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 ◆ 3359号(7月7日発売号掲載)

ちょっと、垂直

――二〇一〇年代の思想と臨床、そして政治をつなぐキーワードは何か
対談:松本卓也×東畑開人

 ■松本卓也著『享楽社会論――現代ラカン派の展開』(人文書院)と松本卓也+山本圭編著『〈つながり〉の現代思想――社会的紐帯をめぐる哲学・政治・精神分析』(明石書店)が、ほぼ同時期に刊行された。相変わらず、飛ぶ鳥を落とす勢いの松本卓也である。上記二冊の刊行を記念して、松本氏と、『野の医者は笑う』などで、独自の大変に興味深い著述や訳業を続ける東畑開人氏によるトークイベントが、さる5月31日に東京・代官山蔦屋書店にて行われた。本稿は、その採録である。(須藤巧・本紙編集)

 ■タコツボ化した世界を探求しつつ、どうやって全体を見渡すか

 松本 以前から東畑さんとお会いしたいと思っていました。東畑さんは京大出身で、ぼくは東畑さんとすれ違うかのようにして京大に勤めるようになりました。また、お互いに一九八三年生まれということもあり、以前から勝手に親近感をもっていたのです。

 一九八三年生まれということは、われわれの書き方や物の考え方と密接につながっていると思います。八三年は、浅田彰の『構造と力』が出た年です。浅田彰は「ポストモダン思想を広めた人」ということになっていますが、本人はすごくモダンな人です。モダンをつきつめた結果として、ポストモダンの領域を開くことができた人だと言ってもよいでしょう。対して、われわれの世代は生まれたときからポストモダンというか、相対主義的な見方を根本にもっているのではないかと思います。例えば、東畑さんが訳された『心理療法家の人類学』はまさに心理療法を文化人類学的な目線で相対化させてくれる本ですし、東畑さんの著書の『日本のありふれた心理療法』もそのような相対化によって初めて可能になったもののように思えます。東畑さんは、日本の心理療法は結構中途半端なんだと、つまりユング派の流れもあるし、フロイト的な精神分析の要素もあるし、なんちゃって認知行動療法もあるし、ソーシャルワーカーに近いこともする。いろんなものの寄せ集めで、曖昧なんだと。こういう話を書いたのはたぶん東畑さんが初めてですよね。心理や精神医学の世界では、専門性が高いものが一番優れていると考えられていて、みんなそういう話ばかりしますが、実際の臨床はそういうものではない。そのことを明確に取り出してくれた点が非常に面白いと思いました。

 東畑 ぼくらが大学生のときの先生たちは、ニューアカブームのころに大学(院)生くらいだったから、ポストモダンの波をもろにかぶった世代ですね。ポストモダンというのは価値の多様性や相対性を推していく潮流です。だけど、そういう先生たちはぼくには非常に本質主義的に見えました。相対的であるというよりも、専門性というものを絶対的なものとして呈示しているように感じていたわけです。今回翻訳した『心理療法家の人類学』という本は、なぜ相対化というものが心理療法と相性が悪いのかという問題に取り組んでものでもあります。一〇年来の問いですね(笑)。

 ともかく、そういう環境で臨床を始めてみたんですけど、そんなキレイにはいかないんですよ。困りました。そういうときに、「私が悪いんだ」という方向に行くか、「でも、こうなっちゃってるんだから、しょうがないじゃないか。ここからどう考えるのか」という方向に行くかで、人は分かれ道に立たされるのだと思います。ぼくの場合は後者に行きました。

 松本 「こうなっている」という事実性をまず取り出すことが大事だということですよね。それは「専門家であるからにはこうあるべきだ」という普遍や理想とかかわる原理を前提とすることとは異なります。先日、批評家の大澤聡さんと対談する機会がありました。大澤さんは、今日では教養主義が絶望的に機能しなくなっていて、世の中の全体を俯瞰的に見させてくれるような強い一点がなくなり、様々な知がてんでんばらばらになっていると指摘されていました。

 とはいえ、東畑さんやぼくは新しい世代なのかもしれません。普遍や理想が機能しなくなりさまざまな事柄が並列的になったり混在してある現状を、ちょっと引いた目線で見えるようになってきたのではないかと思います。ぼくの『人はみな妄想する』や『享楽社会論』はフランスのパリのラカン派という、言ってみれば非常に狭いところでこの二〇年でどのような理論の変化があったのかを描き、それを日本の現代思想というこれまた非常にローカルなものと比べてみるという仕方で、少々引いた目線から臨床と思想における世界的な変化を考えようとするものでした。ぼくが編著者の一人となった『〈つながり〉の現代思想』にも似たところがあります。かつて「フランス現代思想」と呼ばれていたものは、ラカン、ドゥルーズ、デリダなどのビッグネームがいた時代はよかったのですが、彼らが亡くなった後どのようなシーンになっているのかがわかりにくくなっています。しかし、フランス現代思想は政治的な転回を行い、政治や社会にコミットし始めたと考えてみれば、それを改めて俯瞰的に見ることができないか。それらの思想は、「3・11」以後のデモが一般化した現代日本にとっても重要なのではないか。そのような考えから「つながり」や「社会的紐帯」という言葉をキーワードに、いろんな人に専門的な論文を書いてもらいました。タコツボ化した世界を探求しつつ、どうやって全体を見渡すことができるのかに興味があるのです。これは東畑さんとも共通する興味のあり方ではないでしょうか。東畑さんはいま医療人類学をやられていますね。東畑さんの『野の医者は笑う』には、沖縄の怪しげなローカル・ヒーラーが出てきます。最後の方には怪しげな資格を東畑さんが取得する場面が出てきますね。

