしれているのが、たまらなく嫌でね。これではやっていけないと思っていたら、そんな我儘な人は写真がいいと友達に言われて、写真にしました。でも、まさか写真を専攻するとは思わなかったですね。

 記録性ということで言えば、私は見聞きしたことを写真ではなく、文字で記録してきたところがあります。小岩(東京都江戸川区)に引っ越してすぐ、四歳になった頃ですが、ある日、父と母が論争していて、母が父に向かって「私の一〇年を返せ」と言ったのです。

 その時に私は、どういうふうにして返せばいいのか、無理ではないかと思った。他方で、自分は四年間しか生きていないので、思い出すことも、自分が知っていることも、経験もあまりに量が少ないし、母が軽く一〇年と言ったことには遠く及ばないと思いました。

 それで私は、ああそうだ、字を書きたいと思っていたんだ、と気付くのです。見聞きしたことを記録したいと思った。でも、誰も私に文字を教えてくれない。その頃は母と父の生活が混乱していたから、ご飯もほとんど作っていないし、私は病気がちになった。妹はよその家でご飯を食べるから病気にならないのですが、私はよその家でご飯を食べることができなかった。押しかけていって「いただきます、ごちそうさま」と言えなかったのです。

 だから、すぐに死ぬと思った。でも、もう少し大きい小学五、六年生までは生きていたい。その年で死んで魂になったら、成仏しないで、そのぐらいの背丈から人間の社会を見て歩こうと思った。

 それは私が写真を撮る動機と、少し似ています。社会と深くコミュニケーションをとるのではなくて、人間をそのぐらいの背丈から見物して歩いている。蟻塚の中に潜っていくような感じですね。

 ――島尾ミホさんが「私の一〇年を返せ」と言われたのは、結婚前からその時までの時間を返せ、ということだったのですか。

 島尾 ええ、でも小さな子どもにしてみれば、どうやって返すのかと思いますよね。そんな無茶な話はない。ですが両親の言い争いによって、私は自分がこれからどんなことに興味が向くのか、何をやりたいのかが少し分かるようになりました。

 たとえば小岩に住んでいた頃、家族でどこかへ出かけるでしょう。小岩駅から総武線で御茶ノ水駅まで行き、中央線に乗り換えて中野方面に行くこともあるし、秋葉原駅で電車を乗り換え、都電に乗って出版社に行くこともあるし、母と一緒に銀座に出ていくこともある。

 それが、電車の中で両親が喧嘩を始めると、母はどこの駅も関係なく電車を降りてしまうんです。すると父は私に「伸三、マヤを頼むぞ」と言うなり、自分も降りてしまう。電車の中には四歳と少しの私と、二歳と少しの妹の二人だけが残されました。

 戦争直後の、まだ世の中がぐちゃぐちゃな時代です。ルンペンもいるし、敗残兵もいる。浮浪児も泥棒もいっぱいいます。その人たちは持っているものを奪い合って生きていますから、小さい子どもが二人でうろうろしているのを見ると、金目になると思ったら連れていかれるし、身ぐるみはがれて電車の外に放り出されてもおかしくない。

 私はまだ字が読めなかったから、景色は家に帰り着くための大事な情報源でした。駅の景色や周りの風景を見ながら、なんとか小岩に帰るわけです。とにかく秋葉原駅に到着しさえすれば、総武線で小岩に帰ることができる。だから、何が何でも秋葉原駅にたどり着こうと思っていました。まちがって上野駅や東京駅にでも降りたら、もう大変です。地下の連絡通路には,ルンペンや、私と同じ年頃から中学生くらいの浮浪児がずらっといるんだもの、とても怖かった。

 秋葉原駅は重層的な構造ですが、当時は戦災で穴がぼこぼこと開いていました。小岩に帰るためには、フロアをいくつか上がらないといけないのですが、その目安は蒸気機関車が貨物を引っ張って走る線路でした。蒸気機関車が煙を吐いて通ると、煙が上のホームに行くでしょう。その煙が出てくるホームにたどり着けば、小岩に行く電車が分かる。

 だから秋葉原駅に行くと、蒸気機関車が走っているフロアを見つけて、その上のプラットホームに行く。ミルクスタンドのあるホームに出ると、小岩に行く電車が来る。ミルクスタンドのないホームは逆方向です。私は子ども心にそう覚えていました。

 小岩駅は一階建てで、駅前にはロータリーがありました。そのロータリーを通って映画館の脇の道を行くと、私の家があったのです。

記事掲載はここまで。続きは本紙でお楽しみください。
7月上旬以降、全文掲載予定です。

歴史の曲り角にはつねに流血の事態がともなっていた

――パリで起きた流血事件の歴史的変遷を追跡し叙述
評者:杉村昌昭

 ■「呪われたパリの歴史」とはいささかエキセントリックな表題だ。パリは何に呪われているのだろうか……。しかし原題は《Bloody History of Paris》、つまり「パリの流血の歴史」。パリで起きた宗教戦争、反乱、暴動、闘争などによる「流血の歴史」を「古代のパリ」(パリの成り立ち)から「現代のパリ」(最近のテロ事件)まで通史的に叙述し、図版(絵や写真)をあしらった歴史書である。

