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紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

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 ◆ 3362号(7月28日発売号掲載)

暗がりのスクリーンに投影された映画の光、聖性の美

インタビュー:はらだたけひで氏

 ■先ごろ、岩波ホールのはらだたけひで(原田健秀)氏の『グルジア映画への旅――映画の王国ジョージアの人と文化をたずねて』(未知谷)が刊行された。岩波ホールでジョージア(現在の日本における呼称。グルジアはロシア語からの旧呼称)映画の上映に尽力し続けてきた、はらだ氏によるグルジア映画への誘いの書であり、同国の映画人との四〇年にわたる交流の記録、生きた映画史でもある。

 岩波ホールでは八月四日から、創立五〇周年特別企画として、同国映画界の巨匠テンギズ・アブラゼ監督の三部作「祈り」「希望の樹」「懺悔」(ザジフィルムズ配給)が公開される。また一〇月一三日から二六日まで、新旧の未公開作品約二〇作を一挙上映する「ジョージア(グルジア)映画祭――コーカサスの風」も開催される。グルジア映画に存分に触れることができる、またとない機会である。

 本書を手がかりに、グルジア映画の世界をめぐって、はらだ氏に話をうかがった。なお、記事内ではジョージアの表記を旧称のグルジアに統一した。(6月16日、東京・神田神保町の岩波ホールにて。聞き手・米田綱路〔本紙編集〕)

 ■映画「放浪の画家ピロスマニ」との出会い

 ――今夏から秋にかけて、岩波ホールではグルジア映画の特集上映が続きます。これほどの大特集は世界的に見ても貴重で、はらださんのグルジア映画人との長きにわたる交流の結晶といえる企画ですね。

 はらだ 映画には作り手の時代が如実に映し出されますが、時代を超えることもでき、時代を変えることもできると私は信じてきました。しかし一〇年ほど前から上映作品を選定するにあたり、その思いに応えてくれる作品になかなか出会えず、苦慮することが多くなりました。その背景には時代とともに映画の質が変わったこと、そしてミニシアターの苦境があります。シネコンが主流になり、小さな映画館では利益が上がらないと、その意義を理解してくれる会社が少なくなりました。映画館の観客離れも進んでいます。

 それならばあえて岩波ホールとしての役割を主張してみてはどうか。例えば古典文学をくり返し読むように、未公開の優れた旧作を上映できないだろうかと考え、なかでも旧ソ連邦、グルジアの伝説的な映画を上映したいと願うようになったのです。

 私は、一九七八年に岩波ホールで上映した「放浪の画家ピロスマニ」(ギオルギ・シェンゲラヤ監督)に人生が変わるほどの影響を受け、以降、ピロスマニとグルジアに強い関心を持っています。映画については、当時はソ連邦時代ですから、ロシアより遠いグルジアの映画資料はほとんどなかったのですが、どんなに些細なことでも手に入った情報は大切に保管してきました。しかしそれらは所詮断片の集積にすぎず、その全体像は想像するしかありません。まして現在作られている映画や監督たちが置かれている状況、機構やシステムについてはまったくわかりませんでした。

 二〇一五年に、「放浪の画家ピロスマニ」を岩波ホールで再上映するにあたり、グルジアの首都トビリシ在住の言語学者児島康宏さんと私が中心になって、映画プログラムを作りました。そのときシェンゲラヤ監督に、私たちはソヴィエト時代のグルジア映画のことは多少知っているが、その後の現代の動きを知らないので執筆者を教えてほしいと相談したところ、映画史家のマリナ・ケレセリゼさんを紹介されました。いただいた彼女の原稿は期待にたがわずグルジア映画への愛がしみじみと伝わってくる心のこもった内容で、私はぜひお目にかかりたいと思い、翌年五月にトビリシでお会いしたのです。

 そのときに私が希望する作品のリストをお見せして、日本で上映するにはどうしたらよいかと相談したところ、ケレセリゼさんの答えは悲しむべき事実でした。一九九一年のソ連邦解体後に続いた内戦や紛争によってグルジア社会は荒廃し、そのなかでフィルムの映写機が使えなくなり、あげくに二〇〇四年に起きたビル火災のために、そこに保管されていた劇映画のプリントのほとんどが失われてしまった。ただしソ連邦時代のネガはロシアに保管されていて、現在、グルジア政府はそれらを少しずつ買い戻そうとしているとのことでした。厳しいグルジア経済を考えると大変困難なプロジェクトです。今回、映画祭で上映するソ連邦時代の映画は、そのようにして戻ってきた貴重な作品です。

