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紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

1949年創刊。硬派な人文書からホットなサブカルチャーまで紹介する週刊の書評新聞「図書新聞」とe-honのコラボ企画!

「図書新聞」の紙面で紹介した書評や、対談記事をご紹介します。【週1回更新】
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 ◆ 3357号(6月23日発売号掲載)

みんなで食べることほど、素敵なことはない

対談:山崎佳代子×ドリアン助川

 ■山崎佳代子著『パンと野いちご――戦火のセルビア、食物の記憶』が勁草書房より刊行された.戦時下、内戦状況で、難民化した人々は何を食べ、どのように生きてきたのか。この大変に美しい(と言わせてほしい)、かつさりげなく愛おしい書物をめぐって、さる5月10日、東京・下北沢の本屋B&Bにて、著者の山崎氏と、ドリアン助川氏によるトークイベントが開催された。本稿はその採録である。(須藤巧・本紙編集)

 ■小さな言語から世界を見たらどうなるか

 助川 ユーゴスラビアの歴史、紛争のなかで何が起きたのかが本書にはちりばめられています。山崎さんとユーゴスラビアの関係はどのようにして始まったのですか?

 山崎 バルカン半島の「おへそ」のような位置にある、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボのサラエボ大学に、ユーゴスラビア政府の奨学生として留学しました。ユーゴスラビアの文学を勉強したくて行ったんです。一九七九年の秋です。翌年、ある人に「スカウト」されて、ベオグラードで結婚することになりまして、それ以来ずっとベオグラードに住んでいます。

 助川 ユーゴスラビアの文学の、具体的にどういうことを勉強したいと思っていたんですか?

 山崎 ユーゴスラビアは多民族国家です。セルビア・クロアチア語という、言語学的に非常にそっくりで通訳の必要がない言語と、マケドニア語とスロベニア語と、まずその三つの言語が公用語でした。その他にいくつも少数民族が住んでおり、そのなかの一つの言語が、今日の紛争地域で使われているアルバニア語です。それぞれの言語に歴史がありますから、「ユーゴスラビア文学」というカテゴリー自体が戦後の新しい文学の概念でした。ですから、何の文学を勉強するか、自分でもわからないで行った面があります。日本人ならば、一つの国には、一つの言語による文学があるとイメージすると思います。しかし実際にユーゴスラビアに行ってみると、多民族国家で、宗教的、歴史的な背景も違う複数の文学があって戸惑いました。本書を読んだ読者が最初に戸惑うのも、自然なことでしょう。

 助川 外国の人が日本に来て、小津安二郎の映画を勉強するとか、夏目漱石を研究するとか、そういうピンポイントな目的があったわけではない?

 山崎 私はロシア語を勉強していたんですが、当時はソ連邦があった時代です。ロシア語の勉強が終わったとき、チェーホフやドストエフスキーの研究者は多いし、ロシア語以外のスラブ語の言語を勉強したいという気持ちがありました。日本は明治維新以後、フランス、ドイツ、英語圏、そしてロシアという四つの外国文学から多くを学んで独自の文学を形成してきましたが、小さい国々の言語は、まだ日本であまり知られていない。スラブ系の言語で言えばチェコやポーランド、そしてユーゴスラビアのなかの言語は、当時は、ほとんど研究する人がいませんでした。日本では、アジアの言語についてもそうですが、アフリカの言語も文学もよく知られていませんでしたから、「小さな言語から世界を見たらどうなるかな」と、素朴に考えていました。

 助川 サラエボに留学したとき、その後ずっとユーゴスラビアに関わるということは予想していましたか?

