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紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

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 ◆ 3371号(10月13日発売号掲載)

情と涙を忘れ、口元をゆるめて笑う右翼に存在価値はない

インタビュー:安田浩一氏

 ■先ごろノンフィクションライターの安田浩一氏の『「右翼」の戦後史』(講談社現代新書)が刊行された。日本社会にヘイトスピーチを垂れ流し、排外主義を煽る「ネット右翼(ネトウヨ)」の温床をさらに掘り下げ、今日にいたるまでの右翼を歴史的に跡づけた一書である。ネット右翼はこれまでの右翼とどう違うのか、そもそも右翼とは何なのか。現在のマイノリティ攻撃は、右翼の歴史からどう捉えられるのか――。『ネットと愛国』や『ヘイトスピーチ』などのルポで、ネット右翼の問題を追い続けてきた安田氏に、本書を手がかりに話をうかがった。(9月12日、東京・新橋にて。聞き手・米田綱路〔本紙編集〕)

 ■「本当の右翼」はどこにいるのか

 ――右翼の歴史を明治期の玄洋社から説き起こし、いまの私たちが直面する問題を位置づけられたモチーフについておうかがいします。

 安田 きっかけは二〇一一年に出した『ネットと愛国――在特会の「闇」を追いかけて』(講談社)です。

 私は右翼や左翼を主題に何かを書こうとしたことはなかったし、それをテーマにしたいと思ったこともありませんでした。ただ、「在特会(在日特権を許さない市民の会)」に不快感があって、いったい何者なのだろうと思って取材を始めた。それがきっかけで右派、保守派、右翼と呼ばれる方々と接触する機会が多くなりました。そこで驚いたのは、みんな一様に、在特会は右翼じゃない、本当の保守ではないと、私に理解を示してくれることでした。

 『ネットと愛国』への肯定的評価として受けとめることができるのであれば、書き手としては嬉しいけれども、なにか喉に小骨が突き刺さったような、違和感のようなものがずっとついて回った。それは一言で言えば、本当の右翼は在特会とは違う、民衆のためにあるというけれども、では何が違うんですか? ということです。

 私には右翼的なものへのシンパシーはないけれども、突き詰めれば美しいものではないかという、ある種のロマン主義的な憧れがなかったかというと嘘になります。本当の右翼はそうじゃないだろう、という思いはたしかにあった。いまの醜悪な日本の光景を作っているものとは違う文脈で、右派、保守派、右翼が存在すると思っていた。ただ、それは非常に漠然としたものであって、抽象的なイメージでしかなかったわけです。

 ですが、街頭で行われているヘイトデモ、差別デモの取材を続けていくと、明らかに右翼とわかる人の参加が目立つようになってきた。それだけではなく、街頭デモに参加しているネトウヨや、「行動する保守」といった差別排外主義者のなかから、右翼に出入りするような人間も見えてきた。本当の右翼はネトウヨとは違うと言っている人々が、差別排外主義者を受け入れ、行動を共にしている。あるいは街宣右翼がケツ持ちとして、差別主義者のデモに参加している光景が、ここ数年増えてきた。つまり、右翼と差別排外主義者との差異や境目がなく、相互乗り入れしている。

 私はそんな光景を見て、「本当の右翼はいるんですか?」という問いを投げかけてみたい衝動に駆られました。それが本書執筆の経緯です。右翼を歴史的に位置づけるというペダンティックな動機から書き始めたわけではありませんでした。本当の右翼はどこにいるのか、何を考えているのかを知りたかったのです。

 実際、本当の右翼を自称している人々の街頭宣伝や演説を聞いてみると、非常に差別的なもの言いが多い。ネトウヨと右翼との違いも見ることができなかった。では、そもそも右翼は何かの役に立っているのか。右翼は社会のなかで美しいものを作り上げているのかどうか。自分のなかでそう問いかけながら、右翼の歴史を調べてみようと思い立ったのが、初発の動機です。

 ――血盟団事件にせよ、「昭和維新」を掲げた青年将校たちの二・二六事件にせよ、戦前の右翼には飢餓や窮乏下で苦しむ民衆を憂えて、「君側の奸」たる政界や財界を攻撃したという、彼らなりの大義があったわけですね。

