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紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

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「共鳴体」、吉増剛造

――焦点のない言葉のありようを求めている
鼎談:林浩平×建畠晢×郷原佳以

 ■詩人・吉増剛造氏の新刊二冊、『舞踏言語――ちいさな廃星、昔恒星が一つ来て、幽かに“御晩です”と語り初めて、消えた』(論創社)と、巨大な『火ノ刺繍』(響文社)が届けられた。これを機に、吉増氏の仕事に造詣の深い林浩平氏、建畠晢氏、郷原佳以氏に鼎談していただいた。また、現在、東京・渋谷区立松濤美術館で開催中の「涯テノ詩聲――詩人 吉増剛造展」の展覧会評を、渡邊英理氏にご寄稿いただいた(8面掲載)。あわせてご覧ください。(鼎談日・6月29日、東京・高田馬場にて。須藤巧・本紙編集)

 ■「堕ちる星」、廃星というイメージ――『舞踏言語』

  吉増剛造さんの快進撃が続き、『舞踏言語』(論創社)、『火ノ刺繍』(響文社)が立て続けに出ました。今日は、まずは『舞踏言語』のほうから話をしていきたいと思います。

 『舞踏言語』の冒頭は「序章 一九六八年と「肉体の叛乱」」です。今年は一九六八年から五〇年ですが、六八年は「舞踏元年」といいますか、土方巽が「肉体の叛乱」という革命的な舞台を一〇月に日本青年館で上演しました。吉増さんはそれをご覧になっていて、そのショックを「隕石が燃えたまま落っこってきた」というようにおっしゃっています。また、同年八月には笠井叡さんが「稚児之草子」という舞台を厚生年金小ホールで行っています。これも吉増さんはご覧になっていて、近くの座席には瀧口修造や三島由紀夫がいたということです。いずれにせよ、舞踏という表現ジャンルは、身体と言語の問題が極めて緊密に結びつき合っています。本書は、土方や大野一雄、笠井叡といった舞踏家との関わりをベースにして編まれていて、彼らに捧げた詩や実際の対話などで構成されています。建畠さんはどうご覧になりましたか?

 建畠 読んでいるうちに頭の自律神経の調子が狂ってきました(笑)。言葉それ自体には自律性も他律性もないから、ある意味では健全な状態に引き戻されたのかもしれませんけど。この感覚は、後で話をする『火ノ刺繍』からも受け取ったことです。

 本書『舞踏言語』で言及されている舞踏で、当時ぼくが実際の舞台に間に合ったのは土方さんと大野一雄さんだけです。学生時代と「芸術新潮」の編集部にいたころですが、ぼくが観ていたのはもっぱら紅テント、黒テント、早稲田小劇場と天井桟敷でした。土方さんの舞台は唯一、中西夏之が舞台装置をつくった「静かな家」(一九七三年)を観ました。ただ、「肉体の叛乱」について吉増さんが本書でお書きになっていることはよくわかります。本当に自律神経が侵されてしまうかのようです。吉増さんはこう書いています。「我々の身体が自律的な躍動を失って、まるで死者の骨のように、また腐臭はなつ肉となってこの世界に沈んでしまっている」(p80)。

 二〇世紀の思想では、「身体」「他者」「記憶」の三つのキーワードがよく使われますよね。なぜ二〇世紀に身体がキーワードになったか。例えば臓器移植の問題などもあって、私たちのアイデンティティを保証してくれる私たちの身体が危機に晒されたからだといえなくもない。舞踏の身体ももちろん健全なものではありえず、「自律的な躍動を失って」しまった身体を舞踏として捉えるとすれば、ぼくが自律神経が侵されたような感覚を受けたというのは、吉増さん的には正しい感覚だったのかもしれません。

 また、吉増さんは本書で、「稚児之草子」を観にいくのに新宿の裏道を歩いているときなどで、「隕石」とか「廃星」という表現を盛んに用います。そしてそれが吉増さんの詩篇「古代天文台」とつながっているという。これは面白いと思いました。古代天文台とは本来なら空の星を観測するところですからね。隕石が燃えながら落ちた新宿の裏道のイメージと、崩壊しつつある身体というか、先に引用したイメージが、吉増さんの独特の回路で重なっているんだなと思いました。

  郷原さんは、世代が全然違いますが、どうでしょうか?