 山崎 留学して最初に心をうたれたのは、セルビア語、クロアチア語の二つの言語にまたがる口承文学でした。人々が口から口へ伝える、民謡に素晴らしいものがありました。日本では抒情詩の伝統が強いと思いますが、ユーゴスラビアは民族の歴史を記憶するための叙事詩がとても盛んなところです。それに心をひかれたのですが、一番、魅力を感じたジャンルは個人の歴史を唄う「バラード」です。近松門左衛門が描いたような江戸時代の「心中」にそっくりのテーマを唄う「オメルとメリマの死」という、ムスリム人同士の悲恋の民謡に出会ったのは、発見であり驚きでした。それが日本文学の伝統とどのように違うのか、比較してみたいと思い、ユーゴスラビアに残ろうと思いました。また、結婚という機会もありまして。そうこうしているうちに、「日本語と文学を大学で教えないか」と誘われ、ますますあの国にのめり込むようになりました。

 助川 「チトー大統領のユーゴスラビア」というイメージがあります。われわれの世代が高校生のころに学んだレベルで言えば、チトー大統領は民族や文化の違う人々から成る国をまとめていると。しかも力を持った、魅力的な社会主義の国を実現させていると。そういうイメージしかなかったのですが、私が大学生のときに、高校までユーゴスラビアにいたという日本人の女子学生がいました。私がチトー大統領のことを軽い気持ちで褒めたら、彼女の顔色が曇りました。「どういう意味で?」みたいな。これは何を言っても噛みつかれるなと思い、押し黙ってしまったことがあります。

記事掲載はここまで。続きは本紙でお楽しみください。
7月中旬以降、全文掲載予定です。

なんて愚かな「美しい国」なんだろう

――事件から三〇年の世相の変化を考えさせる、たぐいまれなルポ
評者:増田幸弘

 ■一九八七年五月三日、朝日新聞阪神支局に勤務する二人の記者が何者かに撃たれ、一人が亡くなった。犯行声明には「この日本を否定するものを許さない」「すべての朝日社員に死刑を言いわたす」「反日分子には極刑あるのみである」とあり、「赤報隊」という差出人に、「二六四七年」と皇紀による日付けが添えられていた。国内で記者がテロ行為で殺されるのは日本の言論史上はじめてだった。ほかにも赤報隊はあわせて八件の事件を三年四カ月のあいだに起こすものの、未解決のまま二〇〇三年に時効を迎えた。本書は発生直後から今日にいたるまで「一般的な取材ではなく、犯人を追い求める取材」を繰り返してきた記者のドキュメントである。右翼やキリスト教系新興宗教の関係者に取材を重ねてきた経緯を丹念に綴るが、犯人に行き当たるわけではない。どれもクロにもシロにもグレーにも思えて決め手に欠くものの、このなかに犯人はいると臭わせつつ、昨今のネトウヨ像からすれば犯人はごく普通の市民かもしれないとも思える。それは「後には一億の赤報隊が続く」と犯行声明にある通りの状況なのだが、いずれにしても逮捕されなかったのだから謎は謎のままとして残される。しかし、それがゆえに却って事件から三〇年の世相の変化を考えさせる、たぐいまれなルポとなっている。

 実はぼくがフリーランスの立場で仕事をする出発点に赤報隊体験がある。ちょうど事件の翌年、ぼくは見習い記者として、ある地方紙に記事を書きはじめた。ぼくはまだ学生で、一コマだけ単位を落として留年した間抜けな六年生だった。それでも新聞社の名刺を渡され、一五段見開きの紙面を週一でつくるチームの一員に加えられた。東京の文化や流行がテーマだった。とりまとめるのは一〇歳年上のデスクで、取材のイロハから飲み屋の選び方まで、およそ記者稼業に必要なことをみっちり教えられた。チームにいる元写真部長にはマンツーマンで写真の撮り方を習った。振り返ってもとても恵まれた環境だが、別にマスコミ志望ではなく、大学院に進もうかどうしようか迷っていた。周囲の人の勧めでその地方紙の就職試験を受け、最後の役員面接までなんなく進んだ。たしか社長をはじめ、五人くらいが並んでいた。ごく儀礼的な面接のあと、新聞社に入るにあたってどうしても確認したかったことを逆に尋ねた。「新聞社のトップとして赤報隊をどう思うか」であり、「新聞が戦争協力したのはどうしてか」の二点である。役員はこいつはなにを言い出すのかと驚き、はっきり答えないまま面接を打ち切った。生意気を言うなと叱られた覚えがある。当然のように不採用になるが、面接の印象でここでは働けないと思ったので内心ホッとした。ぼんやりとした勘だった。もっとも当時メディアは給料の高いことで人気の就職先で、商社と併願する人さえいた。だから「おとなしく入れてもらえばよかったのに」と後々まで言われた。