 そして私のリストを見たケレセリゼさんは、遠い日本からはるばる来て、グルジア映画のことを夢中になって語る人がいるなんて想像もしていなかった。とても嬉しいと目に涙を浮かべました。私は彼女の映画への愛情に心打たれました。しかし彼女の涙に応えるだけのことを私はまだ何もしていません。彼女の思いに応えるために、私はグルジア映画のことをもっと学ばなければならないと思うようになりました。

 その後、グルジア語なので内容は想像するしかないのですが、時間があればインターネット上にある作品を観たり、集めていた資料を読み返したりしているうちに、小さな点にすぎなかった断片的な情報が少しずつ繋がって線になり、それが太くなってきました。一人ひとりの人間の仕事が、群像へと広がって、一一〇年にわたるグルジア映画の歴史が大まかですが見えてきたのです。

 ソ連邦時代だけではなく、以降も大変厳しい状況下に置かれているにもかかわらず、自らの映画を守り抜いてきたグルジアの人々の情熱も見えてきて、この国の文化に長く関わってきた者として、グルジア映画と人々の思いを、日本に紹介することが私の使命、義務だと改めて思うようになりました。

 ――『グルジア映画への旅』には、映画人たちの豊富な聞きとりが織り込まれています。まさに生きたグルジア映画史ですね。

 はらだ トビリシはほどよい大きさの街で、人々の会う機会は多く、そのネットワークは広く深いので、グルジア映画のことで右往左往する私を、皆さんがとても親切にしてくれました。その厚意が申し訳なくて、一〇日もいれば息苦しくなるほどです(笑)。

 グルジアへ行くたびに知人が増え、さらに人を紹介されて、次から次へと児島さんと一緒に関係者に会うなかで、現在のグルジア映画の状況やシステムがようやくわかってきました。そして監督や映画機関のスタッフの話を聞くうちに、これらの話を活字に残さなければならないと痛感したのです。特に年配の監督たちの話は貴重であり、映画史に隠されている時代の真実が垣間見えるようでした。この本に記したことはほんの一部にすぎません。これからさらに歴史の隙間を埋める作業をしなければなりません。

 私は画家ピロスマニに打ち込み、本を何冊か書く機会がありました(『放浪の画家ニコ・ピロスマニ――永遠への憧憬、そして帰還』冨山房インターナショナル、二〇一一年ほか)。彼を研究するなかで、晩年の貧しいピロスマニを援助した若い芸術家たちのなかに、彫刻家のミヘイル・チアウレリがいました。その後、チアウレリは一九二〇年代に躍進するグルジア映画界に飛び込み、映画監督として頭角を現してゆきます。

 彼は戦後に「誓い」(一九四六年)や「ベルリン陥落」(一九五〇年)などの大作を作ってソヴィエト映画の大家になりました。しかし、この二作はスターリンを神格化する映画であり、その前の映画「ギオルギ・サアカゼ」(一九四三年)は、グルジアの歴史的な英雄サアカゼにスターリンを重ねた戦意高揚の映画でした。ですから私はチアウレリにはスターリンの覚えめでたい、体制に媚を売る監督という印象を持っていました。

 しかしアブラゼ監督の弟子にあたるザザ・ハルヴァシ監督にチアウレリの話を聞いてみると、確かに彼はスターリンに寵愛されたが、スターリンに媚びていたわけではない。あの粛清の時代にグルジアの監督が一人も殺されなかったのは、チアウレリのおかげだ。彼がスターリンの傍について一生懸命努力したからだというのです。そのような話を聞くと、やはり歴史の見方が大きく変わってきます。

 ちなみにチアウレリの妻は、往年の大女優ヴェリコ・アンジャパリゼです。今回上映する三部作の一つ「懺悔」のラストシーンで、「独裁者の名を冠したこの道は教会に通じていますか?」という有名になった質問をする通行人の老女の役で登場しています。これがアンジャパリゼの最後の演技といわれています。八七歳でした。

