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紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

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 ◆ 3369号(9月29日発売号掲載)

核電ゼロの社会改革

――エネルギーのあり方は、広範で根が深い社会・経済・政治の問題である
評者:上園昌武

 ■今夏をふりかえると、6月には大阪北部地震が起きて甚大な被害をもたらした。7月には西日本豪雨、災害レベルの酷暑の日が続き、9月の台風で暴風と豪雨の被害、そして北海道地震と、災害が立て続けに列島を襲った。泊原発は一時、外部電源を喪失し、非常電源で核燃料の冷却を再開したが、福島第一原発事故の悪夢が甦った。それでも安倍政権は原発推進を変えない。核兵器禁止条約の署名を求める広島、長崎の被爆者の訴えに耳を貸さず、相も変わらず北朝鮮の脅威などを口実に軍事費を増大させ続けている。

 この夏に私たちが直面した課題を貫くものは何か。災害に向き合い、核の問題と平和構築に取り組み、未来を見すえる読書のよすがとなる書評をここに特集する。(編集部)

 ■エネルギー問題は、気候変動と核電(原発)という巨大なリスクに直面している。福島核電事故を契機に、ドイツは脱核電の道へ舵を切ったが、日本はまるで福島事故がなかったかのごとく核電の再稼働を急いでいる。なぜドイツと日本のエネルギー政策は正反対の道を歩んでいるのか不思議に感じる人は少なくないだろう。本書は、まさにこうした疑問に答えてくれるはずである。本書の構成は、前半で核電の主に経済的な問題点を分析し(第1~6章)、後半でドイツの持続可能なエネルギー転換への展望を示している(第7・8章)。本書の特色は、持続可能性、安全性、経済性、生活の質という視点から、どの選択肢がエネルギーのあり方として合理的で賢明なのかを豊富な資料やデータを駆使して丁寧に検証されていることである。

 本書の問いは、「核エネルギーからの脱却は、負担可能な費用とグローバルな気候保護への適切な寄与で実現できるだろうか」である。その答えは、「ドイツのシナリオは、気候と調和するグローバルエネルギー転換を、核エネルギーなしに、確実に国民経済的利益に結びつけることが可能」と導き出されている。

 核電が普及してきた理由として、ドイツでも「核電は安い」と流布されてきたことが大きい。しかし、それは過酷事故が起こらないことを前提とした楽観的な仮定に基づいている。現実には核電事故の危険性に対して民間の保険をかけることは難しく、政府はその賠償額を実質的に国民に負担させることになる。いわば国家は、核電事業者に対して巨大事故に備えるべき本来必要な保険を免除し、核電力経済を助成しているのである。著者は、この制度を核電力における「陰の補助金」と呼び、真の外部不経済を市場価格に内部化させずに市場経済の原則に反していると批判している。こうした核電事業者による「利潤の私有化」と国民が引き受ける「損失の社会化」という不条理な関係には誰も納得しないであろう。

 必要な賠償保険金額は、kWh当たり0・5ユーロ(65円)と見積もられ、ドイツ国民一人あたり年間で6250ユーロ(82万円)と莫大である。この「陰の補助金」こそが核電の安さの正体である。もし正当な賠償義務保険の割増金を電力価格に組み込めば、核電事業の採算性は全く成立しなくなるだろう。また、米国の石炭火力発電も同様に、大気汚染や気候変動などの損害を与えることから莫大な社会的費用(外部費用)を発生させており、高額の「隠れた補助金」が「石炭火力は安い」をつくり出している。これらの「陰の補助金」と「隠れた補助金」は石炭と核エネルギーを低廉化させ、次の2つの問題を引き起こす。1つは、エネルギー集約的な製品の世界市場価格を押し下げ、その財の需要を喚起するため、CO2排出を増加させる。もう1つは、風力や太陽光などの再生可能エネルギー(再エネ)の普及を大きく妨げている。近年、世界の投資家の間では、化石燃料や核電に対するダイベストメント(投資撤退)の動きが広まっており、本書で強調された持続可能性投資の役割が一層重要になってきている。

