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紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

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 ◆ 3363号(8月4日発売号掲載)

内戦から「今」を考える

――スペイン/日本における歴史修正主義の構図
鼎談:川成洋×渡辺雅哉×久保隆

 ■この六月、ぱる出版から『スペイン内戦(一九三六~三九)と現在』が刊行された。本書はスペイン内戦勃発(一九三六年)の八〇周年を契機として、内外の研究者、ジャーナリスト、作家など、四〇人が寄稿した論文集となっている。内容もスペイン内戦の諸相から世界との関わり、スペイン人にとっての意味、アナキズムとの関わりなど多岐にわたる論考となっていて、全五章・六四篇を収録している。この七〇〇頁を超える大著をめぐって、そしてスペイン内戦史の現状とその未来について、編者である川成洋氏、渡辺雅哉氏、久保隆氏に鼎談していただいた。(鼎談日・六月二八日、新宿区・高田馬場にて〈編集部〉)

 ■スペイン「内戦」ではなくスペイン「革命」

 久保 本書『スペイン内戦(一九三六~三九)と現在』には、様々な分野の人が執筆しています。多くの海外の書き手も参加していて、画期的なものになったと言いたいですね。

 川成 この本はスペイン内戦を論じた概説書というわけではなく、三分の一ぐらいは文学や音楽、演劇や絵画、哲学、映画などの研究者が関わっています。ただ、内戦はそういう領域とも深く関係していますので、結果として厚みのある本になりました。海外の研究者たちが積極的に寄稿してくれたのも、この手のものとしては大変珍しいことだと思います。書き下ろしを原則としましたが、揃って鬼籍に入っているエスペランチストの青島茂さんとアナキストの遠藤斌さん、それに英文学者で、三〇年ほどセビーリャに暮らした永川玲二さんにも登場してもらいました。フランシスコ・フランコ将軍が死去してから最初に実施された一九七七年の総選挙をめぐる永川さんの軽妙洒脱なレポートをはじめ、いずれも埋もれさせておくにはもったいない内容です。

 久保 本論集が作られる契機になったのは、二年前の二〇一六年の秋口に私たちが行った「1936―39スペイン革命と現在」というシンポジウムと映画の上映会でした。私や昔からの仲間は、一九三六年夏にスペインに生起したものは内戦ではなく、あくまでも革命だったという立場です。アナキスト側が描いていた理想的な集産化の萌芽が、短期間ながらもこの「革命」のなかで実現したと考えていたからです。私たちは権力を奪取すること以上に、社会的な有様を変えることを一つの革命だと考えていました。ロシア革命に関して言えば「裏切られた革命」ということになりますから、私自身はスペイン革命というものにより軸足を置いていました。今回、川成さんの提案によって、従来のスペイン内戦史であまり取り上げられることのなかったアナキズムをめぐって特に一章を当てて編集することになったことは、本論集の大きな意義の一つだと思います。一〇代後半に接した斉藤孝さんの『スペイン戦争――ファシズムと人民戦線』(中公新書)が、私にとっての最初のスペイン内戦関連の書籍でした。その後、ジョージ・オーウェルなども読みました。今、こうして、この論集に関わることができて感慨を新たにしています。

 川成 私は、もともと英文学を専攻していました。具体的にはヴィクトリア朝時代の文学です。ところが、六〇年代の末期には大学闘争があり、大学に通えない間に私の研究対象も少しずつ現代の方へと向かっていき、そこでジョージ・オーウェルの『カタロニア讃歌』に出くわしました。日本では、当時はスペイン内戦に関する本は久保さんが挙げた斉藤さんのものなどほんの少ししかなく、スペイン現代史の専門家もいませんでした。ただ、私のように別の畑――英米文学だけでなく、独文、仏文、露文など――に身を置きながら、スペインに関心を寄せた研究者がたくさんいたものです。因みに、内戦の初期に虐殺されたグラナダの詩人、あのフェデリコ・ガルシア・ロルカの作品は、フランコ独裁のスペインではもちろん発禁扱いでした。それが日本に初めて紹介されたのは、ロシア語からの翻訳をつうじてのことであったのです。

