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紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

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嘘である、ゆえの切実さ

――ドキュメントの集積として歌人・紫宮透を描く
対談:高原英理×文月悠光

 ■このたび、高原英理氏が『歌人紫宮透の短くはるかな生涯』を立東舎から上梓した。架空の天才ゴス歌人、紫宮透が遺した三十一首の短歌から紐解かれていく彼の生涯を多角的に描いた、異色の伝記小説である。本書の刊行を記念して、同じく立東舎から二月に『臆病な詩人、街へ出る。』を刊行した詩人の文月悠光氏との、「歌のわかる小説家と詩人の対話」とも呼べるようなトークイベントが9月5日、下北沢の本屋B&Bにて行われた。本稿はその採録である。(村田優・本紙編集)

 ■伝記小説かつ優れた短歌入門書

 文月 このたび高原さんが刊行された『歌人紫宮透の短くはるかな生涯』は全体で三三〇頁ほどありますが、それ以上の厚みを感じさせる小説になっています。というのも、頁の下の部分にたくさんの脚注があって、作品内の情報量が増しているからです。本書では、紫宮透という架空の歌人の作品に対して、架空の批評家が批評を寄せています。脚注も、単に用語の解説をしているものから批評の引用まで様々です。歌、批評、人物像……一冊の本のなかに幾重もの構造が包まれているような印象を受けました。

 紫宮透は八〇年代に活躍した歌人で、九〇年に亡くなっています。本作の語り手が『紫宮透の三十一首』と題された歌論を読むという設定で物語が進んでいき、私たち読者もその体験のなかに放りこまれていく。これは紫宮透という歌人の伝記小説ですが、彼の子供時代から高校時代までをかなり詳細に描いている。その点で言えば青春小説であり、さらに一種の詩歌入門とも言えるんじゃないかと思います。私も学生時代に短歌になじんできたので本書を読んで再度勉強になったところも、初めて知るようなこともありました。たとえば、紫宮透が自作の歌詞を提供する場面ではたくさんのパンク・バンド名が出てくるし、紫宮の二人目の彼女はいわゆる「腐女子」ですね。BL(ボーイズラブ)文化に対する言及がとても鋭いんです――「腐女子たちの深いところにはフェミニズムが隠れている」、「女が求められていない世界では、わたしは完全なそして全能の観客である」というように。しかも、BL文化については短歌の世界ともまったく無関係ではなく、実際にBL短歌のブームというものがあったわけじゃないですか。

 高原 はい、そうです。ただ、BL短歌に関しては短歌論として言及されるようになったのはかなり最近ですね。小説にも書きましたが、八〇年代にはBLという語がなく、『JUNE』という雑誌が漫画と小説の分野で、現在でいうBLの耽美的な要素を描いていった。その文化が徐々に知られるようになり、意味も広がったものとしてBLが生まれてきます。

 文月 と、こうした解説が逐次たくさん入ってくるので(笑)、八〇年代の文化に触れたことがない人も安心して本書を読むことができます。高原さんは、今回どうして一人の歌人の人生を追いかける形式の小説を書こうと思ったのですか?

 高原 最初は歌人一人の人生を描こうと思ったわけではなく、私自身の短歌をテキストにして、多数の人たちに議論させる、いわば評論の小説みたいなものを考えていました。自分としてはその評論部分を面白く感じていましたが、これは小説とは言われないんじゃないか、という意識もかなりありました。日本で翻訳されている、たとえばナボコフやミルハウザー、フラン・オブライエンといった海外の作家が書いたものとされていればそういうやり方もOKとされますが、日本の作家が彼らと同じことをやるとどうも発表の場がないと思ったわけです。それで五、六年のあいだ放置していましたが、あるとき、構想を考え直しました。“自分の”短歌としていると小説としてうまくいかないので、使うのは同じ歌なんだけれども、自分とは関係のない別人の、“他人”の歌を用いたことにして、その別人の生涯を描いてみようと考えたのが、今から三年ほど前です。それから伝記形式に変えていきましたが、一般に伝記というのは一人の語り手が、作者は何年に生まれて、どこで何をして、などと説明していきますね。それだとちょっと面白くないので、本書ではドキュメントの集積として描いていく方法を選びました。