 安田 年配の方から話を聞いたり、資料を調べるなかでわかったのは、彼ら彼女らが敵としたのは国家権力と財閥だったということです。そこで国家権力という言い方に若干躊躇するのは、あくまでも彼らは国体という言葉を使い、天皇を中心とする国家観を抱えた上での変革を望んでいた。ただし根底にあるのは、貧困に対する怒り、格差に対する憤りでした。それが彼らの運動のモチベーションの一つだったことは間違いない。そこでは、右翼的な言葉といわれるかもしれないけれども、情と涙が彼らの行動を動かしていたと思います。

 それはマルクス主義に参集して社会変革を望んだ人と大差がない。むしろ『資本論』や『国家と革命』といった教科書や経典がないだけに、本能的な情と涙、貧困や格差への怒りがあったのではないか。その意味では、すごく人間的だという気がします。イデオロギーから入っていくよりも、女性が身売りされるような社会に怒り、工業化のなかで農村が疲弊していくのを見るに忍びなかった人々、財閥だけが富んでいく社会に危機感と憤りを感じた人々のモチベーションは、運動や活動の文脈のなかではとても正しいものだったと思うんですね。

 私とは天皇観が全く違いますから、一度たりとも右翼を肯定したことはないし、当時の右翼であっても丸ごと肯定などできません。けれども彼らの憤りはわかるし、情と涙が運動を支え、古典的な右翼の形を作っていったことは間違いない。井上日召には非常に宗教的なものが絡んでいるけれども、たとえばこの本で書いた小沼正のような現場で動いた人間は、貧しい人々を見てきたし、貧しい格好をしているだけで排除の対象となるような社会への怒りは正しかったと思います。右翼と称する人々がそれを活動のマグマとして抱えていたのは、非常によくわかります。

 私は貧困問題も取材していますが、生活保護バッシング、貧困を訴える若い人たちに対するバッシング、それから貧困を馬鹿にして冷笑するような、自分も貧困層にいながらシニックにものを考える状況がたまらなく嫌です。けれども、貧困バッシングや生活保護バッシングの現象を見ていると、バッシングをする側の主体は右派的、保守的な人々です。

 これは戦前の右翼と比べて、隔世の観があります。いまの右翼が日本人というもの言いをするのであれば、この日本社会で多くの人が貧困や格差に苦しんでいるのに、なぜ情も涙も見せないのか。そんな保守派なんて本当にくだらないし、それでいて国体を語るなんて、もう笑ってしまいます。

 ――そんな保守派が沖縄ヘイトを振りまき、反基地運動へのバッシングを続けているというのが、いまの右翼の特徴ですね。

 安田 竹島や尖閣諸島など、人も住んでいない島に漁船が近づいただけで大騒ぎし、明日にでも戦争を仕掛けるぐらいの勢いを見せる人が、人が住んでいる島に外国の軍隊のために新しい基地が造られようとしていることに、なぜ一片の涙も情も寄せることができないのか。本当にだらしなさすぎます。右翼や保守の看板を塗り替えるか、下ろすかどちらかにしてほしい。先祖を敬い、先人に崇敬の念を抱くのが右翼だとするならば、君たちの先人である右翼の方に対して本当に失礼にあたらないのか、と皮肉も言いたくなります。右翼の本を書きながら言うのも何ですけれど、右翼に対して私は本当に怒っている。

 昨今話題になっていますが、台湾の慰安婦像に日本人が蹴りを入れた動画が出回りました。いまの右翼のメンタリティからすれば、蹴りを入れたいのでしょうが、私が怒っているのはそこではなく、蹴りを入れた当人が、あれはストレッチをしていただけだという言い方をしたことです。

 それを聞いた時に、いまの右派や保守派は卑怯な人としか言いようがないと思いました。どんな人々かと訊かれたら、卑怯な人々です、言い訳ばかりして逃げ回る人です、という説明しかしようがない。

 だから、「本当の右翼はどこにいるんですか?」という問いに対して、私がこの本を書いて得た結論は、ほとんどどこにも見ることはできません、ということ。あるいは、本当の右翼はいないという言い方をするべきなのかもしれません。

 なぜなら、右翼の圧倒的多数派が卑怯な人々である以上、本当の右翼とは卑怯な人々のことです、としか言いようがないからです。沖縄の米軍新基地建設やヘイトスピーチに反対する右翼がいることも知っていますが、この人々は本当の右翼ではなく、ただの異端者です。メインストリームにある右翼は、ストレッチをしていましたと言い訳をすることしかできない卑怯な人々の集団と答えざるを得ない。