 郷原 私は、同時代的な直接の体験として思い出すことはできません。『火ノ刺繍』のほうは、「2008‐2017」となっていて、そちらの吉増さんは私にも多少の馴染みがあります。その吉増さんのルーツが『舞踏言語』にあることをまざまざと見せられ、様々な「つながり」が見えてきました。九〇年代以降の吉増さん、あるいは『怪物君』の吉増さんは、「顕って来る」とよくおっしゃっています。『舞踏言語』の「はじめに」でも、「立つこと」とあり、その直後に「顕つ、建つ、起つ、絶つ、……」と少なくとも四つ当てられています。「樹つ」と書かれることもあります。『怪物君』でも、自分に「顕って来る」とか「顯れて来ている」――この進行形が吉増さんらしいのですが――とおっしゃっていました。この「顕つ」ということが、とりわけ土方の肉体、隕石として落ちてきた垂直的なあり方、凍っているような、死体としての身体といった舞踏の身体として最初にあったんだなと思いました。物体的な「顕れ」が、ずっとつながっている。

 『舞踏言語』は、表紙にまず「廃星」という言葉があり、読み始めると「隕石」という言葉が出てきます。このイメージにまず強く打たれました。というのは、私が研究しているモーリス・ブランショにL’ecriture du desastre、『災厄のエクリチュール』という著作があります。「desastre」は災厄や災禍と訳されますが、その語に含まれる「astre」は「星」で、星から切り離されるのか、星が切り離されるのかは微妙ですが、これはまさに「廃星」です。一九七八年の「現代詩手帖」で、豊崎光一さんの訳で「災禍=堕星」という言葉がつかわれています。既に七八年の段階で「堕ちる星」というイメージが出ているわけです。『災厄のエクリチュール』は七〇年代にブランショが書き、八〇年に出版されますが、すべてが断章、断片です。七〇年代に入るとブランショはいくつかの例外を除いて断片でしか文章を書かなくなった。災厄を経て、星が堕ちる。しかし一方で星は「コスモス」、宇宙的な秩序を意味しており、desastreとはそこからの分離でもあります。そしてまた、ブランショのこの語の元になったと思われるのはマラルメの「エドガー・ポーの墓」という弔いの詩なのですが、そこには、ポーの墓が隕石のイメージとして出てきます。後年、吉増さんは明らかに書物に収まらない活動をしているわけですが、同時に『火ノ刺繍』のように、物体としての書物が私たちのところに落ちてきた。これはまさにdesastreとしての廃星=隕石ではないでしょうか。

  なるほど「desastre」は「堕ちる星」でもありますか。それに吉増さんの場合、書物が隕石になってしまった(笑)。しかし舞踏を論じるときに、星や隕石のイメージで語ることって、まずないですよね。吉増さんは、そのイメージに本当にこだわっていますが。

 建畠 詩の言葉は「虚の星」のイメージに重なってもいます。吉増さんはしばしば北村透谷に言及しますよね。透谷に「人生に相渉るとは何の謂ぞ」という文章があります。透谷はもともと「内部生命論」を主張している。外部生命とは肉体的生のことです。内部生命は精神世界の生命の実在を主張する。透谷は「想世界」とも言います。想世界、精神世界における自由と幸福を論じている。「人生に相渉るとは何の謂ぞ」は山路愛山との論争です。愛山は文学は世に益する、事業としての文学が「人生に相渉る」というが、透谷は精神生命の実在を信じるが故に文学は「人生に相渉る」とする。それを論じるにあたって、「大、大、大の虚界を見よ」「空の空の空を撃って、星にまで達することを期すべし」と主張するのです。この「星」は、「空の空の空」だし「虚界」だから、「虚の星」です。この発想は、廃星など、星に非在のイメージを重ねる吉増さんにも通じるかもしれません。吉増さんは、佐々木中さんの次の文章を引用します。「ありもしない純粋なイメージに剃刀を当てるようなもの」と。星は、純粋なイメージですよね。詩人たちが考える星は、ポジティブな星ではなく、虚の星、死んだ星、廃れた星、あるいは非在の星であって、そこに非常に純粋なイメージを見る。そこに、ダンサーとも共通するものを認めているのではないか。