 文月 そうですね、本書に出てくる関係者たちはいろいろと紫宮透について語っていたり書いたりしているんですけれど、彼らはあまり紫宮を褒めたり手放しに評価したりしていません。あいつはいかにも歌人という感じで地味だった、彼女のほうが派手で目立っていたけど……などと証言されている(笑)。だから、ただ「紫宮透」という歌人を推薦しているというより、これは一つのドキュメントとして成り立っていて、彼の成長を私たちが見守っているようなところもあるかもしれません。

 高原 そういった書き方は他者の言葉をなるべく意識した結果ですね。

 文月 一読者として心底不思議だったのは、高原さんという一人の書き手のなかに一体何人の人格が入っているんだろうということ。先ほどの話でも「他者がつくった歌ならば小説になると思って……」とおっしゃいましたが、でもこれは作者である高原さん当人がつくった歌ですよね。紫宮透や、彼のライバル歌人である北園明雄、あるいはその他の登場人物といった、設定が異なる人物たちの作風や証言の「筆格」――筆の人格――の使い分けについて、そうした特徴を高原さんが物語のなかでどう動かしていったのか、とても気になりました。一から架空の人物を考えるのではなく、実在する文学者や批評家の文体をサンプリングする必要がありますよね。短歌を読み慣れていたり批評を学んだりしたことがある読者からすると、「この批評、あるある!」「こういうツッコミする人いそう!」と感じられて、細部を読み込む楽しさがあります。

 高原 その点は私が批評家としてしばらく仕事をしていたおかげと思います。

 文月 何人もの批評家が高原さんの頭のなかに住んでいるんですね。数ページ読むだけでも批評家が三人ぐらい出てきて歌を論じはじめるので、多角的に一首の歌を見ることができる、優れた短歌入門だと思いました。

 高原 そう読んでいただけるとありがたいです。

 2ページ以降はこちら

不可解な自分自身の心、その奥底にひそむ「闇」のかたち

――ラストは「痛み」や「悲しみ」が「愛」に昇華した瞬間をとらえて荘厳
評者:八木寧子

 ■どこから触れたらいいのだろう。

 時間をかけて二度、三度と読み返し、押し寄せてくるさまざまな感情の波の前でただ呆然と立ちすくむしかないような感覚を抱いている。

 2018年上半期の直木賞受賞作という担保がなくとも、作者がこの作品にどれだけの時間と思いと力を傾注し、丁寧に物語世界を構築したかということがじゅうぶんに伝わるほどの、圧倒的な質量と熱量を感じさせる小説だ。

 恋愛小説とも、ミステリーとも評される。そのいずれでもあり、いずれでもない。この物語は、単に親子や男女の「愛」の在り方を描き、殺人事件の真相に迫るという謎解きを読者に愉しませるというだけの読み物ではない。島本理生が本当に描きたかったのは、もっとも不可解な自分自身の心、その奥底にひそむ「闇」のかたちそのものだったのではないだろうか。

 発端は、アナウンサー志望の女子学生が、キー局の二次面接の直後に父親を刺殺し、血まみれのまま夕方の多摩川沿いを歩いていて逮捕されたというショッキングなニュース。父親は名のある画家であり、女子学生の容貌が優れていた上に、逮捕時に「動機はそちらで見つけてください」と嘯いたこともあって事件はスキャンダラスに扱われる。

 物語の主人公である真壁由紀は臨床心理士。出版社から、件の女子学生・聖山環菜についてのノンフィクション執筆を依頼され、接見を通して環菜と心の交流を試みる。賢く聡明でありながら、年齢より幼い印象を抱かせる環菜に、どこから触れていこうかと思案する由紀。父親への殺意はあったのか。母親との関係は良好だったのか。接見を重ねるうちに、一人っ子である環菜の早熟と、画家である父親中心の、ある種異様な家庭環境が浮き彫りになってくる。

 父親が開くデッサン会で無防備に男性の目に晒されること。性的あるいは肉体的な暴力に等しいとも言える、服従の強要。環菜の腕に刻まれた夥しい自傷の痕を、由紀は単なる現実逃避やトラウマの解消とはとらえない。そこには何かある。由紀は環菜の闇に潜ろうとする。

