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紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

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 ◆ 3364号(8月11日発売号掲載)

スピリチュアル系の死生観、絶対善の幻想を叩き潰す困難な道を歩く

――「宗教学の再構築」のために
インタビュー:大田俊寛氏

 ■去る七月六日、法務省は、オウム真理教元代表の松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚と、六人の元教団幹部の死刑を執行した。そして同月二六日、六人の元教団幹部の死刑を執行した。

 一九八九年の坂本弁護士一家殺害事件から、早くも三〇年近くが経過している。九五年の地下鉄サリン事件にいたる教団の数々の犯罪は、戦後日本史上、未曽有の連続事件に他ならない。だが、事件のきっかけとなったオウム真理教の教義や世界観、宗教実践とその背景については、これまで十分な考察と歴史的位置づけがなされてきたとは言い難い。むしろ日本社会は、数多くの信者を引きつけたこの宗教から目を背け、蓋をしてきたのではないか。結果としての犯罪だけを切り取り、断罪することに終始してきたのではなかったか。

 宗教学者の大田俊寛氏は、これまでオウム真理教を宗教思想史から分析する研究を続けてきた。オウム真理教とは何なのか、いま改めて大田氏に話をうかがった。(7月17日、さいたま市にて。聞き手・米田綱路〔本紙編集〕)

 ■オウムは日本社会から生まれた

 ――大田さんは『オウム真理教の精神史――ロマン主義・全体主義・原理主義』(春秋社、二〇一一年)で、オウム真理教を日本社会における宗教の捉え方、近代と死の問題に関わる点から検証されています。今回の死刑執行についての報道を見ると、オウム真理教を特異な現象として片づけるという、私たちの日常感覚がかなり根強いことを感じます。しかし、教団が成長していった社会環境を同時代的に知る一人として、オウムは決して例外的な事象ではない、むしろ一九八〇年代、九〇年代における日本社会の普遍的な問題として捉えなければいけないと、今改めて思います。

 大田 オウム真理教はそれほど大きな宗教ではありませんでしたが、在家信者も含めれば、国内外で数万人の信徒を集めるくらいの集団ではありました。こうした規模の集団が、特異な例外的事象だけで成立するということは、原理的にあり得ません。

 社会の中にも、オウム真理教が生まれる原因や、それを応援して育ててしまうようなファクターが数多く存在していました。一九七〇年代から八〇年代にかけては、私自身もまだ子どもでしたし、かなり忘却しているところがあるのですが、あの当時、オウム的なものは日常にありふれていた。学校では、「ムー」や「トワイライトゾーン」などの雑誌の記事をもとに、超能力や終末論について話していましたし、テレビでもオカルトや霊現象の番組があふれかえっていました。「ノストラダムスの大予言」だけでも、スペシャル番組が季節ごとに組まれているような状況でした。アメリカとソ連のあいだに核戦争が勃発し、第三次世界大戦が起こるという予感も、必ずしも幻想的ではなく、非常にリアルなものとして存在していました。

 オウム真理教事件を総括する場合に、麻原彰晃の特異性、教団内の心理状況、事件が起こされる経緯、後継団体の現状などに、話題が限定される傾向があります。ですが、そのような問題の局所化や責任の押しつけをしている限り、日本社会としてのオウムの総括は、いつまでも完結しないのではないでしょうか。

 当時の社会状況をきちんと思い出せば、ああいう団体が数万人の規模にまで大きくなったのは不思議でも何でもなかった。そのことを日本社会が認め、自分たちも何らかの形でそれに加担したことを思い出し、反省しなければ、最終的な決着はつかない。それが私自身の基本的な考え方です。

 ――オウム真理教が活動した期間は、前身団体の時代を含めて一九八四年から九五年までの約一〇年間です。前半期は日本経済が資本主義世界を席巻したバブル期と重なります。その中で、ジャパン・アズ・ナンバーワンともいわれた物質的豊かさや楽観的な気分に満足できずに、別の世界を探したり、自分の内面の問題を解決する宗教や居場所を求めた人たちがいた。それは決して少数ではなかったですね。

 大田 私は元々、グノーシス主義という古代の宗教を研究していましたから、長い歴史的スパンから物事を考える習性があります。原始社会から、古代、中世を通して、人類は常に、飢えや病気などの物質的欠乏に脅かされて生きていました。平均寿命も、今よりずっと短かった。しかしそういった状況の中で、いつ訪れてもおかしくない死への覚悟を固めるため、あるいは、ささやかな生を次世代に継承していくために、何らかの形で公共的な死生観が作り上げられてきたのです。