 なぜ二〇代前半のぼくのなかで赤報隊と戦争協力がそこまで引っかかっていたのか、自分でもよくわからなかった。若いころの子どもぢみたイキガリと反省すべきことかもしれないが、なにか屈服できないものをそこに感じてきた。しかし、一回り年上の樋田さんが「書かざる記者」として赤報隊を追ってきた三〇年を総括し、「この未解決事件が日本社会にも朝日新聞にも暗い影を落としており、その影は近年ますます広がっているのではないか」とまえがきで振り返っているのを知り、ぼくの勘もあながちまちがいではなかったと感じた。「批判を招く記事を載せたくない、面倒な問題に巻き込まれたくないという意識がじわじわと広がって」きたのはメディアの現場にいて、ずっと考えてきたことだ。あたりさわりのない記事が好まれ、記事と広告の境目がどんどん曖昧になった。意見や論評は専門家の寄稿に頼り、読者の投稿に代弁させることが増えていく。そんななかで自分の足で取材をして書こうとすれば、手足をもがれた自由な不自由にあえがざるをえなくなる。組織の問題もある。本書で赤報隊との関係が示唆される宗教団体と朝日新聞上層部が会食して手打ちにしていたり、編集委員が団体からお金を受け取っていた逸話は生々しい。警視庁の求めに応じて朝日の担当記者が取材ノートをこっそりコピーして渡していたことへの失望も綴られる。

 ぼくは長らくフリーランスの立場で朝日新聞の発行する多くの雑誌に関わってきた。元気のよかったころの出版局には切れ者の記者や変わり者の編集者がたくさんいて、編集部には知的な活気があふれていた。『週刊朝日』や『アサヒグラフ』などに記事を書くのがぼくの仕事だったが、編集者としてつくった『大江戸曼荼羅』(一九九六年)はお気に入りのひとつだ。もともと『朝日ジャーナル』の連載で、新聞社ならではの贅沢な企画である。そのころの忘れられない出来事がある。『アサヒグラフ』の編集長と新宿のバーで飲んでいると、マガジンハウスの編集者にひどくからかわれたのである。集約すれば新聞社の雑誌は教養主義が鼻につくとの批判だった。偉そうにしているわりに、販売部数では足下におよばないと高笑いされた。編集長は黙って聞き流していた。酔っ払いのたわいのないやりとりは、しかしはじめて感じた「反・知性主義」の萌芽だった。そのときの場景が忘れられないのはだからだろう。実際、一九九六年をピークに出版不況がはじまり、教養から反知性へと移り変わっていくのだ。出版局の仕事で最後に関わっていた『ASAHIパソコン』が二〇〇六年に廃刊となったのを見届け、ぼくは日本を離れた。出版局も二〇〇八年に分社化し、朝日新聞出版になった。三年前、一緒に仕事をしてきた仲間を訪ね、久しぶりに社食でお茶をした。かつてのざわめきは消え失せ、のっぺりとしたクリーンな印象があった。変わり者や切れ者の居場所はもうここにはない。掲示されていた組合報かなにかに植村隆元記者のことがあり、ソウルで取材中に一緒だった話をしたら、出世した仲間はいやそうな顔をした。社としてはタブーなのだろうと察した。ネトウヨの標的にされた植村記者を「社として積極的に守ろうとする姿勢が見られなかったことも極めて残念だった」と樋田記者は書いている。ぼくもまだソウルでほんとうはなにがあったのか、いちども書いていない。それもまた「面倒な問題に巻き込まれたくないという意識」からなのはたしかである。玄関を出るとデモ隊が「朝日を叩きつぶせ!」などと大きな声を出しているのを見て、心底ぞっとした。二〇一八年二月、いまぼくの暮らすスロヴァキアで政府とマフィアの癒着を取材した若い記者が婚約者とともに殺される事件があった。ただちに市民は毎週大規模なデモをはじめた。音楽アカデミーの学生は「記者への攻撃は、市民への攻撃だ」と書かれた大きな垂れ幕を掲げた。「朝日を叩きつぶせ」とはすなわち「市民を叩きつぶせ」に結びつく危惧があるのだが、ついには国を代表する首相自ら「こんな人たちに負けるわけにいかない」と公言し、「哀れですね。朝日らしい惨めな言い訳。予想通りでした」と批判するまでに至る。そして、公文書を改竄しようが、セクハラしようが、権力の側にいる者はお咎めのない「美しい国」になっていた。それが赤報隊からの三〇年だったというわけだ。なんて愚かなんだろう。