 東畑 当時沖縄で流行っていた民間療法ですね。あの本ではアカデミックな臨床心理学からすると、異端というか、ちょっと「怪しい」ものの調査をしていたんです。なんでかというと、ぼくらからすると荒唐無稽に見えるものでも、それに確かに救われたり癒されたりするという事実から、「心の治療」というものを考えてみたかったからです。臨床心理学のサイドから「あれは怪しい」と切り捨てるのは簡単なのだけど、「にもかかわらず癒されている」という事実から出発すると、「じゃあ、俺たちは一体なにをやっているんだ」という問いが切実なものとして浮き上がると思ったんです。

 沖縄って、そういう意味では絶好の場所です。ふしぎなんですよ。そもそもシャーマニズム文化があるんで、それについて色々と研究されているのですが、最近の沖縄シャーマニズム研究には、伝統的なものよりかは現代的なものを見ていこうという流れがあります。ユタがインターネットを使って除霊をしていたりとか……。

 松本 ユタがインターネットを使って除霊(笑)。

 東畑 二〇〇〇年に沖縄でサミットが開催されましたが、そのときにユタが集まって、サミットの成功を祈っていました。

 松本 それでサミットが成功したんですね(笑)。

 東畑 そうそう(笑)。怪しいですよね。でも、それを真剣にやっておられる。現代と前近代が入り混じっているところに興奮しました。

 松本 まさにポストモダン的ですね。東畑さんはフィールドワークで沖縄に入って、様々なローカル・ヒーラーが跋扈するマニアックなタコツボ化された臨床の世界を徹底的に調査する。しかし、その調査を通じて、実はその怪しげな世界が現代の心理臨床がやっていることにも近いのではないかという相対化の認識を得る。タコツボ化されたところに入っていって得られた知見を使って、ちょっと引いて世の中をメタレベルから見てみるわけですね。ポストモダンの世界はタコツボ化して、個別の部族のようなものしかないわけですが、そのなかにわけ入っていくことによって、もう一度普遍へと還ろうとする意図ないし方向性がぼくと東畑さんとでは似ていると思っています。

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 ■「デイトレーダー的主体」と「父」

 松本 現代では、普遍的なものに収まらない個別的なものにまず注目することが重要ではないでしょうか。ローカルなリアリティを見ずにいきなり普遍や全体性を復活させようとする、つまりは昔の非常に強い「父」に支えられている社会や権力や体制を復活させようとするのは、危険な契機を孕んでいます。いわゆる「ネトウヨ」や極右の台頭はそういうタイプの王政復古を希求するニュアンスがあります。しかし、まずはその手前で、個別的なもの、経験的なものをちゃんと見なければならない。

 同じ観点から、現代の「エビデンス主義」にも不満をもっています。科学的なエビデンス(証拠、根拠)に基づいた知識、特に医学的知識が社会のなかで第一義的に参照されるべきだとする立場です。最近はEvidence‐Based Policyといって、政策決定もエビデンスに基づいてやるべきだという考えが出てきています。もちろん、このような考えには一定の利点があります。しかし見方を変えれば、かつて存在した強い「父」や神や王の位置が、現代ではエビデンスによってそっくり乗っ取られているようにも見えます。最近、医学的なエビデンスに基づいた食事術の本が売れているようですね。もちろん、そういう本は重要だと思います。全然効果のない健康食品はたくさんあって、人は惑わされてしまいますから。しかし、エビデンスに基づいたものすごく健康な食事というのは人間にとっての食事の目的を転倒させてしまっています。そもそも、ものすごく健康な食事を毎日食べたいですか? ラーメン二郎のほうが食べたいでしょ(笑)。

 東畑 これがね、ぼくも昔は自己破壊的にラーメンを食らってたんですけど、最近ネオリベ主体になっているんです。リスクマネジメントの塊ですよ。糖分を減らし、タバコはアイコスにし、酒はノンアルコールビールにする。なんでかっていうと、子どもがいて、ローンを抱えているからです(笑)。ここは実はぼくのなかでは重要なことです。資本主義の生きづらさや偏狭さに対して反論があって、そのオルタナティヴを探求するようなことをやっていても、でもその資本主義の外側には出られないっていう認識があるんですね。だから、ネオリベみたいなことをしているのだけど、でもかといってそれを全肯定することもできない。この曖昧で矛盾した事態でどうすればいいのかっていう、そういう問いを切実に感じています。

 最近、糖尿病関連の研究会に呼ばれて話をしたのですが、糖尿病の進行が食い止められて、透析に入るのが一年遅れただけで、一人につき医療費が五〇〇万円下がるということを知りました。現場では心理士を求めていて、でも点数がつかない。心理は役に立つという意見が糖尿病の世界にはあるのに、エビデンスがないから事態が動かしがたいという話でした。じゃあ、エビデンス研究をしようかなって思いました。個人的にはそれはぼくの好きなやり方じゃないし、本質だとは思えないのだけど、ルールが決まっているわけだから、そこに突入していくようなやり方です。「政治的に」エビデンスを使うことが求められている気がします。ハックするという感覚。

 松本 「エビデンスなんかよくない」ではなく、それをいかに乗っ取っていくかということですね。『享楽社会論』では「統計学的超自我」という概念を紹介しました。かつてであれば、自分の内なる超自我が「そんな不道徳なことはするな」とか「エスの動きに左右されるな」とか言ってくるけれど、今日では超自我が統計学によって支えられていて、人々にああしろ、こうしろ、これをするなと言ってくる。AI(人工知能)も同じです。「AIは計算で答え(最適解)をはじき出すけれど、その答えが何を意味しているのかはわれわれにはわからないから、われわれはその答えの意味するところを考えなければならない」という言説がよく聞かれます。これは、いっけん新しい発想のように見えて、実は古い「父」と同じ構造をしています。つまり、宗教的な神が謎めいた言葉を人々に与えて、人々はその言葉がいったいどういう意味なのかを考えあぐねるというモデルと一緒なんですね。現代人は、別のかたちをとって現れた強い「父」や神に憧れているんだと思います。そういう超越者からパワハラされたいんですよ。