 そのアプローチがミステリータッチで描かれる一方、もうひとつの「トラウマ」が次第に浮き上がってくる。由紀と、奇しくも環菜の国選弁護人となった由紀の夫の弟、庵野迦葉の歪な関係性だ。ふたりは同じ大学の同期生だが、過去にあった何らかの出来事によって隔てられたことが暗示される。そして、由紀自身の少女期に影を落とす両親との確執。理解があり優しい夫と愛する息子との生活に満たされながらも、由紀は心の奥にある自身の「闇」が顔を出そうとするたび、温かな場所からはぐれ、寂しい荒野をひとり彷徨する。そのひりつくような痛みの根源は、環菜のそれとも共鳴する。

 由紀が環菜と交わす時間は、単純な魂の救済の軌跡ではない。環菜が身を置いていた「グロテスク」なデッサン会の実態を明らかにすることで、由紀は環菜の過去を整理しようとし、「孤独と性欲と愛」の区別すらままならない環菜に、「愛情」とは「尊重と尊敬と信頼」であると伝えようとする。同時に、自身も「父親の暗部」に惨憺たる思いを抱いてきた由紀は、親に捨てられた迦葉も含めた「親をあきらめるしかなかった」者たちが受けてきた一方的な暴力や理不尽に、他者が「名付け」を与えることで呼吸が楽になることを示そうとする。

 「初めて、サバイバー、という言葉に出会った。少女の頃から理由もなく暗渠の中をさ迷っているような感覚を抱いていた私はなぜかひどくその言葉に引きつけられた。その理由を知ったのは、もっと後だった。名付けとは、存在を認めること。存在を認められること。」

 そのくだりを読んだとき、内臓を晒して微笑する少女を描いた『浄相の持続』や鮮烈な自画像で知られる日本画家の松井冬子や、痛ましいほどの自己を世間に見せつけながら稀有な才気を発し続ける歌手のCoccoらを想起した。彼女たちもまた、強迫観念に陥る人間の姿に一種の名付けをすることで、その存在を肯定しようともがき続ける「サバイバー」にほかならない。

 『大きな熊が来る前に、おやすみ』『夏の裁断』などで繰り返し提示されてきた暴力や闇というモチーフが、今作ではより象徴的に描かれる。

 「こちらを睨む瞳は濡れたように光を帯びて、美しい形を保っていた。けれどその奥にあるのは踏み込むのをためらうほどの闇だった。」

 これは環菜の母親に対する描写だが、同時に環菜のことでもあり、由紀でもある。

 そしてまた、著者が示すのは、強い光によって生じた闇の濃さだけではなく、闇のなかから立ち上がってくる光でもある。

 「愛とは見守ること」

 冒頭で由紀はそう言い切っている。彼女自身でさえ、まだその本当の意味に気づいていない場面だ。その台詞が、終盤のフレーズ「ようやく抱え込んでいた闇に光が当たった。清らかな解放感だけが胸を浸していた」と呼応したとき、読み手の胸にも、晴れ晴れと澄んだ感懐が訪れるだろう。

 タイトルの意味するところもまた、ここで明らかになる。

 甘美な初恋とも、赤ん坊に与えられる無償の愛とも異なる、強い意思を持った「見守る」「愛」=「ファーストラヴ」こそが、「奪われたものを取り戻そうとして、さらに失う」というループに搦めとられた者たちにとって、絶対的な救いとなるのだ。由紀がそのことに気づくラストは、「痛み」や「悲しみ」が「愛」に昇華した瞬間をとらえて荘厳でさえある。

 (文芸批評)

『吉川浩満思考集成Ⅰ』!?

――ゲノム編集と人工知能の時代における人間本性
評者:粥川準二

 ■この書評原稿をまさに書き始めようとしたとき、ユヴァル・ノア・ハラリの『ホモ・デウス』(河出書房新社)上下巻が届いた。いうまでもなく、世界的なベストセラー『サピエンス全史』(河出書房新社)の続編である。今回書評する『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』の著者・吉川浩満が『全史』を称賛しているのは知っていたが、評者が読んだのは日本語版発行から二年近く経ってからだった。そしてすぐに読まなかったことを深く後悔した。