  『舞踏言語』冒頭で吉増さんは「瀧口修造の炎」(p20)と言っています。瀧口修造がフランスに日本のシュルレアリストを紹介するのに、赤瀬川原平、唐十郎、土方巽の三人の名前を挙げています。舞踏家においてのシュルレアリスム精神が大事なのではないかと思います。とにかく当時、詩人たちはみんな、舞踏を観ていました(笑)。詩人と舞踏家の共存状態ですね。あるいは現在のわれわれの批評意識、問題意識のパラダイムは六八年あたりに形成されたのではないか。吉増さんの場合、それがいまにつながって『怪物君』に流れ込んでいるのではないかという気がします。

 建畠 そう思います。吉増さんは、土方巽の舞台がかかると、都のその方向が明るんで見えるとかつて書いていました。核に舞踏家がいて、その周辺に美術家や詩人たちが集まる雰囲気があったんでしょうね。

  いまわれわれが持っている基本的な問題意識、モラル、価値観は、いまから半世紀前の六八年前後に立ち上がったのだと思います。吉増さんはそのあたりの精神をずっと体現してこられ、先頭を切って走っておられるのではないでしょうか。

 建畠 その問題意識を、思想的な変節をしないまま今日まで引きずっているのは吉増さんくらいだと思いますね。

  そうですね。しかも加速化している。やっとつかまえた、と思っても、もう先に行ってしまっている(笑)。

 郷原 星のイメージで面白いのは、また、それが燃える火のイメージと一緒に出てきているところです。吉増さんは記憶の人だとつねづね思っているのですが、『舞踏言語』も六八年当時のテクストのみを収めたものにはなっていません。六八年当時の文章の後に二〇〇〇年代のテクストが収められていたりもします。私は本書も記憶の書物として読みました。「あれが「新宿」だった」(p30)と、わざわざカッコをつけて書いているように、舞踏の経験はそれを観た土地の記憶と密接につながっています。そして「燃える」というイメージはそれこそ『火ノ刺繍』までずっとつながっています。あるいは焼け跡としての土地のイメージ。例えば「総じて、一九六八年、六九年、七〇年、七一年、七二年。隕石の落下の痕跡のままがいかにすごかったか。(…)そういうものが残っていて、頭の中の記憶が燃えた隕石のまんま、四十年後にぶつかるわけじゃない。そうすると、それはどんなふうにといったらいいのか。記憶は焼け焦げていくし」(p34)。この序章の対談は二〇一七年に行われていますが、ここに浮上しているのは吉増さんの記憶の問題で、それは必ずしも現実とは限らない。吉増さん固有のイメージとともに記憶が焼きついているんですね。

 建畠 吉増さんの詩「古代天文台」について、本書にはこう書かれています。「蜷川(幸雄)さん、石橋蓮司さん、清水邦夫さん、緑魔子さん、そして桑原茂夫。こういう人たちの隕石のそばの火照りとともに出てきた詩だったのですね」(p16)。「古代天文台」が星や暗黒舞踏とつながっているなんて、本書を読むまでは到底思えませんでした。

 郷原 石橋蓮司、清水邦夫、緑魔子とぶつかって渡した詩が「古代天文台」だと、吉増さん自身は言っているわけですね。

 建畠 でも、ぴったりだよね。「古代天文台」と「廃星」や「隕石」。

 郷原 吉増さんもここで思い出しながら語っているので、事実として読むべきなのか、わからない部分もありますが。

 建畠 ところで、本書で「不思議なことを言うなあ」と思った箇所があります。「私は、私の体の中に一人の姉を住まわせている」という土方の一節を引用した後で、吉増さんはそれを敷衍して、「この女性は我々の間に住むもう一人の姉につながる」(p81)と書いています。ベンヤミンも「歴史哲学テーゼ」の中で「私の愛する女たちには、彼女すらまだ会ったことのない姉たちがいる」と書いていますが、不思議な謎をはらんだ一節ですよね。

  土方巽は一一人兄弟の末っ子で、お母さん代わりのお姉さんが何人かいたので、土方にとっての姉は母的存在でもあります。

 郷原 吉増さんの『我が詩的自伝』を読むと、お母さん的存在がやはり強いですよね。圧倒されました。

  吉増さんはお母さんが一八歳のときの長男です。そのお母さん悦さんは去年の暮れ、一二月二〇日でしたが九六歳で亡くなりました。吉増さんには、深い喪失感がおありのようでしたね。