 東畑 父の話で思い出したのが、デイトレードにはまっている心理士の友人のことです。「月に六〇万円稼いだ」と言っているんです。一緒に食事をしていたら、株価の情報をスマホでチラチラ見せてくる。「いま東畑君は食事をしてカネを失っている。俺はいまこの瞬間に七五〇〇円儲けている」といちいち見せてくる。ムカつくんですよ(笑)。ムカつくんだけど、彼は明らかに元気が出てきているんです。癒されていたわけです。

 なぜか。株価とは非常に複雑なものです。様々な要因が影響していて、コントロールすることができません。デイトレードで利益を出すとは、その複雑系をコントロールしていることを意味します。それは謎の父、あるいは母から、いかに愛情を引き出すかという問いに答えるということを意味しています。だからデイトレーダーの彼は「マーケットと話ができるようになった」とか「無限が友達だ」とぼそぼそ言っていました(笑)。ちょっとどうかしてるんですけど、それはコントロールの効かない世界にあって、神なるものと繋がっているという感覚なんでしょうね。

 松本 「デイトレーダー的主体」という言葉を思いつきましたが、この言葉は、単なる比喩以上のものをもっていそうです。株はもともとデイトレードするものではなく、出資して、かなり後になってから配当をもらうものです。その意味で、株は、長期的な人間的信頼関係に支えられた、結構泥臭いものです。しかし現在ではそうした出資としての株の機能はまったく問題にならず、時間単位でちょっと上がったか下がったかだけで一喜一憂し、最適化された売買で利益を上げることだけを追求するデイトレーダー的主体が増えている。これはアタッチメント(愛着)の問題としても考えることができますね。出資して、後で配当が返ってくるというのは、メタファーとして言えば、「お母さんがいま自分の前から離れていってしまったけれど、また絶対に帰ってきてくれるよね」という養育者の対象恒常性を想定する安定したアタッチメントによって可能になることです。しかしデイトレーダー的主体はそうではなく、瞬間ごとの数字と戯れている。同じような「父」の構造が見えていたとしても、アタッチメントのあり方が大きく異なっている。

 東畑 彼らは謎めいた親の前に立ちすくんでいるんです。そして、デイトレーダー的主体にとっては、何があっても謎めいた親が圧倒的に正しいわけです。デイトレーダー的主体は損をしたときに、「親が裏切ったからだ」と責めることができません。親の意志を理解できなかった自分が悪いわけです。だから、この気まぐれで、かつ強力な力を持った親に忖度しないといけない。それはなかなかシビアな親子関係です。

 松本 ドゥルーズが言っていたことの変奏になりますが、かつての主体は起源として罪悪感が埋め込まれていた。「お前には原罪がある。お前が大切なものを壊したんだ」などという言葉によって罪悪感を埋め込んで主体形成をさせていた。しかし、いまはそうではない。現代の主体のモデルは何らかの起源を中心に構造化されるのではなく、むしろ次々とやってくる現在に対する「波乗り」であって、いま起こっていることにどう対応するかというスタイルとして構造化されている。現在は、そのような新しい主体のモデルにすでに適応している人、まったく適応しようとも思っていない人など、何種類もの人がいて、それらのあいだの軋轢が強まっているような気がします。認知行動療法と精神分析の対立にも似たようなところがありますね。

 東畑 そこはまさにぼくらが直面している問題だと思います。『〈つながり〉の現代思想』には「連帯」の話が出てくると思います。様々な「部族」や階層にわかれていって、同じものを共有していない。だからこそ、「連帯」ということがいま大きなテーマなのだと思う。それはぼくも切実に感じています。というのも、臨床心理学の世界では、本当にみんな仲が悪いからです。

 松本 (笑)。

 東畑 なぜかというと、お会いしているクライエントが全然違うからです。経済階層も違えば、抱えている問題も違う。そういう色々な人たちのニーズがあって、それぞれの現場や心理士は違ったクライエントたちを見ている。だからある人が言っていることが、別の人には荒唐無稽に聞こえたりします。リアリティが違うんです。依存症臨床の人と精神分析臨床の人では、リアリティが違う。まさにタコツボ化が起こるんだけど、「知」だけがタコツボ化しているのではなくて、そもそもユーザーのタコツボ化が生じているわけです。この動向から、当事者研究が立ち上がっていることもあるように思います。

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 ■「臨床」と「社会」や「政治」のつながり

 東畑 松本さんは精神科医で、ぼくは臨床心理士ですね。両方とも、タコツボ化していくのが常道という面がありませんか? どこかに自分の専門性を持って、それを突き詰めていくのがスタンダード。そのタコツボ化から松本さんは一歩離れて、普遍から見てみたいという話がありましたが、精神医学という分類のなかに閉じこもらないそのモチベーションはどこから来るんですか?

 松本 ぼくはもともと思想史的なものに関心があったんです。だから臨床を考えながら現代思想のことを考えようとしています。東畑さんが京大に入るときのモチベーションはどうだったんですか?