 オーウェルを生んだイギリスのある現代史家は、スペイン内戦によりフランス革命以来、同国が初めて二つに分断されたと語りました。それはフランコ側につくか、共和国側につくか、ということですね。三〇年代のヨーロッパ諸国は、「議会主義の祖国」との矜持を掲げているイギリスでもマクドナルドやチャーチルの挙国一致内閣、フランスは右翼の陰に怯えた人民戦線内閣で、ヒトラーのドイツやムッソリーニのイタリアはもちろんファシズム体制。このように、多くの国で政治がうまく機能していなかった。そんななかスペインは曲がりなりにも選挙も議会も機能していたことから、イギリスでは大いに関心が持たれていたのだと思います。

 久保 スペイン内戦は、国際的な広がりを見せた戦争でもあったのですね。

 川成 ええ。その端的な証しが、国際旅団の存在です。国際旅団とは、フランコらの決起に直面して苦境に立たされた第二共和制を防衛するために、参戦を厳禁した自国の法律を破り、命懸けで馳せ参じた義勇兵たちのことです。その人数は、五五ヵ国から約四〇〇〇〇。それに、共和国側の医療・教育・プロパガンダなどの後方支援についた非戦闘員が約二〇〇〇〇人。この数字だけでも、スペイン内戦は、私から言わせてもらえば「現代史の青春」だったのかもしれない。国際旅団の初陣は、全世界が固唾を呑んで注視した一九三六年一一月のマドリードの攻防戦でした。マヌエル・トリビオ・ガルシアが本書に寄せた論考のなかに、「マドリードを救ったのは、国際旅団の到着だった」という、亡命先のコスタ・リカで死ぬ定めが待つコルドバのある共和派の言葉が出てきます。

 ところで、スペインでは一八七三年に最初の共和制が誕生しています。第一共和制も第二共和制も、ともに軍事行動により圧殺された点は共通しています。

 久保 基本的に軍部というものは王政に対して忠実であるということですね。

 川成 それはよい指摘です。もっとも、スペインの国王は身の危険を感じたら国外へ逃げてしまう。ブルボン家の支配が中断された一八六八年の九月革命の折にも、二度の共和制成立の折にも殺された国王はいません。

 久保 本書の最初の論考のなかで、ジェラール・ブレイは第二共和制が成立したときに政権は軍部に対して寛容な態度をとり、彼らを抑えることができなかったと述べていますね。

 渡辺 第二共和制初の陸相に就任し、軍制改革に着手したのは、後に首相・大統領にもなるマヌエル・アサーニャです。アサーニャには手本がありました。二〇世紀初頭のフランス第三共和制の首相エミール・コンブです。しかし、コンブが軍人たちの粛清に辣腕を振るったのに対し、アサーニャは第二共和制への彼らの忠誠心を無邪気に信じたきらいがあります。

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センセーショナルな事件

――これまでとまったく別の切り口でまとめられた画集
評者:諸川春樹

 ■「そう、この形なんだよな」。本書を手にした友人がまず口にした言葉である。彼は、今から30年以上も前に美術書界で一世を風靡した集英社のアート・ギャラリーを懐かしく思い出したのである。あの頃、美術書好きの学生たちは、レコードジャケットと同じ大きさのこの画集を、アルバイトで何とかお金を捻出しては買い求めたものだった。

  このたび集英社は創立90周年を記念して、現代作家別だったこのアート・ギャラリーのコンセプトを西洋絵画全体に広げて再度練り直し、4年間に及ぶ編集作業を経て今年の6月、あらたなアート・ギャラリーが全巻完結した。本が売れない、売れない、と嘆く声があちこちで聞かれる昨今であってみれば、これはもうセンセーショナルな事件というしかないだろう。

 このシリーズの一番の特徴は、西洋絵画を歴史の流れにそって紹介してきたこれまでの画集に対して、まったく別の切り口でまとめられた画集だということだ。そう、テーマ別に紹介されているのである。たとえば風景画ならどのような作品があるのか、静物画ならどうかなど、全部で10のテーマに絞って珠玉の名画が集められている。歴史画や肖像画、風俗画などの馴染みのテーマはもちろんのこと、キリスト教やギリシャ・ローマ神話もテーマに含まれており、これまで「よくわからないから」と敬遠してきた読者にもうれしい二つの巻が加えられている。また近年、展覧会としても成功を収めたテーマである「ヴィーナス」や「ヌード」を主題とした巻もそろっている。最後の巻にあたる第10巻「寓意と象徴」では絵画に秘められた意味について詳しく解説されていて、謎解きのような面白さがある。