 ところが二〇世紀の後半になって、おそらく人類の数十万年という歴史の中で初めて、物質的欠乏に悩まされることのない社会状況が到来した。また、『オウム真理教の精神史』でも書いたように、近代においては、もっぱら政教分離原則の影響から、公共的な死生観が至るところで消失してしまった。物質的な欠乏がなくなり、人生が長くなる一方、生や死について説明してくれるような宗教や思想は存在しない――。こうした状況において人々は、「死のリアルな姿」をいたずらに追い求めるようになり、その中で、さまざまな幻想にすがりつくようにもなっていきました。スピリチュアル系やニューエイジ系の思想が世界的に流行した背景、ひいては、日本社会にオウムが登場した背景には、大きく言えば、このような歴史的変化が存在しています。現代人であるわれわれにとっては当たり前のように思えるかもしれませんが、人類の長い歴史から見ればそれは、初めて経験するような特異な状況であったわけです。

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ビートルズ解釈よ、永遠なれ

――ビートルズを「読みつぐ」成果を、また読みたい
評者:上村寿幸

 ■まず、表題の勝利だと思う。「(ビートルズを)聴きつぐ」ではないのだ。編著者による「はじめに」を要約すると次のようになる。一九六二年に始まったビートルズをめぐる需要・供給・消費のサイクルは「手に負えない」速い回転運動となったが、そこにはスリルと愉悦があった。つまり消費の愉しみがあった。しかしいまはどうだ。確かにモノとカネは(多少は)ある。しかし「愉しみ」は薄れたのではないか。市場の運動の凶暴な中心でもあったビートルズはまた、自らをも商品化した。さて、その真実はどこにあるのか。「これを読み解こうとする試みは永く続くはずである」とある。だから「読みつぐ」なのである。ビートルズのファン(ビートルマニア)として熱心にその音楽を聴き続けることのみを、これは必ずしも意味しない。つまりその意味の限りにおいて本書は「ビートルズよ、永遠なれ」の本でもあるんだけれども、「ビートルズ解釈よ、永遠なれ」の本でもあるわけだ。

 本書の読みどころは多々あるが、特に面白かったのは「第Ⅰ部 ビートルズへの多様なアプローチ Chapter 4 ビートルズの不思議な旅――浜矩子氏、ビートルズを語る」と、「第Ⅱ部 ビートルズ経験の多様性 Chapter 3 僕はこんな風にビートルズを聴いてきた――ピーター・バラカン氏インタビュー」、そして「同Chapter 4 等身大の若者ビートルズ――星加ルミ子氏インタビュー」で、たまたまだが、すべて「有名人」へのインタビューとなった。

 ビートルズのデビュー当時、子供時代の浜さんはロンドンにいた。そしてレコードとテレビを通じてビートルズが好きになり、必然的にか、「初期ビートルズ派」になる。そうか、浜さんのあの紫色(purple)の髪はロックに揺り動かされた経験が関係して……ないのかもしれないが、舌鋒鋭くアベ政治を斬る浜さんの「ロック魂」を垣間見た気がした。

 六二年当時一一歳だったピーター・バラカンさんは、ビートルズのデビュー当時の曲を「すごく新鮮」で「衝撃的」だったと形容する。そしてジョン・レノンの有名な「宝石じゃらじゃら」発言に触れ、「僕らの世代には、ああいうことを言う人がいるから、自分たちもそれをやっていいという(略)意識の影響よりも無意識の影響の方がよっぽど強いと思います。(略)たとえば髪を伸ばしたり」と述べる。最後には「僕の考えに縛られてはだめですよ」と、皮肉(?)を付け加えるのを忘れないところが、実にバラカンさんらしい。

 ビートルズの動向を報じ続けた音楽雑誌『ミュージック・ライフ』の当時の編集長であった星加さんは、日本では「ビートルズに一番近い記者」といわれた。他の人ではわからない生身の「若者ビートルズ」の近くにいたのだ。星加さんは彼らのことを「茶目っ気たっぷりの紳士」と形容する。六六年のビートルズ来日当時の星加さんとビートルズと、彼らのマネージャーだったブライアン・エプスタイン(翌六七年に死去)との「ビートルズ解散」をめぐる会話は実にスリリングだ。これは読んでのお楽しみ。

  編著者の小林順さんは、ビートルズ研究会の代表だということだ。今後もビートルズを「読みつぐ」ことを続けていただき、ぜひまたその成果を読ませてもらいたいと思う。

 (ライター)

親密な友のあいだでやりとりされた、忘れ得ない言葉

――誰かのためになることから解放された、自分のための文章
評者:中村隆之

 ■肌理の細かいざらざらしたクリーム色のカバーに印字された、赤い題字と著者名。カバーという皮膚、文字という裂傷。その傷口から、血が滲む。カバーをはずすと、男性の裸体を接写したモノクロ写真が本体表紙を覆う。「The Boy」と題された中村早の写真である。