 建畠 『舞踏言語』には「身体」という言葉や体感的なことがたくさん出てきますが、それは直接的な、原初的な身体に立ち返るとか、そういう感じではありませんね。ダンサーが感じるような身体の確かさではなくて、ただイメージとしてあるようなものとして捉え直す。非在のイメージのようなものに置き換えようとしている。身体は、自分の内面の存在を保証するものではなくて、ある種の普遍性を持った開かれたものになっています。ランボーの「我は他者なり」はJE est un autreで、大文字の一人称の主語で、三人称単数の動詞で受けている。だからこれは「私というもの」を客観視したうえで、それが「他者である」と言っていることになります。

 さっきの「姉」の話に戻せば、姉には官能的なところもある。直接には性的なタブーの対象ですが、微妙な距離感もあり、またある種の官能性をも保っている言葉を宿らせて、実存的な身体を切り捨てる、客体視するということが、土方にも吉増さんにもあったのではないかという気がします。

  現在の吉増さんからは、姉という言葉はまったく出てきませんね。

 建畠 そんなに深い意味はないのかな(笑)。深読みしすぎたかな。

 郷原 その「姉」の話が出てくるあたりで吉増さんは「旅をおそれよ」(p82)と書いています。「西行とても白色風景のなかで盲いていた」と。土地には精霊が宿っているけれど、私たちが軽く行うような表面的な旅では、土方の身体が辿りついたような土地の精霊に、西行でさえ辿りつけないんだと。

 建畠 吉増さんは、土地の精霊との交感に降りていこうとする旅をしますよね。

  その旅に吉増さんは必ず銅板を持っていって、それに詩の言葉を打ち込むわけです。土地の精霊への一種の挨拶ですね。

 郷原 その「打ち込む」ことが、後に吉増さんによる吉本隆明の文の筆写につながります。その「筆耕」は、土方のテクストから始まったということが今回わかりました。

  土方が亡くなったとき、吉増さんは土方が喋っているのが録音されたレコードをもらい、それを書き移し、『慈悲心鳥がバサバサと骨の羽を拡げてくる』(書肆山田)として一冊にまとめました。聴きとった声を書き移すというこの体験は、吉増さんと「声」の問題を考えるうえで大事かもしれません。

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詩の言葉で語られる独特の歴史の思考

――人の生を宿らせたこの文体にぜひ触れてほしい
評者:佐藤泉

 ■「この国で朝鮮人として生きること、朝鮮と向き合うことはじつに難しい。緊張する。しかし、だからこそ、朝鮮を受け入れることで鮮明になる世界はじつに愛おしい」(「はじめに」より)

 この小さな本の著者は、ソウルで生まれ、東京で育ち、植民地期朝鮮のモダニズム詩人・李箱の作品を日本語で読めるようにしてくれた翻訳者であり、またテント芝居「野戦之月」の役者でもある。あるいは、日本社会が来るところまで来たように思われたあの事件の当事者、つまり二〇一四年五月の産経新聞報道がきっかけとなってすさまじい脅迫、嫌がらせにさらされることになった在日の教員だといえば、この国が彼に強いる「緊張」の内実を理解しやすくなるかもしれない。「私はあなたにこの言葉を伝えたい」で書いているように、彼は自分に降りかかった事件の渦中にあって、新聞記者やそもそものきっかけを作った学生と「人」のレベルで向い合い、視線を合わせようとし、本気の言葉を彼らの中から手繰り出そうと全力を尽くしていた。それほどまでに寛容、またはお人よしだという話ではない。「人」に向き合うのでなければ、顔の見えないヘイトスピーチの恐怖に自分自身が押し潰され、ほんとうに殺されてしまうからだ。必死の局面にあって何としてでも生き抜くために「人」に向き合わなければならない。朝鮮語で「人」は「サラム」。それが本書のタイトルとなっている。人物紹介めいたことを書いたのは、この「人」がどのようにして生き抜こうとしているか、本書においてはその身体がダイレクトに文体化しているからであり、その点で稀有な一冊だからである。手に取って、人の生を宿らせたこの文体にぜひ触れてほしいと強く思った。