 東畑 ぼくは河合隼雄に憧れて、この世界に入りました。当時の臨床心理学って、社会や文化を語っていたんですね。精神医学もそうですよね。臨床のなかでものを考えながら社会について語るという振る舞いがぼくらの先輩方にはあり、それが喪われていったように感じています。『享楽社会論』で松本さんはそれをやられているわけです。そのことをお聞きしてみたかったのですが、臨床と社会ってどういう風につながっていると思われますか? つまり、タコツボ化したリアリティの上で、それでも臨床から社会を語るってどういうことなのだろうか、という問いなのですが。

 松本 臨床を応用して社会を考えるというよりも、一つの症例を見ることが、そのまま社会を見ることにつながるのではないかと考えています。現代的な発想では、ある一人の患者さんを見ても、社会のことはわからないとされる。多数例を集めて研究しなければ、例えばある病気と貧困がどのような関係にあるかはわからないとされるわけです。しかし、ぼくはあまりそうは思いません。というのは、ぼくたちが教養として学んできたような古典的な症例のことを考えてみれば、例えばフロイトが有名な理論を取り出しているのは、ほぼすべて一例研究からです。つまり、アンナ・O、鼠男、狼男、シュレーバーなど、個別の一例の特異性を見ることによって、ある病気に対する普遍的な事柄が得られるのです。加えて、そこには当時の社会を読み込んで理論化できたりもする。その意味で、臨床的なものは確実に社会や政治につながっているとぼくは思います。ラカンも「無意識は政治的である」という言葉を残しています。

 東畑 事例研究から大きな時代を語るというイマジネーションがあるのですね。それは岸政彦さんがやっておられるようなことです。なぜ臨床は事例から社会を読み取れなくなってしまったのか。

 松本 二〇〇〇年代になってからその状態が続いていて、いまはそこが社会学に移っている。岸さんの『断片的なものの社会学』はまさにそうですね。断片的な個別の一エピソードに耽溺することによって、個別的なものが普遍に抵抗しつつあるあり方、構造を見えるようにしていく。

 こういった時代には、社会や集団との関係から精神病理学や心理学をもう一度考え直さなければいけないだろうと思っています。フロイトは、臨床をやりながら社会のことを考えた人ですね。彼は一九二一年に「集団心理学と自我の分析」という論文を書いていますが、彼は集団を実証的に研究したわけではなく、集団について書かれた本を読むことと、患者の分析から集団論をつくりました。これは、今日的なサイエンスでは到底容認されない手続きですが、その論文は二〇世紀の思想にものすごいインパクトを与えた。しかし、いまはそういう議論の回路がなくなってしまい、心理の人が社会や集団や政治について語れなくなってしまっている。それは、フロイトの集団モデルがそれ以来更新されていないということでもあります。『〈つながり〉の現代思想』でも紹介しましたが、ラカンは、フロイトの集団心理学論文はヒトラーの台頭を予言していると評価しています。しかし、一人の強大な「父」、すなわち指導者がいる集団のことしかフロイトは論じることができず、指導者のいない集団、つまり確固たる権威や権力がいなくなったポストモダン状況における集団が一体どのようなものであるのかをフロイトはほとんど論じませんでした。フロイトは、集団を論じるにあたって、指導者のいる集団といない集団の両方を考えなければいけないとは言うのですが、結局は前者しか論じない。これはある意味ではフロイトの「症状」であると思います。彼は、「父」という垂直的なものに支配されているようなものしか考えることができなかったのです。

 対して、二一世紀に、というか現代の臨床の世界で話題になっているのは、「父」に支配された垂直的な集団に対するアンチテーゼですね。例えば「自助グループ」が挙げられるでしょう。依存症の当事者の方たちが集まって、みんなが平等的な水平的な関係のなかで自分の体験を話すグループの効果がよく知られています。あるいは「べてるの家」の実践や「当事者研究」もその系列に入るでしょう。当事者研究をやる際には、誰かが権威の位置に立つことが諌められます。われわれ精神科医や臨床心理士が当事者研究に参加するときも、当然、自分がメタレベルに立つことは許されない。自分も当事者として何かを話すという水平的な関係の集団をつくることが治癒やリカバリーにつながっていくという発想があるからです。最近話題の「オープンダイアローグ」も、「父」のいない集団の実践です。総じて、現代は水平的な集団が非常に注目されている時代です。かつて社会や政治を考えるときには、垂直的な、「高みにあるものを目指す」ことが重視されてきた。「革命」はその最たるものであり、到底実現不可能と思われる高い理想を掲げるけれども、一度そのロジックに捕らえられてしまうと、そこから逃げることができなくなってしまう。しかし、「革命」の時代の終焉以来、むしろ個別の諸課題についていかにヘゲモニーをとりながら陣地戦を展開するかが注目されるようになりました。だとすれば、臨床の変化は社会運動の変化とも関係しているのではないかと思っています。特に、二〇〇〇年代からそうした変化が明らかに起こっていると思います。

 水平的な集団といえば、東畑さんは最近、『精神看護』の連載で「居場所型デイケア」について書かれていましたね。

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 ■「ゴーヤチャンプルーを超越的に炒めるのは不可能です」

 東畑 はい。ぼくは沖縄の精神科で働いていたとき、多くの時間をデイケアで過ごしていました。ちょっと説明すると、精神科のデイケアとは、病院から退院された方たちが、クリニックに来られて日中を過ごし、帰っていくものです。普通は「治療」というと、仕事ができるようになるとか、学校に行けるようになるとか、何らかの目標があってそれを目指すんだけれど、居場所型デイケアは「現状維持」なんです。というか、「現状維持」というのは専門家が垂直から見た見方であり、当事者が水平から見るならばそれは「生きていく」という営みそのものです。だから、デイケアは治癒を目指さないというか、目指せない。