 あたらしいアート・ギャラリーもまた画集であるから、それぞれの巻には読者がよくご存知の名画が美しい画像で紹介されている。と同時に、ページをめくれば珍しい作品も目にすることができ、その出会いが「ふぅん、こんな絵もあるんだ」という新鮮な感動を呼び起こしてくれるはずだ。ではこの画集が実際どのようなものなのか、次にそれを筆者が責任編集を担当した第9巻「神話と物語」で具体的に見ていこう。

 第1章では神話の神々、特にオリュンポス十二神をそのエピソードを交えて紹介し、あわせて第2章の伏線としている。この第2章では「神々の愛と罪」という表題が示すように、ゼウスを中心とした神々の、常軌を逸した性愛の世界とそれに対する罰という、神話の最も人間的な側面を絵画化したものを扱った。ここは本巻の中心的な部分だといえるかもしれない。第3章では趣を変えて、ヘラクレスに代表される、神と人間の中間的存在である英雄を取り上げている。性愛の世界とは異なる、ある意味で悲劇的ともいえる主題を紹介した。もちろん英雄の引き立て役である怪物も忘れてはいない。

 最後の第4章はルネサンス以降の文学に見られる興味深い主題を絵画化したものを取り上げた。物語は神話とは異質ではないか、といぶかる向きもあろうが、神話がまず「語り」であったこと、そしてそれが以後の文学作品の中に遠い記憶のように通底していることを考えれば、文学作品の絵画化についても興味深い発見があるに違いないと踏んだからである。

 この本巻の主要部分に続いて「系譜」が存在する。ここでは神話画がどのような経緯をたどって今日まで展開されたのかを、時系列にそって解説している。もちろん「どうして同じ神様たちの名前がいくつもあるのか」のような素朴な質問も取り上げた。なるほどビーナスが時にアフロディテ、時にウエヌスとよばれるように、読者には少なからぬ混乱を招いていることは事実である。そこでここでは古代ギリシャとローマの関係に触れて、そうした避けられぬ状況を説明した。また「キリスト教支配の中で、ギリシャ・ローマ神話は封印されてしまったのではないか」という、やや専門的な質問には、曜日や月、そして天空の星座という形で人々の生活の中にしっかりと生き続けていた神話の生命力の強さを語ることにした。さらにルネサンス以降には神話画が宗教画と同等に、あるいはそれ以上に頻繁に取り上げられるようになった経緯についても言及している。

 ちょっとしたレクチャーであるこの系譜の後には気分一新、エッセイが控えている。ここでは本書の内容を元に、筆者とは別の角度から神話をどうとらえるかという話題について、お二人の方にご寄稿いただいた。姜尚中さんは「過剰の美」という題で神話画の中のエロスについての熱い思いを、またヤマザキマリさんは描き手の立場から見た神話についての興味深い一文を寄せてくださった。

 さて本書の副題は「創造の玉手箱」である。そこで浦島太郎が竜宮城から持ち帰ったあの「開けてびっくり玉手箱」を思い浮かべる向きもあるだろう。しかし、実情はそうではない。本書を開ければ煙ならぬ美しい絵画作品が目を喜ばせてくれる。また文字部分には知識欲を満たしてくれる「系譜」あり、読みごたえのあるエッセイありと至れり尽くせりで、読者はきっと虜にされてしまうにちがいない。実はアート・ギャラリー全巻がこうした玉手箱なのである。ともあれ、一冊手に取ってみてはどうだろう。そうすれば誰しも開けてびっくりどころか、楽しい時間が広がってゆくのが実感できるはずである。

 (多摩美術大学教授)

夜のむこうに太陽と月をあわせもつ神話のような絵本

評者:寺村摩耶子

 ■「ねむれないよる/ぼくは ベッドを そっとぬけだして/ぐねぐねみちを あるいてく」。『ぼくとたいようのふね』のはじまりは夜。眠れない夜に読んでみると、そこにはまぶしい光景がひろがっていた。