 本書には詩集「サラム ひと」、および散文が四つ収録されている。東京で客死した李箱について、滅亡から目を背けて思考を止める日本について、産経事件について、そして福島と広島の影の被爆者のこと。それらの文章を縫い合わせているのは、詩の言葉で語られる独特の歴史の思考かもしれない。本書が気付かせてくれるのは、この国の空気の中につねに濃厚に漂っている暴力の予感である。時をさかのぼって二〇〇二年、日朝首脳会談後の日本は拉致問題一色に染まった。この国で生きる朝鮮人の身体にある怯えが蓄積し、そこに関東大震災時の朝鮮人虐殺のイメージがとりついた――竹槍で後ろから刺される。この国で朝鮮人として生きることとは、ウシロカラササレルという無名無数の記憶=予感にとりつかれるということだった。さらに時が経過し、白昼の街頭にヘイトスピーチの声が響くようになる。振り返れば、後ろから刺されるという過去のイメージは、ヘイトスピーチという未来の暴力を予感していた。時は逆流し、過去のイメージが未来の記憶のように押し寄せる。

 いつでも同じ人間が殺され、過去は立ち去らず、歴史には何の意味もないのだろうかとも思われてくる。けれど必死で恐怖に耐え、生き延びようとするものは、時の濁流の中で、過去の死者たちと出会い、死者たちの未来を救うことによって自分たちの未来をなんとか救い出そうと試みることだろう。たとえば著者は、そのようにして李箱を救っている。近代性が植民地化・自己植民地化と綯い合わされる東アジア。その東アジアでモダニストであることの出口のなさから李箱を救出し、その思考を通して本書は近代の暴力性から脱出しようとするのである。文学の思考、さらに詩の言葉による思考でなければ語り得ない問題意識を展開する中で、本書はこの国と近代の時間性とをやさしく突き放す。

 中国、韓国の「反日ナショナリズム」という成句が日本に広まった。東アジアには侵略の過去を直視しない日本への怒りがあり、その意味で彼らは確かに「反日」である。本書はそれが日本が再び軍国主義化するのではないかという「暴力の予感」の表現であることを教えてくれる。「反日」とは反日本軍国主義のことなのだが、どうやらその日本的用法はそのことを理解しようとしない。著者によれば東アジアにとって、日本を信頼する最後の頼みは憲法九条なのだ。逆にいうなら日本が九条を捨てるとき、日本はそのときをもって東アジアに帰還する道を金輪際断たれる。著者はこの九条を「東アジア化された九条」と呼び、それのみを護ると書いている。沖縄に米軍基地を押しつけ、また台湾韓国の軍事独裁政権下での民衆の犠牲を顧みることのない「護憲」ではないということだ。

 奥付の発行日は米朝会談のちょうど前日になっている。朝鮮半島が動き、世界史が動き、時間の流れ方が変容しつつあることを、本書は感じ取りながら刊行された。朝鮮戦争が終結し、冷戦が終わり、アジアがアジアになるときに、人は七〇年もかけて七〇年前にたどり着くだろう。行友太郎による解説も厳粛さと滑稽さをたくみに綯い合わせて秀逸だ。

 (日本近代文学)

現代音楽史を「総括」なんかしないために

――当時とは別の相対性の中での音楽史の読み直しを迫る往復書簡
評者:渡邊未帆

 ■平成最後の夏、酷暑のなか、ピエール・ブーレーズとジョン・ケージに想いを寄せている。前世紀「現代音楽」史上最大のあの論争は、一体なんだったのか? と。

 本書『ブーレーズ/ケージ往復書簡――1949‐1982』(みすず書房)は、フランスの音楽学者ジャン=ジャック・ナティエと、パウル・ザッハー財団のロベール・ピアンチコフスキによって編纂され、2002年に出版された“Pierre Boulez John Cage : Correspondance et documents”(改訂版)の笠羽映子による邦訳である。ナティエによる初版は1990年に、ケンブリッジ大学出版の英訳版は1993年に出版されていて、その頃はブーレーズ(1925‐2016)もケージ(1912‐1992)も存命だった。日本では1995年に「レポン」初演にともなうブーレーズ来日に合わせて、雑誌「ユリイカ」のブーレーズ特集で一部が訳出され(ここには全訳の近刊予告が掲載されている)、この度待望の改訂版の全訳出版となった。