 先の水平の話とデイケアはつながります。「治癒がない」ということは、専門家を戸惑わせます。「治癒」とは専門家が定義するものであり、臨床プロセスを専門家的に再構成するための道しるべになるものですから。だから、デイケアについて書くとき、ぼくはそこでの居心地の悪さについて書いています。例えば、ぼくはデイケアでずっと「素人仕事」をしているんです。バスを運転して送迎したり、料理を一緒につくったり、キャッチボールをして遊んだりします。水平の世界に引きずり込まれる。

 松本 超越的ないし垂直的なものが全然ない。

 東畑 ゴーヤチャンプルーを超越的に炒めるのは不可能です。それが居心地悪い。しかし、にもかかわらず、それを「若い時の下働き」と片付けることはできません。これはまぎれもなく臨床です。人が生きていくことと深く関わっています。でも、そのゴーヤチャンプルーは専門家の言葉にすると、何かが抜け落ちてしまう。それは何なのか、というのをいま、考えています。その本は「ケアをひらく」シリーズから出る予定なのですが、「ケア」とはそういう意味で本当に現代的テーマです。

 ただ、ぼくは思うんです。二〇〇〇年代に入ってそうした水平のもの、垂直ではないものがたくさん出てきたわけですが、それって居心地が悪くないのかな? って。ぼくらの世代はポストモダン・ネイティブだという話がありましたが、そこから逃げられないのは確かだけど、にもかかわらず垂直的なものに対して憧れを持っているから、松本さんの場合はラカンに向かわれたんだと思うし、ぼくも臨床心理学というものを信じている。水平の流れを手放しで喜んでいいわけではないように思うんです。

 松本 ハイデガーの議論を参照するとわかりやすくなるかもしれません。二〇世紀はハイデガーが知のパラダイムの中心になった時代で、精神病理学やラカン派精神分析もハイデガーの哲学を基盤にしており、その意味で垂直的な議論としての側面を強くもっており、ヤマカッコ付きの〈存在〉や「真理」が重視されていた。ぼくもそういうタイプの垂直的な議論に憧れてこの世界に入りましたが、実際に臨床を始めたのはいわゆる「ゼロ年代」でしたから、「俺がいままで読んできたやつと違うぞ」ということがたくさん生じてくる。勉強してきたものは垂直の世界であり、「死に向かう存在」とか「本来性」といった垂直的な事柄が問題になっていましたが、実際の臨床はそうではなくて水平的だった。だから最初は、「自分はこの水平化した世界に垂直の亀裂を走らせてやるんだ」と半ば本気で思っていました。

 でも、そうじゃないんだなということにだんだんと気づいてきました。垂直が本来的でかっこよく、水平は非本来的でイマイチであるというのは、単にハイデガー主義の思いこみです。ハイデガーの『存在と時間』の有名な議論ですが、「友人がこう言っているから自分もそうする」というような「ヨコ」のつながりに生きることは「頽落」である、つまり堕落した人間の姿だとされています。水平的な世界のなかだけで生きていると、ダメになってしまうというんですね。たしかに、そのような生き方は巨大なシステムに容易にコントロールされるようになってしまい、人間としての本来性を失ってしまうかもしれない。だから人は、自分が「死に向かう存在」であることを先駆的に、前もって覚悟して、自分自身の歴史に目覚めなければいけないとハイデガーは言ったわけです。しかしそうはいっても、先ほど東畑さんから、心理臨床の実際は曖昧なもののアマルガムからなっているという話がありましたが、「事実性」も大事なのです。事実として水平的なものがこんなにも効果を持っているとしたら、それにはどういう哲学的、人文科学的、あるいは臨床的根拠があるのかを考えなければなりません。

 東畑 沖縄で野の医者と会ったりしながら、ぼくは「構造」を探しているんです。ぼくが心理療法でやっていることと、彼らローカル・ヒーラーがやっていることは表面的には全然違います。彼らは「天使」を呼び出しますが、「転移」は扱わない。その違いのほうを語っていくと、タコツボ化のほうに行くんだけど、そうではなくてその裏にある共通する構造をぼくは見ようとしています。背景、裏にある深い垂直性を見ようとしている。

 松本 そういう考え方には、大きな可能性があると思います。精神病理学や精神分析は垂直的なことをずっと語ってきましたが、現代は水平的なものがかなり機能している。しかし、ちょっとした垂直な要素も結構大事なのではないかと考えてみる。反動というか、「昔はよかった」ではなく、「ちょっとよかった」といった感じで、水平の世界にちょっとだけ垂直なものを入れる。『享楽社会論』では「脚立」という言葉を取り上げています。かつての主体モデルの理想が梯子をつかって高みに登るモデルだったとしたら、いまは脚立が重要です。梯子はかなり高いところまで登れるけど、登りきった後には投げ捨てられてしまう。だから一回高みに登ると降りられなくなってしまい、どうしようもなくなってしまう。それは、昔の統合失調症の人の世界ともよく似ている。ビンスワンガーの言った「思い上がり」ですね。そうではなくて、垂直的な運動をするにしても、梯子ではなく脚立を使う。これなら、本棚のちょっと高いところにある本を取るという程度の垂直性を確保できる。ぬるい考えかもしれませんが、現代ではこれが大事だと思っています。水平的なものが溢れている世界では、知らない間に資本や権力などに管理されてしまう。それに対して抵抗するときに、垂直的にあまりにも高いもので抵抗しても負けてしまう。大文字で書かれる「革命」は不可能な時代ですから。ならば、脚立くらいのちょっとした垂直性を確保することが一番ヒットする抵抗になるのではないか。先ほど東畑さんが資本主義というかネオリベをハッキングするといった話をしましたが、それも近いと思います。