 それからハルヴァシ監督は、チアウレリと同じような逸話がソ連邦末期にもあったといいます。八〇年代終わりにグルジアでは独立の機運が高まり、爆発寸前でした。そのときにグルジア・フィルムの所長を務めていたレヴァズ・チヘイゼ監督の娘は独立運動のリーダーの一人でした。彼女がモスクワに対してアンチを唱えない父親の姿勢を非難したところ、チヘイゼ監督は、「お前たちが血を流さないで、将来、無事に独立を果たせるように、自分はこういう立場に甘んじているのだ」といったそうです。

 そういう話を聞いていくなかで、私は外からは見えにくいのですが、グルジアの映画人の心はどこかで一つに繋がっていると思うようになりました。

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映画「懺悔」にも現れる独裁者と芸術家の関係

――鳴り響く「聖愚者、僭称者、年代記作者」の音楽
評者:三輪智博

 ■テンギズ・アブラゼ監督の「祈り三部作」の掉尾を飾る「懺悔」(一九八四年)に、独裁者と芸術家が相対するシーンがある。画家のサンドロは、市長として権勢を誇る「偉大な男」ヴァルラムに対して、聖堂内での原子力実験が文化遺産を破壊し、人々の精神の根元を断ち切ることになると実験の中止を求める。ヴァルラムは不気味な笑みで恫喝を交えながら「私は何も見逃さんよ。だから君も私に用心したほうがいい」「警察は人民の敵を追跡し、画家は熱心に絵を書く。これで良いのかね」「これからは違う。我々は楽園を造る」と言い放つ。彼らのいるガラス張りの温室は楽園を髣髴させるが、外から甲冑姿の兵士たちが覗いて監視の目を光らせている。そしてこのとき、温室内に音楽が大音響で鳴り渡った。トビリシ生まれのアルメニア人作曲家で、ショスタコーヴィチやプロコフィエフと並び称されたソヴィエト三大巨匠の一人、ハチャトゥリャーンの「剣の舞」である。

 ヴォルコフの本書の「プロローグ 皇帝と詩人」には、スターリングラード攻防戦をへて、ソ連存亡の危機をくぐりぬけたスターリンが、新しい国歌を作るべく、ボリショイ劇場で最終審査をする様子がえがかれている。最終選考まで残ったのは、ハチャトゥリャーンとショスタコーヴィチだった。結果的には、今日のロシアの国歌でもあるアレクサンドロフの曲が採用される。だが、スターリンはショスタコーヴィチを前に、彼の名を呼んで一呼吸置いたあと、あなたは「感謝されてしかるべきだろう」と続けた。このときショスタコーヴィチは、「外に連れ出して銃殺」とスターリンが続けるものと思い込み、心の準備をしていたという。まるで「剣の舞」が鳴り響くかのような場面である。

 ヴォルコフは、独裁者と芸術家の関係をニコライ一世とプーシキン、すなわち皇帝と詩人の「神秘的」紐帯から解き明かす。皇帝に対する詩人は、ロシア史の典型的な登場人物である「聖愚者、僭称者、年代記作者」の三位一体とされる。皇帝に向かって臆することなく真実を語り、証言するだけでなく裁きすらし、記録するだけでなく冒険にも乗り出す。この三位一体は、『ボリス・ゴドゥノフ』をとおしてプーシキンからムソルグスキーへ、そして二〇世紀のショスタコーヴィチへと継承される。権力、知識人、人民というロシア史上のトリアーデは、ソヴィエト時代において、スターリンとショスタコーヴィチと人民という形で具現したのである。見かけは弱々しく控えめだが、伝道者のような熱意とエネルギーに満ち、試練をくぐり抜ける粘り強さと勇敢さ、機転のよさと思慮深さで際立つ天才――。ニコライ一世はプーシキンについて「ロシアで最も賢い人物」と形容したが、時代と気質と状況の違いを鑑みれば、それはスターリンのショスタコーヴィチ評にも相当するというのがヴォルコフの見立てである。

 ショスタコーヴィチは生涯に幾度も、スターリンの企んだ攻撃に晒された。一九三六年のオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』への「音楽ならざる荒唐無稽」批判、四〇年代後半のジダーノフ批判を頂点として、国家的抹殺に近い批判の集中砲火を浴びている。だが、ショスタコーヴィチは落ち着いて、懺悔することも迎合することもなく、前者のときには交響曲第四番を、後者のときにはヴァイオリン協奏曲第一番を完成させたのである。「もし私が両手を切り落とされたとしても、それでも私は歯でペンをくわえて作曲するだろう」と彼は誓い、批判や圧迫を創作によって耐えしのいだ。いや、むしろ攻撃によって、いっそう創作のエネルギーを燃焼させさえしたのである。ハチャトゥリャーンは、弾圧に対して新たな音楽のインスピレーションで応えるという、ショスタコーヴィチの類まれなる能力を、とても羨ましく思っていたという。いつ襲うとも知れぬ攻撃に身構えて神経過敏になりながら、残酷な時代を創造的に生きのびる術に誰よりも長けていた――ヴォルコフは本書で、ショスタコーヴィチの聖愚者ぶりをみごとに造形している。