 それでは、どのようにすれば核電ゼロで再エネ100%のエネルギーシステムを実現できるのだろうか。ドイツ政府は、2010年のエネルギー計画を決定する際に、政府や研究機関、環境NGOという多様な立場のシナリオ研究に基づいて検討した。その結果、2050年に核電ゼロでCO2排出80~95%削減、電力の再エネ割合を80%などの数値目標が決定された。注目すべきことは、複数の政策シナリオの結果を市民が理解して検証できるように政策の対話が行われたことである。

 ドイツの「エネルギー・ヴェンデ(転換)」は、生活の質の向上や地域経済の発展などを伴う社会改革を目指している。再エネ100%を目指す分散型エネルギーシステムは多くの価値創造効果を生み出し、自治体と地域圏における発展の推進力となっている。自治体は、都市公社を介した担い手として注目されている。また、建築物の断熱化やパッシブハウスは、暖房エネルギーの消費とCO2排出量を大幅に削減するだけではなく、居住空間を快適で健康的にして生活の質を改善するのに寄与する。著者は、「野心的な気候保護は高くつきすぎ、生活水準を下げ、競争力を脅かす」というネオ・リベラリズムの信仰は根本から崩れ去ったと断じる。さらに、途上国のエネルギー貧困問題にも言及し、生活の質・経済成長・自然消費の分離が世界の持続可能な発展の必要条件であると説いている。

 しかし、大規模な再エネ開発は、自然・景観破壊などの地域社会との紛争を生み出しかねず、住民の受容性を高めなければならない。また、電力網の拡張やスマートグリッドの整備、それらの費用負担の問題など課題は少なくない。ドイツのエネルギー・ヴェンデはまさに試行錯誤で歩んでおり、それゆえにエネルギー政策は国民的議論が不可欠なのである。

 原書の出版は2012年であり、この6年間で環境エネルギー問題は劇的に変化しているが、内容は色あせるどころかむしろ本質を的確に捉えている。本書を読むと、エネルギーのあり方は、市民生活や地域経済、国家や国際社会の垣根を越えて考えなければならず、広範で根が深い社会・経済・政治の問題であることを確認できるだろう。本書は、エネルギー問題に関心のある方に一読を薦めたい好著である。

 (島根大学法文学部教授)

「愛とは物語」である

――日本の愛と恋を渉猟し、多様な視点で大胆に読み解く大著
評者:志賀信夫

 ■『愛の日本史』というタイトルで何を連想するだろう。日本におけるさまざまな恋愛を含めた愛の歴史だろうか。すると、それは何から、どうやって知ることができるのか。

 私たちが知っている「愛」とは、自分の「愛」以外は友人、知り合い、親や親族などから伝え聞くものだ。さらには新聞やテレビで報じられる事件ということになるかもしれない。だがそれ以前のものは? やはり神話や伝説・寓話、小説などの「物語」に求めるしかない。それらすべてを考えると、「愛とは物語」である、といってもいいかもしれない。本書はそんな愛の物語を万葉集、古事記、日本書紀まで遡って論じるというものだ。

 本書を少し読むと、おそらくだれしも驚くだろう。私たちがどれほど日本の古典について知らないか。著者であるフランス人がいかに知っているか。本書は十七章で構成され、九十九の物語が紹介されるのだが、そのいずれについても、ディテールと面白いポイントが巧みに描かれる。そして古典から時には現代までの物語との対照がなされ、日本のさまざまな愛の物語によって、まさに「眼を開かれる」体験をするのだ。

 これほどの研究に著者を駆り立てたものは何だろう。想像するに、それは、西洋と日本の「愛」の違いではないだろうか。本書の始めで、ある学者の「日本に愛は存在しない」という考えが示される。「あなたがたには愛があります。私たちには〈恋〉があるのです」という、その船曳建夫の言葉は、ジアールに大きなヒントとなっただろう。フランス語や英語には恋と愛の区別はないらしい。だからこそ、特にその「恋」という「はかなき世界」に、彼女は恋しているのかもしれない。