 パリといえば、日本のマスメディア(とくにテレビ)ではこれまで、芸術や料理、壮麗な歴史建造物などの紹介が主流であった。二十一世紀に入って(二〇〇五年)、郊外の若者たちによる暴動が起き、二〇一五年には「シャルリー・エブド」襲撃事件、さらに「バタクラン劇場」襲撃事件と、立て続けに流血事件が起きて、これらの事件はセンセーショナルに報道されたが、それも束の間、今ではまた元の「芸術と美食の都パリ」のイメージに先祖帰りしている感がある。

 他方、一年前のマクロン大統領誕生後は、日本のマスコミでは“マクロンよいしょ”の報道が横行し、マクロンがいかにインチキな大統領か(中立公正な人物というよりむしろトランプに近い食わせもの)、ということに彼を選出したフランス人が気がつき始めていることにすら気がつかず、最近ではその労働政策や教育政策をめぐってデモやストや大学占拠が起きていることを日本のマスメディアはまともに報道しようとしない。偏ったフランスイメージに「呪縛されている」のは日本ではないかと思われてくる。

 考えてみれば、パリほど街頭で流血事件が頻発した都市もめずらしい。本書の冒頭には次のように記されている。「パリの街角で流血事件が起きるのははじめてのことではない。歴史をふりかえれば、この町では暴動や反乱によってこれまでに幾度となく血が流されてきた。昔とちがうのはこの町を脅かすものの正体だ。テロリストのなかには、イスラムの名のもとに殺人を行ない、植民地時代の復讐をしようと考えるにいたったフランス生まれの過激派もふくまれていた。これはフランス社会の核心をなす自由・平等・博愛の理念を根本からゆるがす脅威である」。ここにこの書物の基本的コンセプトが簡潔に示されている。パリで起きた流血事件の歴史的変遷を最近の出来事まで追跡し叙述しようということだ。

 しかし中世から近代初期にかけて起きた宗教戦争などの流血事態をのぞいたら、パリの流血の歴史は、なんといっても一七八九年のフランス革命に始まる十九世紀の政治的激動にともなう出来事の連鎖としてある。本書の力点も当然その時期に置かれている。一八三〇年(七月革命)、一八四八年(二月革命ならびに六月暴動)、一八七一年(パリ・コミューン)と、おおまかにたどっただけでも図版付きで叙述すべき事柄はありあまるほどある。二十世紀に入っても、一九四〇年から四年間のペタン政権時代の終わりと戦後初期の混乱期、一九五〇年代から始まるアルジェリア人の移民労働者の流入と独立運動にともなう流血事件の勃発、そして六八年「五月革命」の非常事態と、十九世紀とは規模が違っても、パリの市民は流血の当事者であり目撃者であった。

 そうしたパリの流血の歴史に、本書の著者は、ときに辛辣な外部からの視線(とくに植民地主義に対して)を交えながら淡々と叙述している。その点、生粋のフランスの歴史家やジャーナリストとは異なるドライな(流血の歴史を描きながらある種“すがすがしい”)叙述が本書の特色であろう。エリック・アザンの『パリ大全』(拙訳、以文社)のような深い分析はないが、そのかわり客観的にも主観的にも偏さないので、記述そのものを歴史資料として享受できる感じとでも言おうか。

 本書を読みながら、フランスという国がいかにナショナリズムとアナキズムの両極に引き裂かれてきたかを改めて実感した。しかし六八年「五月革命」から半世紀、いまやそうした時代も過ぎ去ったようだ。マクロンの一種の暴政に対して、儀式的デモやストでしか応じることができない(議会主義を突破することができない)パリ市民は、現在ネオリベラル資本主義をめぐって世界各地で起きている行きづまり状態(先進国内では権力も反体制派もできるだけ流血を避けようとして“両すくみ”になっている)を象徴しているかのようだ。流血を待望するわけではないが、本書に示されているように歴史の曲り角にはつねに流血の事態がともなっていたことをどう理解すべきかという強い思いにとらわれた。

 (現代思想研究)

「生々しさ」へ肉薄する怒りの書

――ナチ・ハンターの最大の敵は無関心や罪の意識の希薄さであった
評者:柳原伸洋

 ■本書は「怒りの書」だ。より精確には、怒れる人びとの活動の歴史を徹底的に掘りおこしたノンフィクション作品である。彼らの怒りは、邦語版の帯に書かれた「絶対に許さない!」という文でも強調されている。

 ナチ・ドイツは、夥しい数の死をもたらした。そして、無数の悲しみと憎しみが生みだされた。とくに、ユダヤの人びとに対する組織的な大量殺戮「ホロコースト」は、感情的な負の遺産を世界史上に残したのである。