 独裁者が芸術家に見せるのは冷酷さだけではない。ときに、それと表裏をなす無気味な慈愛と柔和さすら覗かせる。映画「懺悔」では、サンドロ宅を訪ねたヴァルラムが彼の絵を見て感嘆したような表情を見せ、「我々は君のような芸術家を求めている。人民を啓蒙して文化水準を上げねば」と言う。それに対してサンドロは「私の絵や、あなたの努力だけで、深い文化の伝統を持つ人民を啓蒙できますか。人民を啓蒙できるのは、精神的指導者や、高潔な英雄だけですよ」と応じるのだ。サンドロは人民の敵と断罪されて粛清されるが、ショスタコーヴィチは「厳しい試練によって決定的に人生を損なわれ」ながらも、スターリンに必要とされ続け、人民の歴史を表現した不朽の年代記たる音楽を遺した。はたしてそれは、著者がいうようなショスタコーヴィチの“勝利”だったのだろうか。本書から、独裁者と芸術家の関係にひそむ秘密を紐解いてほしい。

 (現代史研究)

ミクロの視座から戦場と内地を、管理された空間として捉える

――当時の日中戦時下のメディアは高度に管理されたプロパガンダ空間であった
評者:中山弘明

 ■話題の映画『ゲッベルスと私』を観た。ナチの著名な宣伝相の元秘書だったポムゼルの一〇三歳にも似合わぬ明晰な語りと、モノクロのメタリックなまでの皺の陰影深さと美貌は、歴史の〈今〉を鋭く問いかける。果たして人は愚かだったのか、抵抗は可能だったのか。差し挟まれる様々な記録映像とゲッベルスの言葉は今も我々を挑発する。彼女は言う――当時「我々はみな透明で巨大なガラスのドームの中にいた」と。そしてその空間はそのまま強制収容所に繋がる。戦後、彼女もまたソ連で抑留を体験している。この書評では、五味渕氏の著書を、出来るだけ異文学と交差させて書評してみたい。

 本書の最大の読みどころは、なんといっても石川達三の著名な『生きてゐる兵隊』筆禍事件と火野葦平の『麦と兵隊』生成をめぐる巧妙な広報戦に、これもよく知られた文士の「従軍ペン部隊」をめぐる論議をからませ、それをさらに小林秀雄の火野への芥川賞授与イベントへと拡げつつ、こうした当時の日中戦時下のメディアが、高度に管理されたプロパガンダ空間であり、そこで立ち働いた人々を一種のエージェントとして観ていく卓抜な調査力にある。本書で著者は、当時の日本軍や政府の内部資料に徹底して拘ることで、言わば一兵士の視点で、戦場に働く法や制度がいかなるものかに敏感であろうと心がけている。当時の新聞・雑誌は言うに及ばず、歩兵操典や報道部資料まで、この一次資料による内在的視点は、ミクロの視座から戦場と内地を、管理された空間として捉える息詰まるほどの迫力となって読者を襲い圧巻である。特に火野が、こうした諜報戦において、実地に養成された有能なエージェントであった事実を、精緻に描き上げていくプロセスはドラマティックでさえある。

 今一つの本書の大きな収穫は、「人間性(ヒューマニズム)という言葉」を鋭く審問に掛けている点だ。ヒューマニズムの言葉はしばしば「善意」にのみ解釈され、反戦思想と安易に結託してきた。しかし本書が論じるように、戦場が人間性を高める場として認識され、高次の主体性を求める言説と親和的であるのは、当の火野葦平が最もよく実証している。彼をはじめとした兵士の「質朴さ」や「寡黙さ」の中に、当時の文学は過度な倫理性と「人間らしさ」を見出したのである。そうしたイベントに一役買ったのが小林秀雄であることは言うまでもない。著者はそうした「ヒューマニズム」が、我々の中に確かにいるはずの「他者」を消去させると述べる。修行にも似た軍隊での生活を美化することで、「敵」の顔さえ曖昧化され、テクストを揺さぶる他者の侵入を食い止める安全装置に、それは化していくというわけだ。