 そんなジアールの文章は実に魅力的だ。例えば「女」という文字の形が、女性の座っている姿を示すとして、茶道の「にじりよる」動きにつなげるのだが、それが『伊勢物語』の在原業平の通い婚を経て、能の『井筒』の「待つ女」に至るという展開などはとてもスリリングである。

 よく知られた義経の話も、判官びいきから「稚児物語」、能『鞍馬天狗』の天狗と牛若丸の同性愛、そして義経の自決と弁慶の最期の「立往生」に至るまで言及される。そして浦島太郎も亀からの連想で、男根を切った阿部定の物語につながっていくなど、エロティシズムも交えて実に多様に、面白く、しかも精緻に論じられる。

 取り上げる物語にたびたび「踊り」との関係を指摘しているところも興味深い。『古事記』、『日本書紀』のイザナギとイザナミの愛の営みが柱のまわりを回ることに踊りを見出し、白拍子を含めたさまざまな踊りに注目していく。さらに遊女の歌、カラオケで歌われる演歌の分析などの歌と愛の関わりもある。その演歌に日本的な愛の心情を見出すなど、ジアールは日本の「愛」の物語を、大胆かつジャンル横断的に論じていく。

 また、大半が古典の九十九の物語に、三島由紀夫の自決、コンドームのCFがさりげなく挿入されていることや、残り一つは読者の物語、とするのも、フランス的エスプリと評したいところだ。

 挿入といえば挿し絵も、月岡芳年などの古典絵画に混じって松井冬子などの現代美術家、駕籠真太郎などのマンガ系の作品が入っている。実は著者のアニエス・ジアールは、日本のサブカル文化に詳しく、『エロティック・ジャポン』などの著書もあるのだ。その彼女がどうしてこれほど日本の古典に習熟できたのだろうか。

 よく見ると、実はそのほとんどが英訳されており、一部は仏訳もある。日本は翻訳大国だが、海外に村上春樹など日本の現代文学が訳されていることは知られている。だが、これほど古典も翻訳され、多くの研究が出ているとは驚きだった。日本と同様にそれらが日本理解の基盤となっていると、翻訳文化の重要性を改めて感じさせられた。

 また本や文献を渉猟しただけではない。著者は多くの日本人や外国人にインタビューしている。それは、文化人類学者、能の研究者から歌舞伎役者、舞台衣装家、床山、神職に至る。つまり、フィールドワークといえる調査による生の発言が本文に生かされ、それが翻訳や他の外国人による研究と重なって、この菊判の二段組、五百頁近い大著に結実しているのだ。

 さらに本書の翻訳自体、見事にこなれており、読みやすい。訳した谷川渥という日本有数の美学者が、実に優れた翻訳者であることも、改めて感じさせる作品だ。芸術文化のさまざまな分野で大きく影響を与えた澁澤龍彦。その流れをこの谷川渥、巖谷國士らが継承しているといえるが、いずれも優れた書き手であると同時に第一級の翻訳者なのだ。そしてこのジアールの作品の渉猟の仕方も澁澤好みといえそうだ。当時、日本の古典にも新たな光を当てた澁澤龍彦が本書を読んだら、大いに喜び、必ず紹介したであろうことは間違いない。その意味でも、日本の愛の物語の新たな啓蒙書が、ここに誕生したといえるだろう。

 (批評家)

「名のない物」が落ちてきて……

――詩のような表現を交え、決して高尚でも美しくもない、これぞ人間と言いたくなるような人々の姿を描いている
評者:木下朋子

 ■ポルトガルの小さな村ガルヴェイアスに、「名のない物」が落ちてくる。それは宇宙から一直線に飛んできて、一分間にも亘る爆発で村人を驚かせ、怯えさせた後、激しい硫黄のにおいを発して原っぱに横たわっているのが発見される。