 本書が扱うナチ・ハンターたちは、怒りを原動力として、訴追を逃れた「隠れナチ」を探し出し、法廷に立たせ、彼らの行為を裁くことに人生を賭して挑んできた。隠れナチとしては、アドルフ・アイヒマンやクラウス・バルビーなどの映像作品化された人物がよく知られているだろう。本書ではほかにも、サディスティックなイメージで表象されるナチ女性監守のモデルとなったイルゼ・コッホや元国連事務総長でオーストリア大統領を務めたクルト・ヴァルトハイムまでが「狩られる側」として取りあげられている。

 また、アイヒマン、バルビー、ヴァルトハイムのように、オーストリアやフランスで活動した人物についての言及が多いのも本書の特徴だ。ただし戦後ドイツでは、ナチ体制下でのユダヤ人口の激減に加え、差別意識も残存しており、ユダヤ系のナチ・ハンターが活動する余地がなかったとも考えるべきだろう。

 対して「狩る側」としては、日本でも知られているジーモン・ヴィーゼンタールやフリッツ・バウアーに紙幅が割かれている。たとえば、検事のバウアーは、二〇一五年に映画『アイヒマンを追え! ナチスがもっとも畏れた男』で映像化され、俳優ブルクハルト・クラウスナーの好演が印象的だった。彼ら以外にも、キージンガー西独首相を「平手打ち」したベアテ・クラルスフェルトなど、ナチ・ハンターの活動が資料やインタビューをふんだんに用いて紹介されている。邦語訳版で割愛された脚注リストは、亜紀書房の公式サイトで閲覧できる。PDFファイルで二一頁、四七〇以上におよぶ脚注を眺めてみれば、インタビューからルポルタージュ、そして日記に至るまでの資料が用いられており、著者のナゴルスキもまた、「生々しさ」へ肉薄しようという強い意志をもって執筆に臨んだことは明白だ。

 先ほど用いた表現「膨大な死」や「無数の憎しみ」という言葉は、どうしても普遍化・抽象化をもたらす。つまり、個々人が消失している。しかし、ナチ・ハンターの怒りの本質は違う。それは、「ヴィーゼンタールにとってのホロコーストは、(略)抽象的な概念ではない」(五四頁)ということだ。そう、彼らにとっての怒りや悲しみとはきわめて具体的であり、だからこそ死者の声に応えることに取り憑かれていたともいえる。実は、ドイツ語の「応答 Antwort」は、「責任 Verantwortung」に含み込まれるように、応答は責任とつながっている。

 そして、ナチ・ハンターの最大の敵は「隠れナチ」ではなく、むしろ無関心や罪の意識の希薄さであった。ナチ時代の官僚機構は、被害者一人一人の恐れや悲しみに向かい合わなくてもよい仕組み、つまり縦割り行政による「責任感の消滅」(二六三頁)を創出していた。いわゆる文書主義は、死の具体性を取り払う機能を果たしていたのである。

 しかしドイツの文書主義は、ナチ・ハンターを手助けするという二面性を備えていた。ナチとの取り組み、いわゆるドイツの「過去の克服」を駆動させたのは、裁判という司法制度だった。そして、裁判と密接に結びつくもの、それは文書記録だ。ナチ・ハンターが取り組んできた事実関係の掘り起こしは、公文書や記録への執着が可能にした。戦後社会を支配していた生者の沈黙や無関心。それを打ち破ったのは、公文書だった。

 翻って、公文書をめぐるニュースが飛び交う日本。評者は、日本の「文書主義的な縦割りによる責任の回避」と「文書忘失による沈黙」との共犯関係を意識せざるをえなかった。日本で、公的な記録にもとづいた裁判が「過去との取り組み」を進めた事例はあまり多くない。なぜか? もちろん、戦後の歴史的プロセスが日本とドイツで異なっていることは看過できないだろう。しかし、ナチ・ハンターのような「怒れる人びと」が、文書を用いて怒りや悲しみを「立証」できなかった過去は重く受け止めたい。本書は、このような極めて現代的な問題も突きつけてくる。

 そして読み進めるなかで、評者が想起せざるをえなかったのは、日本の戦争犯罪についてであり、中国戦線で戦った亡き祖父の具体的な顔だった。心がざわついた。人によっては脊髄反射的に、ナチ・ドイツと日本の戦争犯罪を同列に並べられないと意見されるだろう。しかし本評の文脈では、これは受けつけられない。なぜなら、戦争によって、「膨大な死」や「無数の憎しみ」が生じたのは紛れもない事実だからである。狩る側ではなく狩られる側(の家族)に身を置くとき、本書は異なった色合いを帯びてくる。知ろうとするのか知らぬままで済ますのか、記憶するのか忘れるのか、これらの問いへの答えを、読者自身に「探し出せ」と迫ってくる書だといえよう。

 (東京女子大学准教授・ドイツ現代史)