 東畑 松本さんはラカン派ですが、ぼくは対象関係論という学派の精神分析に惹かれていきました。もともとユングに憧れて大学院に進んだわけですが、途中から対象関係論に乗り換えたんです。そのきっかけは、ボーダーラインのクライエントと出会ったことです。彼らとの臨床では治療関係が非常に難しいことになりやすい。対象関係論はそういう難しさを考える視点を与えてくれます。「転移」といって、クライエントと治療者の間にあらわれている難しい関係を、母子関係の反復として理解するような、それこそちょっとした垂直を入れるのです。そうすることで、ヨコの難しさをいかにして生き残っていくのかを、対象関係論は教えてくれます。自己実現をどうしていくのかというタテの軸ではぼくはもうものを考えられなかったんだけれども、ヨコの「転移」をどうしていくのかというのはいまでもアクチュアルだと思っています。ただ水平なだけではなくて、その一段下や、あるいは裏に何があるのかという思いが、ぼくの臨床を支えているんだと思います。

 松本さんから脚立の話が出ましたが、ぼくのキーワードは「深層」なんです。ぼくのほうは下降のイメージがある。松本さんはちょっと登るけど、ぼくはちょっと下がる。ラカン派は、深層心理学という言い方はあまりしないと思うのですが、ぼくの垂直は下方向なんですね。

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 ■「ヨコ」のつながりと、「タテ」の関係

 松本 なるほど。水平的な関係は容易にマーケットに接続しますが、東畑さんはいまそういう研究をなさっているんですよね。

 東畑 「市場に癒される」というプロジェクトです。これは、ぼくが時代遅れな男だという前提から始まります。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の第二話みたいなもんで、垂直人間のぼくが水平性の世界に迷い込んでしまって混乱している。だから、いまぼくは一体どこにいるのかを明らかにしようとしています。そこで現在のエッジをフィールドワークしているんですけど、行ったのが「アドラー心理学」。次に「マインドフルネス」。それから「コーチング」。

 松本 チャラいなあ(笑)。

 東畑 チャラいでしょ(笑)。これらはどれも、アカデミズムの世界からは非アカデミズムだと見なされている。にもかかわらず人々の心を打っている。フロイトは知らなくてもアドラーは知っている時代なんですよ。

 松本 しかも確実に人々の心を支えていますからね。

 東畑 そう、それで調べてみると面白いことがわかったんです。コーチングを例にとると、コーチングを受ける人は会社で普通に働いていても、何か調子が悪い。軽いうつのようになっている。そのときにコーチングの本を読んだりする。「なんか怪しいな」と思うんだけど、一回なら話を聞きにいってもいいかなと思うようになる。コーチングには、「本当の自分を見つける」という発想がありますから、軽い垂直ですね。そういうものと出会い、「本当の自分」が見つかるんですよ。面白いことに、コーチングのスクールに通って見つかった「本当の自分」とは、「コーチになりたい自分」です。

 松本 再帰的近代化だ(笑)。

 東畑 そうそう。そうすると、彼にはここで一回目の癒しが訪れます。ただし、これはまだ自己実現の枠にとどまっている、モダンな癒しだと思います。そこから彼は、本当にコーチとして生きていきたいから、会社を辞めることを考え始め、実際に辞めてしまいます。収入がなくなる。にもかかわらず、彼は幸せなんです。なぜかというと、夢を追いかけている自分になれたから。「どこかに向かっていく自分」を措くことによって、自分というものが定義されている。それで彼らは自分は幸せだと言うんだけれども、後から聞くと、「あのときは辛かった」と言います。「いまはどうなの?」と聞くと、「いまは幸せだ」と。その間に何が起こったのか。いろいろ試行錯誤した挙句に、会社で働いていたときよりも多いマネーを得ることができたと。つまり「市場に癒される」。

 ここで重要なことは、カネが癒したわけではないということです。自分にカネを稼ぐ能力があることに癒されているわけです。自分は何らかの組織に属さなくても、SNSなどを通じてカネを稼ぐことができるようになったという凄まじい安心感を彼らは感じています。これは、母親というものに対する深い不信感の話だと思います。正規雇用が減少し、社会=母親が個人を抱えてくれなくなった。だから、自分で自分を抱える。

 松本 マネーを稼げるシステムを構築できた自分に安心する?

 東畑 そうです。これはアントレプレナー(起業家)的自己へと自己形成していく物語です。彼らはリスクマネジメントをし続けます。平井秀幸さんの『刑務所処遇の社会学』には、刑務所での矯正がどのようになされるのかが書いてあります。取り上げられているのは認知行動療法なのですが、認知行動療法によってかたちづくられる主体とはリスクマネジメント的なものです。リスクをコントロール、調整し、サヴァイヴしていく自己。これはネオリベ的な主体――フーコーの「生政治の誕生」で論じられている「ホモ・エコノミクス」だと思います。

 いま、認知行動療法が社会を席巻していますが、これはまさにアントレプレナー的自己を大量生産する時代の反映なのではないかと思っています。実際に、成功している起業家は、言われなくても、認知行動療法的に、自分のPDCA(Plan, Do, Check, Act)サイクルを回すことをやっておられます。彼らは市場に最適化した自己をつくっていきますが、それはまさにホモ・エコノミクスになることであり、アントレプレナー的になることであり、リスクマネジメント的になることであり、認知行動療法的になることであるのではないかと考えているんです。

 松本 東畑さんは、いまカウンセリングルームを開業されていますよね。そこにはそういう人は来るんですか?