 少年が手にしているのは「ちいさなふね」。それがしきりに発光しているのも不思議だが、そんな船もあるのだろう。光っているといえば、風景じたい、青い幻燈のようなのだ。道ばたに椅子がぽつんと置かれていたりもする。やがて川におりた少年は、水の上に船をうかべる。「いってらっしゃい……」。次の瞬間、玩具の船には小さくなった「ぼく」が乗っている。

 「ちいさなぼく」の旅。それはもちろん自由な子どもの旅でもあるだろう。子どもはいつでも思いのままに鳥になることもできれば、虫のように小さくなることもできる。子どもの目をもつ絵本の楽しさ。小さな船から見える風景は驚きにみちている。川の岸辺はジャングルの密林だ。ゆれる水は高波のよう。遠くに見える家々の窓のあかりは「ほしぞらより まぶしい」。藍と黒。インク色。うすいブルー。さまざまな青がまざりあい、海のようにひろがっていく。心のなかにもひたひたと潮がみちていくようで気持ちがいい。だが「ちいさなぼく」は前向きに進んでいく。そしてふいに見えてくる光。ドラマティックな朝の光。それは身も心もパンのようにふくらむほどの光である。世界がたったいま生まれたばかりのように、ほかほかと湯気をたてている。どこもかしこもぴかぴかとして、みずみずしい生気にみちあふれている。ドキドキするほどに。その光景にみとれる一方で、ふともうひとりの「ぼく」が気になる夜の自分もいる。彼はひょっとすると今も「かわのふちのみなと」にたたずんでいるのではないだろうか。もうひとつの世界は今もあいかわらず夜のままなのではないかと。しかし、たとえそうだとしても、だからこそ「たいようのふね」は出発したのだろう。夜のなかをどこまでも進んでいく「たいようのふね」。それは太陽と月をあわせもつからこそすばらしいのだと思う(絵本のなかには合わせ鏡のような太陽と月があちこちにひそんでいる)。

 「ふくらむ ひのひかり」。「かぜ ときどき あめ」。言葉と一体になった風景がさまざまなことを語りかけてくる。同じ風景が見る人によって違って見えるように。あるいは音楽がそうであるように。ゆたかな重層性。たとえば「ちいさなぼく」の旅は世界のはじまりへの旅でもあるだろう。太陽と月をあわせもつ絵本には神話のような魅力も感じられる。そういえば日本の神話にはお椀の舟に乗り、海の彼方からやってくる小さな神様もいた。スクナヒコナはどこかユーモラスで気になる神様だ。ひょうひょうとしているけれど、いざとなると不思議な力を発揮する。「ちいさなぼく」の「ちいさなふね」もいつのまにかノアの舟のように大きくなっている。そこに乗るのはもはや「ぼく」だけではないはずだ。などと思いもまたふくらんでいく。ひろびろとしたイメージ。「ぼく」の物語は夜のなかを進む者たちを勇気づけてくれる。

 川と一体になった町。白い灯台と海。風景がもうひとつの主人公ともいえる絵本の作者は広島生まれの画家。前作『よるのむこう』『ぞうのびっくりパンやさん』以来、五年ぶりの新作絵本である。海辺の町の舞台は広島だろうか。たしかに石の階段が見える「おがわのふちのみなと」などを見ていると、私も以前に訪れたことのある広島の風景が思いだされてくる。水の都にはたくさんの船が行き交っていた。桟橋の船に乗り、厳島へ向かった。川が海に変わる瞬間、なぜか解き放たれるような気がしたこと。船から遠ざかる町の風景に胸がいっぱいになったこと。懐かしい風景の数々。だがおそらくそこは広島であって広島ではないのだろう。どこか遠い外国の港町かもしれないし、心のなかの風景かもしれない。「ぼく」の物語が普遍的な物語であること。現実をこえようとする絵本が、じっさいにこえていくこと。そのことが何よりもまぶしい。「なつのうみを こえて」船は進んでいく。

 (エッセイスト・絵本研究者)