 装丁がこだわるこの〈身体〉は、本書『もはや書けなかった男』の成立をめぐる文字通りの条件である。二〇〇五年十一月のある日に著者フランソワ・マトゥロン(当時五十歳)を襲った「あの瞬間」以降、著者は以前のようにはもはや書くことができなくなる。それは医学的には脳卒中、より正確には「頸動脈解離による虚血性脳卒中」であり、本書では単に「卒中」と呼ばれる急性の事故だ。しかしながら著者にとり「どのように定義してよいか分からない」瞬間である。脳卒中で倒れた以上、その間の意識は当然ながら飛んでいる。

 意識を取り戻したときには、もはや以前とはまったく異なる状況に著者は置かれる。まず、かつてのように話すことができない。頭に去来する考えを言葉にできなくなる。人や物の名前が頭に浮かんではすぐに消えてしまう。配偶者キャロルの名前さえも。あるいは言語療法を受けながら「犬」という名詞の代わりに「ワン! ワン! ワン!」と発話してしまう。マトゥロンが哲学者であり、アルチュセールの死後出版されたエコール・ノルマル講義録『政治と歴史』をはじめとする著作の編纂・校訂を手がける人物であることを知ればなおさら、重い後遺症のなかで赤裸々に綴られるその言葉に読者は強く揺さぶられるだろう。

 本書が執筆・出版される背景についてはマトゥロンの友人である訳者・市田良彦が「最初に読まれるべき」とあえて付した「訳者あとがき」に詳しい。本書はもともと著者が自分自身のためにリハビリをかねて書いたものである。この場合〈書く〉とは「語を選んで文を組み立てる」作業であり、音声認識ソフトを用いてパソコン画面に入力することだ。卒中以後に断続的に書きはじめたものだが、本書が出版される二〇一八年までの比較的長い間隔のなかで、評者にとりもっとも印象的である文章は、二〇一六年から二〇一七年までのあいだに書かれている。マトゥロンの後遺症がさらに悪化し、精神科クリニックに入院させられていた時期の文章である。

 その時期の文章は〈不安〉に捉われている。みずからの身体への不安。みずからの意識の外で、身体がところかまわず糞尿を撒き散らすようになったからである。卒中の直後に見られた意識と身体がゼロ地点から外界を新たに経験する、つまり〈始まり〉を生き直すという肯定的な哲学的考察は消え、統御できない身体とその糞尿をめぐる日誌となる。

 「誰が身体を知っている?」本書で繰り返されるその一文が示すように、著者にとり身体はもはや他人である。「ぼくとぼくの身体の二人きり」であるのだ。夜中の失禁だけでなく、日中でもズボンが濡れていることがある。排便については、座ると便秘になるために、あるときから浴槽で立ったままするようになる。糞をして洗い流す。ところがこれも気づかぬうちに便器の横や、浴槽の外までも糞まみれにしてしまう。

 この予期せぬ排尿・排便は、家族とDVDを鑑賞するというごく日常的な場面のあとの就寝のさいに繰り返されるが、そもそも卒中で倒れたのが家族とのDVDの観賞場面だったことを踏まえれば、評者のなかで卒中と糞尿という異なる場面が不思議と結びついてしまう。他方で、このように不安を書き綴ることで、マトゥロンは、統御できないおのれの身体を、糞尿を勝手にする〈自由〉を有する身体であるかのように示してもいる。気高い精神であると思う。

 本書は、彼の友人たちとの深い友愛によって生まれた。「きみにこのテキストを送る。ぼくにはこのテキストが自分以外の人のためになるのか分からない。きみには?」文中に幾度も挟まれるこの一文は、訳者の証言によれば、友人たちに文章を送るときの実際のメッセージだった。本書に無二の親友として登場する市田をはじめ友人たちが「このテキスト」を読んだ感想が本文に織り込まれている。彼に生きることを勇気づける言葉だったはずであり、どの言葉も友への真摯な応答だ。

 著者とその親密な友のあいだでやりとりされた言葉。だからこそここまで率直に書くことができた。何かに役立つこと、誰かのためになることから解放された、自分のための文章。ところが、一見して誰にも役に立たないそうした文章が他者の心にまで、ときに深い裂傷のように届くことがある。そのとき、その文章は、それを読んだ人の心中で忘れ得ない言葉となるのではないだろうか。

 『もはや書けなかった男』は、評者にとり、もはやかけがえなく忘れがたい言葉の一部をなしている。

 (フランス文学)