 本の最後で戦時中の記者に取材し、新聞の戦争協力について樋田記者が尋ねている。「戦争の是非を問う論陣を張るような雰囲気はまったくなかった」「憲兵隊に連れていかれたままだったら、とても会社にはいられない。そんな記者を会社が守ったら、えらいことになる」。さらにいざというとき朝日新聞は「愛国派の新聞」になるとの右翼の預言が結語におかれるが、赤報隊の取材を通じて樋田記者が到達せざるをえなかった回帰にほかならない。それはかつて役員面接でぼくが抱いたぼんやりとした不安に通じる。赤報隊の事件を契機にはじまった朝日新聞の連載「『みる・きく・はなす』はいま」は、当時、スクラップにして何度も読み返した。ぼくが取材の仕事をはじめる原点ともなるこの記事に樋田記者が関わっていたのを本書で知った。そして、あれから三〇年が経ち、『記者襲撃』でふたたび次への指針を与えられた気がする。ときにこの出版不況は一種の焚書坑儒なのかもしれないと思うことがある。一九七九年に発行されたヴォーゲルのベストセラー『ジャパン・アズ・ナンバーワン』は新聞と本をアメリカの倍くらいよく読むことが日本の強みにつながっていると分析した。七〇年代とは対照的な状況が現在ある。だれがなんのためにそんなことをしているのかはわからない。しかし、少なくともまだ表現の自由はある。憲兵隊に虐殺されることもない。だからこそここで踏ん張って取材をつづけなくてはいけないのだし、出版社や書店の灯を守らなくてはいけないのだ。そのためにも「強くて、貪欲で、優しい心を持った一匹狼に育ってほしい」と樋田記者は朝日新聞の新入社員に研修で呼びかけてきた。しかし、実際には本書を出すために朝日を辞め、朝日新聞出版ではなく岩波書店で出さざるを得ない官僚的な組織の事情が厳然としてある。まだいまのところ朝日の書評欄に、本書は紹介されてもいない。そこにこそ赤報隊がもたらしたほんとうの怖ろしい状況はある。右傾化とはなにも外からもたらされるのではない。保身のため、内から腐っていくことなのだ。

 (フリー記者、在スロヴァキア)

人文社会の知が介入すべき地点

――「政治」そのものを刷新することによって政治の暴力に立ち向かう
評者:佐藤泉

■本書はフェリス女学院大学独自の単年度プロジェクト「教員提案授業」を基盤に設置された科目が土台になっている。これは以前からあった枠だが、「安保法制に反対するフェリス女学院大学教員有志の会」がすかさず申請し、「シティズンシップ教育」の科目が生まれた。序章プラス一二章、各回ごとの担当者が、それぞれみずからが専門とする分野のエッセンスを惜しみなく披瀝し、その全体が多面的な「政治」の問題意識を形づくっている。すばらしい。思うに、学校でできることはやっておくというのが教員の最低綱領であり、その意味では自らのなすべきことを淡々と実行しただけなのかもしれない。が、その行動が現況下で持つ意味はまちがいなく重要である。今できることを確実に行う。それは可能なことの幅をこれ以上縮めないことであり、同時にその幅を内側からの圧力によってじわりと広げることである。大学は以前と同じ大学であるかもしれない。だが、教員らの行動によって大学はその内側からの力で張りつめた動的な陣地となり、「これが民主主義の姿だ」と宣言する場、予示的政治の場として立ちあらわれているのだ。