 東畑 沖縄で臨床をやっていたときとはやはり全然違います。沖縄にいたころは、自我が損傷していて、働くことはおろか生きているのも難しい人を相手に臨床をしていました。『日本のありふれた心理療法』では、「覆いをつくる」という話をしています。深層を掘り下げていくのではなくて、深層が突出してしまうと危険になるから、そこに「フタをする」治療をしていました。いま東京では、働ける、カネは稼げる、でも小さなうつがいろんなところにあり、自分がどこかおかしいと感じる人たちと会っています。自然に認知行動療法的に生きておられる人たちが、ぼくのところにやってきている。そういう人たちには、「フタを開ける」、掘り下げる垂直性の治療が必要です。垂直方向で掘り下げるとわかってくるのは、彼らのなかで「依存」が難しくなっていることです。リスクマネジメントとは「自律」ですから、人に依存することを知らない。自分のなかの依存したい部分を殺し続ける。なぜなら、外界(自分以外)は信頼できないから。

 松本 リスクだからね。

 東畑 そう。「他者」は最大のリスクですよ。

 松本 結婚とか子どもをつくるとかね(笑)。

 東畑 もう最大のリスク(笑)。そうなると、親密性の次元に対して難しさが出てくるんです。人に依存するより、酒やセックス、あるいは仕事に依存する。そういう人を主な対象としてぼくは臨床をしています。働く、カネを稼ぐというアントレプレナー的な文脈ではリスクマネジメント的な主体になる必要があるんだけれど、誰かと一緒に生きていくとか、大切な人を大切にするという文脈では、「自律する」モードではなくて、「頼る」「依存する」「ケアする/される」モードが必要です。そうか! 掘っていくと逆にヨコが出てくるのか。

 松本 そうそう。逆説的なんだけど、タテをちょっと掘ると、ヨコのつながりが出てくる。

 東畑 タテを掘ることによってヨコをきちんと機能させていこうとするのが、ぼくがやっている心理療法だという気がします。

 松本 同じことが、(「ハイデガー主義」ではない)ハイデガーに関しても言えると思います。ある種のハイデガー読解においては、『存在と時間』は水平のつながりがないと垂直的な「良心の声」が出てこないんだと言っているとされています。ヨコがないとタテもなくなるんですね。

 東畑 面白いですねえ。

 松本 ハイデガーを読み直すことによって、ヨコのつながりがあることによってタテの関係ができるという思想を提出できるのではないかと思っています。非本来的とされてきたものが実はけっこう根源的なのではないかと考えられるわけです。この水平だらけの世界にちょっと垂直を立てるとか、ちょっと垂直に掘る。そうすることによってヨコの水平的な関係も豊かになる。

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■「斜め」とは垂直と水平のほどよいバランスである

 東畑 松本さんは『享楽社会論』でデモについて書かれていますね。あの「つながり」は、市場のそれでもなく、親密圏のそれでもない。しかも、あの松本さんの記述はメチャクチャ筆がノッている。トーンが違って、エモーショナル。

 松本 デモの「つながり」、マルチチュードと言ってもいいかもしれませんが、あれはもちろん垂直的な集団ではなく、水平的な要素が多々あります。ですが、むしろ、そこに行くと自分が変化することが重要です。

 東畑 へえ。デモに癒される(笑)。

 松本 3・11以後のデモでは、「シングル・イシュー」であることが是とされたりしました。つまり「脱原発」という一つのテーマでやるのだから、他の問題を持ちこんでくれるな、と。しかし実際には、二〇一四、五年ごろからでしょうか、一つのデモに行くと、いろんなイシューに関心をもってやってきている人たちが増えました。そういう人たちとデモの現場で話すことができる。特に面白かったのは、何万人も集まる大規模なデモより、あまり盛り上がっていないようなとき(日曜の昼間とか)です。そんな日でも、数人から数十人程度の人がいるんですね。すると、そこに集まったいろんな出自や興味をもつ人々が、自然に集まって話すようになるんです。本当にいろんな人がいます。「へえ、そんな問題があるのか」とか「そこは共闘できるかもしれない」とか話す。デモに行くということは、あるイシューに自分がすごく興味をもっているということですよね。つまり一つの目的で行っている。しかしデモに行き、そこに来ている他者と話すことによって、別な問題に興味が移ってしまったり、二つの問題が実は一緒なのではないかという気づきがあったり、自分も相手も変わっていくことがあるんです。そういうタイプの水平性、つまりちょっとした垂直性を可能にするような水平性のことを考えています。

 東畑 それはSNS文化と親和性があるんですかね? いま、インターネット上の自助グループや、2ちゃんねる的なセルフヘルプ文化が興隆しているように思うのだけど、いま松本さんがおっしゃったデモの現場での偶然のつながり、結びつきとは関係があるのかないのか。

 松本 デモとネット上のつながりは質が全然違うと思います。身体が伴っているかどうかです。ネットで知り合って話しても、嫌だったら関係を切断できるじゃないですか。いわゆる「クソリプ」が来たらブロックすればいい。ネットでは他者に「耐える」ことができない。ちょっと嫌なことがあったとき、他者に耐えることには向かないのがネットです。反対に、デモの現場に行くと、他者の身体があって、そこでちょっと変なことを言われて「あ、こいつヤバそう」と思ってもすぐにはなかなか逃げられない。相手もこちらを見ているし、周囲の人もいて、気をつかっちゃうから。他者の前に立ってしまったからには、その人の話を一応最後まで聞かないといけない。すると、変なヤツだと思っていても、話を聞いていくと「あ、わかった」という瞬間がやはりある。それが面白いんです。反動的なことを言いますが、ネットのつながりではできないことがあって、生身の身体でつながることが大事なのです。より広く言えば、身体というか、物質的な、モノとしての側面が重要だと思っています。他者の身体がモノとして目の前にあるがゆえに、そこから逃れられないということが重要なのです。