 こうして隕石の落下と思われる大事件から、物語は始まる。

 本作は、著者ジョゼ・ルイス・ペイショットの初めての邦訳作品だ。日本語で読める作品の少ないポルトガル文学というだけでも手を伸ばしたくなり、ポルトガル語圏のブッカー賞とも言われるオセアノス賞を受賞していることでも興味を引かれるが、冒頭の大事件でいきなり物語の世界に引き込まれる。

 この物語には、全体をとおしての筋があるわけではない。最初と最後は「名のない物」に光が当たるが、あとは村に暮らす人々それぞれの思いや行動が、誰が主役というでもなく何人分も描かれる。先祖代々の土地を巡って兄と断絶しているジュスティノ爺、夫と不倫しているという噂の女に思い知らせてやろうとするローザ、家の手伝いに来るずっと年下の女にひそかな欲望を抱くセニョール・ジョゼ・コルダト、ブラジルから来てパン屋兼風俗店を営むイザベラなど、それぞれの日々をそれぞれの思いを抱いて生きている村の人々の姿が見えてくるにつれ、村の全体像も浮かんでくるような気がする。

 村人たちの日常に硫黄のにおいがまとわりつき、やがて変化が起こる。ジュスティノ爺はついに兄を殺すと決意し、ローザは着々と準備を整えて夫の不倫相手に攻撃をしかける。風俗店のイザベラは、既婚の男と密会中に泥棒と間違われる。他の村人たちにも様々なことが起こり、それぞれに思わぬ成り行きが待っている。

 人の命に関わる大事件がきっかけになったかのように、村には啓示めいた出来事が続き、三つ目が起こると、村人たちは目から鱗が落ちたように、それまでの自分のあり方を意識し、嫌気が差し、そこから一歩を踏み出そうと思う。そして、爆発に続く七日七晩の豪雨のあと忘れていた「名のない物」のことを思い出すのだ。

 「名のない物」が落ちてきた衝撃は、なぜかたいした対応もされることなく忘れ去られるが、硫黄のにおいは村を包み、村人にまとわりつき、意識しないところで村人たちの思考と行動に影響を及ぼしているようだ。

 では、「名のない物」とは何なのだろう? それを「宇宙」が送り込んできたとはどういうことなのだろう?

 作品の中には答えも説明もない。実際には隕石の落下かもしれないが、それは何か大いなる意志とでもいうようなものとして作用し、硫黄のにおいを媒介に村人たちを行動に駆り立て、思いも寄らぬ出来事を起こしているというようにも思える。

 邦題に「犬」と入っているとおり、ガルヴェイアスでは村人の足元にいつも犬がいる。「名のない物」のことを、人間は忘れても犬は忘れていない。犬は「名のない物」を忘れず、その謎に不安を抱きながら、日常に翻弄される人間たちをその足元から見つめている。犬と違い、人間は大きな出来事を意識外に追いやってしまえるほど、身の周りの、傍から見れば些事かもしれないことに忙しい。最後に「名のない物」のことを、日常を越えた大きな出来事を思い出すのは、ガルヴェイアスにもたらされた救いなのかもしれない。

 繰り返される言葉、擬人化される物。詩人としても評価が高いという著者らしく、詩のような表現を交え、決して高尚でも美しくもない、これぞ人間と言いたくなるような人々の姿を描いている。それはガルヴェイアスに暮らす一人一人の物語でありながら、それ以外の地にも暮らす「人間」というものの姿でもある。

 随所に挿入される「誰にだって、運命の場所ってもんがあるのさ。誰の世界にも中心がある」、「将来とは、あり得ないことばかりが待ち受けているものなのだ」というような格言風の言葉も、この世のあらゆる場所、あらゆる人に当てはまりそうなことばかりだ。

 著者は初の長編を含めてポルトガルやイタリアなどで数々の文学賞を受賞しており、現代ポルトガル文学を代表する作家の一人とされる。その著者の書いた、世界のどこが舞台であってもおかしくない、この小さな村の物語を、読者は詩的な表現を味わいつつ読み進めながら、人々のありようや語られる言葉に何度も頷くことになるだろう。

 (翻訳者)