 政治の劣化はいまや絶望的水準に達した。立憲主義の蹂躙、強行採決という暴力のみならず、それを不正と感じるためのリアリティそのものが破壊されつつある。伝統的な嘘は真実を覆い隠すことを意味していた。それでもこの嘘概念の地平には、後世の歴史的検証によって真実が明るみにでるという最後の希望は残されていたが、現代的な嘘はもはや隠蔽ではなく現実の破壊、オリジナルのアーカイブの破壊となっている。後世の歴史家が依拠するはずの公文書があらかじめ改竄され、私たちがそこにしっかりと足を置いていたはずの地盤がもろくも崩れようとしている。根底的な暴力がもはやイチジクの葉っぱすらまとわず白昼横行しているのだが、それが私たちが向き合っている現状だ。当然ながら本書の現状認識もやはり厳しい。しかしながら、ここには同時に現下の事態を人文社会的な知の立場からむしろ積極的にとらえ返そうとする姿勢が示されている。後世の検証をまつまでもなく、その場で誰の眼にも虚偽、理不尽が明白であり、それが現在の政治の絶望的な特徴をなしている。だとすると、この絶望が人文社会の知が介入すべき地点となるのだ。私たちの現実感すら破壊する暴力をことばの力によって原理的に拒否しようと思うなら、専門的な学者でなくとも「人文社会的知」の立場に立たざるをえないはずだと編者の一人、島村輝が述べている。わたしたちは徹底的に絶望しており、この危機的criticalな局面で批判的学criticismに携る者、批評家criticたらんとする者は、ただちに自らのことばの力を行使するはずである。「そこでは「人文・社会的知」は「政治」そのものなのだ」。本書はこうして「政治」そのものを刷新することによって政治の暴力に立ち向かおうとしており、その気概が確かな支えとなっている。

 政治の劣化。といっても、すでにこの状態が六年続いている。となると若い世代にとってはこの異様さがデフォルトではなかろうか。困ったことですな、などと若くない世代はしばしば言うわけだが、その我々にしてからがすでに異様な制度の中にいたことを本書によって思い知らされた。第二章、荒井真によれば、日本では国に対する行政訴訟の数が端的に少ないという。ドイツの行政訴訟数は日本の二五〇―五〇〇倍、韓国、台湾でも三〇―五〇倍、この少なさの理由は日本の行政訴訟では原告の勝訴率がきわめて低いことにある。一部勝訴を含めてもようやく一〇%ほど、これでは訴える気持ちさえ起こらない。米国、ドイツなど他国との比較において、日本の司法制度の惨状に今更ながら絶望せざるを得なかった。司法権が行政権に対しノーを言うことが制度的にできにくいのだ。他国の裁判官は任期に脅かされることはない。だが日本では一〇年の任期がある。裁判官の人事は基本的に最高裁判所が握っており、その意向を気にせざるを得ないシステムとなっている。辺野古の新基地建設をめぐる裁判では、福岡高裁那覇支部で沖縄県側が敗訴、最高裁でも県の上告が棄却されて敗訴が決定したが、一連の訴訟を指揮した裁判長は、「代執行訴訟」が提起されるわずか一八日前に東京地裁立川支部から福岡高裁那覇支部長に移動していた。この裁判長は以前から行政事件を数多く手がけており、その大方は行政側の勝訴だったということだ。真偽のほどは定かでないが、「公正な裁判」の手前で不透明な人事がなされ、司法という最後の希望が失われているのか。私たちは心底絶望すべきなのだと思わざるをえない。

 もはや全体を紹介するだけの余裕は残っていないが、他の各章も担当者がそれぞれの専門性に訴えることで人文知の底深い力を読者に知らしめる。米国、そしてフィリピンで学生たちが歴史を創出していったとき、そこにどんなことばがあったのか。女性の身体、性が彼女らのものでないとき国家の論理は最大の猛威を振るっていること。他者から誘導操作されていることに気付きえないまま「自らの意志」で動く心理操作のメカニズム。そしてベートーベンとショパンの音楽を理解することが自由な市民精神へと美しく接続される章など、人文知の結集である本書は掛け値なしの魅力にあふれている。第五章、ハンナ・アーレントを論じた矢野久美子の言葉を借りるなら、私たちもこうした本を手にすることで、まだ「世界を奪われる」には至っていない、とかろうじて思うことができる。

 (日本近代文学)