 私事だが、評者は学部生の頃の90年代後半、大学でこの論争についての音楽史の講義を受けた。仏ブーレーズの「管理された偶然性」と米ケージの「怠惰な偶然性」。私自身の理解が全くもって未熟だったのもあって、その時はまるでブーレーズに歴史的軍配が上がったような印象を受けたものだ。もっと言うと、私自身としては正直ケージの「アナーキー」な考え方と音楽にシンパシーを持った。にもかかわらず、結局私は卒業論文のテーマに「ピエール・ブーレーズとパウル・クレー」を選んだ。あれから20年、ずっと引っかかっていたのである。この「二者択一」は果たして正しかったのか? ということが。

 それはそうと、編者のピアンチコフスキは前置きに「決定論の支持者と不確定性の支持者との間の美学的な対立は、今では20世紀後半の音楽の歴史全体の常識に属しており、その時期に対する前例のないアプローチを読者に提供するつもりだなとという愚直なうぬぼれは全くない」と明言し、そしてむしろ「大事なのは、見たところ極めて異なった、対照的な個性を持った二人が、当初、何を共有できたかを理解すること」を促している。生まれた大陸も年代も違う二人の共通点とは、まず、青年時代にレイボヴィッツに「十二音技法」を師事し、すぐに嫌気がさしたという点であり、今や20世紀の音楽史に燦然と輝く二人が、当初は「戦うマイノリティー」を自覚していたということだ。

 書簡は1949年に24歳のブーレーズが13歳年上のケージに宛てたことから始まる。近況、文学や絵画の趣味、自作の試論が、お互いに相手の母国語に歩み寄って交わされるが1954年に断絶。(いくつかの書簡は紛失しているらしいが)読者は一体どこに決別点があったのか探すことになるだろう。ところで、邦訳にはサブタイトルとして「1949―1982」と記されている。タイトルを見て、もしや30年余り交感が継続していたのかと淡い期待をしたが……。

 ケージとの美学的決別の後、ブーレーズは作曲家としてよりも指揮者として頭角をあらわし、またドメーヌ・ミュジカルやIRCAMといった音楽の場の創出に携わるようになる。同じくみすず書房から刊行されたもうひとつの書簡集があるが、民族音楽学者のアンドレ・シェフネル(1930年代にミシェル・レリスのアフリカ、ダカール‐ジブチ横断調査旅行に同行した人物)との往復書簡がちょうどケージとの決別前夜に始まっているのも興味深い。彼の生み出した「十二音技法」に次ぐ「トータル・セリー」という作曲システムの運用は放棄されたのか? どこに行き着くのか?

 さて、のちのブーレーズはケージとの蜜月について、「僕たちは皆、何らかの時に、貴君を必要としました。もし貴君がいなかったら、貴君を作り出す必要があったでしょう」(1982年ケージへの手紙)、「(ケージとは)発見すべき大陸の魅力です。戦争はその距離を打破したと同時に、未来へ向けられた途方もない幻惑をもたらしたのです。ソ連はイデオロギー向け、合衆国は現代性向けでした。回顧してみると、何と奇妙な二者択一だったことか!」(1990年ナティエへの手紙)と戦後の冷戦構造の中に「総括」を見出している。一方ケージは? 私には「そんなことより、このキノコは……」と躱すのが目に浮かんでしまうが。最近、芥正彦に「1969年の三島由紀夫との公開討論とは何だったのか」、あるいは山崎春美に「1982年のあの自殺未遂ギグとは何だったのか」と本人が総括を迫られる場面を目にしたのを思い出した。果たして当の本人が現世で自らを歴史に位置付けることにどんな意味があるだろう。「往復書簡」という極めて私的な交感の記録は、半世紀以上のちに生きる我々に、当時とは別の相対性の中で音楽史の読み直しをするよう迫ってくる。

 まさに今年の「サントリーホール・サマーフェスティバル2018」(8月22日‐9月1日)は「フランス音楽回顧展」として、ブーレーズの「プリ・スロン・プリ」だけではなく、彼のDNAを引き継ぐ「現代フランス音楽」を聴く機会である。

 (音楽学)