 本書に抱く疑問点も、また如上の視点の裏返しのものとしてある。つまりあまりに高度に管理されたエージェントとしての性格を強調することは、一面で彼等が凡庸な一市民であった事実を隠してしまわないだろうか。また内在的なミクロの視座は、プロパガンダの今一つの側面である世界的な共時性や広がりの面を失わせる恐れも感じさせる。

 例えば第一次大戦後一大ブームとなったE・レマルクの『西部戦線異状なし』は、戦後反戦文学の代表の如く読まれたが、発表当時はむしろ表題の即物的な電信と「戦場のスペクタクル」が受け、さながらレヴューのように舞台化され日本でも競って上演された。同じようにヘミングウェイやロストジェネレーション、ハードボイルドの文学にしても、単純な反戦/聖戦の二分法では語れない。それらは一般に戦後文学に影響したとされているが、果たしてそれだけか。そこに見られる「友愛」と「即物性」の文体は、戦前のモダニズムと通底するのではないだろうか。それとからめて本書の二章にこんな記述があるのも気に掛かる――「彼ら彼女らは、つい一〇年ほど前に盛んに議論されていた前衛的な言語実験の記憶を、いったいどこに置き忘れてしまったのだろうか」(一二三頁)。従軍ペン部隊の作家達に向けられた言葉だが、これは二〇世紀の前衛的な芸術的実験が、総力戦と不可分な関係にある事実を考えたとき、いささかナイーブな表現ともうつる。先のハードボイルドに至る新即物主義、あるいはキュビズムや未来派の実験が、第一次大戦の迷彩カモフラージュに端を発する事実を立証した美術史の河本真理の仕事などを参観すると、「前衛的な言語実験」と日中戦争はむしろリンクしていたと見るべきではないか。とりわけ新即物主義が総力戦の戦時報道と深く関わる以上、戦記テクストが持つ緊迫のレトリックとそれは、極めて親和的とさえ言えるだろう。ヒトラーユーゲントとヒューマニズムを近しい関係と言えば顰蹙もかおうが、バルビュスやユンガーにしても、鉄・血・火そして内的な戦闘の描写は相関する。ヘミングウェイとハリウッドの戦争映画の近しい関連にしても、それは疑いなく戦前と戦後を結ぶ糸であるはずだ。やや論点が本書から逸れたが、プロパガンダを見直すことは、こうした共時的に第一次大戦から戦間期へと結ぶ視点が、やはりあってよいと考えるからである。それが「巨大で透明なドーム」の中に生きることを強いられた我々に与えられた一つの知恵ではあるまいか。

 むろん本書にもそうした知見はきちんと用意されていることを急いで付け加えねばならない。五味渕氏は、細心の注意で戦記テクストに残された躓きや不透明なゆらぎを注視していく。文学者と国民とを一体化する統制に傷をいれるものこそが、周到に管理されたプロパガンダ空間を穿つことであるからだ。その一つのヒントは、当時日本語作家として活躍した金史良のテクストにある。「朝鮮人たち」も常に「われわれ」であることを強いられた時代にあって、著者は日本人にとっての日中戦争が、「敵」の姿をどのように表象するかという「困難」を内包した「あいまいさ」を本来的に抱ていたと言う。そこにあって金のテクストの中に、そうした「われわれ」意識を揺るがす、内地のテクストが排除していた語りを捉えている。それを著者は「歴史に爪を立てる」傷跡として認識する。むろんここには、そうした「いま・ここ」をドキュメントとして刻む、先の新即物主義に接近する危うさもむろんあるだろう。しかし、現代において戦争がどこにでも起こる事実を考えるとき、この擦過傷的傷跡はやはり重要だ。

 私は映画『ゲッベルスと私』に挿入された記録映像の中の、ガス室内に残された死者の苦悶の爪痕を想起した。繰り返すが、「巨大で透明なガラスのドーム」の壁面に爪を立てることは果たして可能か、あるいはそのわずかな爪痕を見届けることに芸術や研究はどう関われるのか。本書はそれを深く問いかける力編である。

 (徳島文理大学教授)