 本書には、吉川が『全史』をとても丁寧に解説しつつ、その魅力を熱く語るインタビューも収録されている。

 評者が吉川の仕事を知ったのはおそらく、山本貴光との共著書『心脳問題』(朝日出版社)が最初である(同書は現在、『脳がわかれば心がわかるか』と改題されて太田出版から発行されている)。同書のおかげで、評者は生命に介入する科学技術を人文社会系の知見で分析する見取り図を得られた(吉川らは脳科学を対象としたが、評者はバイオテクノロジーへの応用を試みている)。また同書でのミシェル・フーコーらの権力論の解説は、その後何度も大学の講義などで使わせてもらっている。

 その後、単著『理不尽な進化』(朝日出版社)では、吉川は進化論をレビューし、非専門家は進化論に対してしばしば誤ったイメージを持ちがちであることを指摘しつつ、専門家同士で勃発したある論争を整理することを通じて、進化論における重要な論点を確認した。

 本書は「現在生じている人間観の変容にかんする調査報告」である、と吉川は書く。「そこで大きな役割を演じているのは、急速な発展をみせる認知と進化にかんする科学と技術である」(六頁)。吉川は「人間と人間観の変容」について論じる『人間本性論』(仮)という著作を書いているらしい。その準備作業として、その時々の事情に応じて調査と考察を行った諸成果をまとめたものが本書であるという。そうした経緯のため、論文や書評、映画評、人物評といった「著述」と、インタビューや対談といった「発言」が混在しているのだが、そのこと自体が本書の特徴になっている。この構成は当然ながら、フーコーの『発言と著述(Dits et Ecrits)』、すなわち『思考集成』(全一〇巻、筑摩書房)を思い出させずにはいない。

 全体は五部に分かれている。「序」では、本書の狙いが要約されている。フーコーは『言葉と物』(新潮社)で人間の終焉を予言し、それを告げる新しい学問としてフロイトらの精神分析とレヴィ=ストロースらの文化人類学を挙げた。しかし吉川は、近代の人間観を終わらせるうえで大きな役割を演じたのは、生命科学と認知革命の進行である、と書く。一九世紀に生まれた人間像の終焉後、二一世紀に立ち現れる人間の本性とは「不合理なロボット」である、と吉川はすでに答えを出してしまっている。「これが進化と認知にかんする諸科学が与える人間定義である」と(二二頁)。

 以下、「1」では「認知革命」が論じられる。ここでは認知革命が二つの意味を持つ。一つは、ホモ・サピエンスが他のホモ属を凌駕できたのは「虚構」を信じることができたからだ、というハラリが『全史』で主張した認知革命。もう一つは、近年の行動経済学や進化心理学など認知や進化にかんする科学や技術の急速な発展、という意味での認知革命である。

 「2」の「進化と絶滅」では、前著『理不尽な進化』での議論がアップデートされる。

 「3」の「人物」では、リチャード・ドーキンスなど吉川に影響を与えた人たちが論じられ、「4」の「作品」では、本や映画がシャープな切り口で紹介・批評される。評者としては、3と4で自分がもっと早くに読んでおくべきだった本を何冊も知ることができたのが有益だった。他のパートでも本書は多くの本に言及しており、読者にとって親切なガイドになっているのと同時に、知の新しい体系をうっすらと浮かび上がらせている。光栄なことに拙著『ゲノム編集と細胞政治の誕生』(青土社)も脚注に登場する。

 印象的なタイトルはマルクスが『資本論草稿』(大月書店)に書き残した一節「人間の解剖は、猿の解剖のための一つの鍵である」に由来するという。逆ではないか、と思いがちだが、吉川やマルクスによれば、たとえばわれわれがサルのグルーミング(毛づくろい)を理解できるのは、すでにコミュニケーションに関する理論と実践を身につけているからだ、という。この姿勢は、ホモ・サピエンスを特別視せずにビッグヒストリーの中に位置づけたハラリの姿勢にも通じる。また、近年のバイオテクノジーがマウスでの成功の次にヒトで試みられ、サルでの実験が後回しになっている状況をも連想させる。

 本書は間違いなく、『ホモ・デウス』と併せて読むのに最適な一冊であろう。そしてゲノム編集と人工知能の時代における人間本性=「不合理なロボット」がより深く論じられる次作『人間本性論』(仮)が楽しみだ。評者も吉川の提起に応じる準備を始めておこう。

 (ジャーナリスト)