 これも大澤聡さんから聞いた話ですが、電子書籍を読ませるグループと紙の本を読ませるグループで実験をすると、内容の理解(記憶)に関してはその二つのグループ間に差はないのだそうです。しかし、エピソードの順番(つながり)の理解については、紙の本のグループが有意に高い水準で理解していたというのです。つまり、紙の本は「めくる」という動作を伴うがゆえに、いま自分がその本の何パーセント地点にいるかが物質的にわかる。身体の知覚とともに記憶されている。しかし電子書籍にはそれがない。「ページをめくる」ことができたとしても、厚さという物質的なものと同時に記憶されないから、出来事が秩序だてられず、すべてが同じ平面にフラットに並べられてしまう。紙の本には、本の物質性が担保している機能があるわけです。だとすれば、電子書籍では「小説」は読めないのかもしれません。というのも、小説はふつう時間的経過と関係しているものですから。より正確に言い直すなら、電子書籍向きの小説は紙の本のそれとは異なるのではないでしょうか。時間の流れが極度にわかりやすいものとか、時間の流れが関係ない小説であれば電子書籍のほうが読みやすいでしょう。この「時間にまとめあげる」という機能が、物質的なものが担保しているちょっとした垂直性だとすれば、人と人のつながりにおいても同じことが言えるのではないかと考えています。

 東畑 松本さんはかなりモダンな人ですね。キンドルより紙の本がいいと力説する(笑)。

 松本 いや、ポストモダンに対する反動ですよ(笑)。

 東畑 本気でポストモダンだったら、本気でタコツボ化しちゃいますからね。タコツボ化していることに気が付かないほど、タコツボ化するのがポストモダンの帰結です。そのとき、ぼくらはなぜわざわざタコツボ化せず、普遍に向かおうとするのか。「普遍」は、すさまじくモダンな概念です。モダンに憧れるが故に、メタにならないとモダンではいられない。メタでいること自体はポストモダン的ですが、松本さんの振る舞い自体は非常にモダン。

 松本 だいたい、ぼくの専門はいまだに精神病理学ですからね。まさにモダンの学です。そちらに親和性があるんでしょう。

 精神病理学という学問自体についても考え直さなければならないと思っています。今日の話にも関わりますが、臨床には、曖昧さ、ヌルさ、ほどよさが重要だったりしますが、そのことはこれまでなかなか議論されてきませんでした。垂直性一辺倒の議論があり、それに飽き飽きした人々が水平性の議論をし、両者が分断されていた。その両者のあいだの「ほどよさ」――その「ほどよさ」のことをぼくは「斜め」と言っていますが――を臨床の言葉として、また思想や政治の言葉としてどうやって洗練させていくか。おそらく國分功一郎さんの『中動態の世界』もそうしたことをやろうとしているんだと思います。人間はこれまで主体という概念を「意志」と「責任」と関連する強いもの=垂直的なものとして問題にしてきたけれど、そうではないオルタナティヴな主体のあり方を考えることができるのではないか。現代では、そういったことを、同時多発的にいろんなジャンルの人が考えている、言い換えれば、それが二〇一〇年代の思想と臨床、そして政治をつなぐキーワードなのではないかと思います。かつてのモダンの強い主体でもなく、かといって完全に管理された水平的な非‐主体でもなく、その中間に何が起こっているのかを捉えようとする動きが重要になってきているのではないでしょうか。

 もちろん、「斜め」という言葉の重要性は、昔からよく言われていることです。タテは抑圧的だからダメ、ヨコは管理されてしまうからダメ、だから両者を乗り越える「斜め」が重要なんだと。だけども、実際、「斜め」って、どういうことをすれば「斜め」になるのかがよくわかりませんよね。ドゥルーズ=ガタリや浅田彰のように「逃走線を引く」という言い方で「逃げる」ことは、「斜め」の戦略の一つだと言われてきましたけれど、実際にどうやって逃げればいいのでしょう。例えば、終身雇用や仕事や家庭などから逃げ続けていくと、その結果として非正規雇用で苦しんだり、ネットカフェ難民になってしまったりする。だから、「斜め」とか「逃げる」というスローガンはそのままのかたちでは現代に通用しない。ぼくがいま考えているのは、「斜め」という概念を「垂直でも水平でもない」と考えるとわかりづらいから、もういっそのこと、「斜めとは垂直と水平のほどよいバランスである」と言ってしまったらいいのではないかということです。そうすれば臨床的な具体的なイメージとつながるのではないかと考えています。

 東畑 ほどよさ! ドナルド・ウィニコットという精神分析家は、「完璧なお母さん」とは、どこかおかしなところがあるお母さんだと言います。だから「ほどよいお母さん」がいいものだと。ここでいう「ほどよい」とは、「たまに失敗する」ということです。たまに失敗したときに、子どもはファンタジーから目覚める。完璧なお母さんとは、魔法使いのような、ドラえもんのようなもので、のび太が一生大人になれないのはドラえもんのせいです。たまに失敗し、たまに現実の辛さを見せてくれる、しかしそこに悪意はないのがほどよいお母さん。

 今日の話には「母親の欠如」という問題系があったように思います。一方で統計学的な超自我があり、もう一方でタコツボ化したところで権威的なシステムがつくられたりする。曖昧なものや怪しいものを抱え込んでくれるお母さんがどこにもいない。そのなかで松本さんが『1990年代論』(大澤聡編著)で書かれた「サヴァイヴ」というぼくたちの世代のテーマが出てきている。「ほどよい」場所をつくるというのは、そういうものを抱えることなのかなと思いました。

 (了)