 この本は、ある種の郷愁に基づいて昔の右翼をえがいたわけではないけれども、貧困に涙し、格差に憤りを感じ、民衆のための国体を作ろうとした者は、本当の右翼ではなく昔の右翼でした、ということになってしまう。言い方を変えれば、二・二六事件以降、国家権力に完全に取り込まれ、その補完勢力として連綿と生き続けてきたのが本当の右翼だった、ということかもしれません。

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誰もがもつ「ヘイト」という感情にあらがうために

――「単純化」の応酬に陥らないように、近現代史で多くの悲劇を生み出した三つのヘイトを並べる
評者:柳原伸洋

 ■黒と白の文字が紫の表紙の上に踊る。表紙をめくれば見返しの色はショッキング・ピンク。さらに表紙を外せば、ここにも「仕かけ」が施されている。人目を引くブックデザインだ。この装丁はデザイナーである著者によるものだとのこと。このデザインもまた、本書の内容と不可分の表現形式であり、重要なメッセージのひとつだと捉えるべきだろう。

 私は、このメッセージを大切にしたかった。そこで電車のなかではブックカバーなどせずに、この表紙を衆目の前に晒しながら本書を読みふけった。これは、「公衆」に対して本書のもつアピールの力を活かすためだ。つまり、差別的なヘイトスピーチを容認してしまう日本社会にノーを突きつける私なりのパフォーマンスである。ともに「行動」してくれた本書には感謝を述べたい。

 まだ、本書のデザインにこだわりたい。表紙に記された書名・著者名の背景には、ポーランド語とドイツ語の文章が写っている。これは、一九四三年四月のワルシャワ・ゲットー蜂起に際して、この鎮圧の任に当たったナチ親衛隊のユルゲン・シュトロープの布告文である。ワルシャワ・ゲットーは、ヘイトという差別が生死を左右する空間として具現化した場だ。同時に、ユダヤの人びとを特定の場に押し込めて「区別」することで、差別を不可視化する分断空間だった。そして、この排除の思想はナチの絶滅収容所へとつながっていく。

 では、本書の中身を見てみよう。本書は、黒人・黄色人種・ユダヤ人に対する三つのヘイトを主に扱っている。著者の前著『RED』(左右社)と同様に多数の図版がちりばめられ、ヘイトの「醜さ」が直感的に目に入ってくる。本書の意義は、近現代史で多くの悲劇を生み出した三つのヘイトを並べている点だろう。たとえば、黄色人種に対して向けられたヘイトである「黄禍論」の表象は、自然と私の心を乱してしまう。だが、これが黒人差別やユダヤ差別と並べられることで、「黄色人種」である私自身に向けられた(と感じてしまう)差別を相対化し、自分の問題だけにとどまらないことを知る契機となっている。

 また、『RED』でも触れられていたが、やはり著者の専門分野であるデザインを分析した部分はひときわ興味深い。とくに文字のフォントに着目した「恐怖を伝える書体」そして「書体を貶める」という節は出色である。ユダヤ差別とヘブライ体とが結びつくことで、ヘイトは文字デザインにさえも現れてくる。差別とデザインとの共犯性は、現代社会において十分に考察されるべき対象だろう。日頃、目にしているものの差別性はジェンダー研究で多く指摘されるが、ヘイトに関しても考察する時期に来ていると思われる。

 ここで再び表紙を見なおしてみよう。表紙の左上には白字で「真実の敵は憎悪である。」と書かれている。これは本書の副題でもある。実はここに、本書の「問題点」がある。本書は、「ヘイト(憎しみ)」という情動を扱っているが、感情を考えるための難しさも胚胎している。つまり、「ヘイト」を「ヘイトする(憎む)」ことの難しさだ。

 本書の図版を観察すれば分かるように、ヘイトの表現はきわめて分かりやすい単純化をともなう。しかし、本書もまたステレオタイプ(単純化)を利用して、ヘイトを難じる部分がある。たとえば、「中世の魔女狩り」という記述(一六八頁)は、前近代的な野蛮さを強調して読者に分かりやすく伝えるために用いられているのだろう。ただし、実際の魔女狩りの盛期は近世である。また、本書の一五〇頁では、日本兵の残虐性について橋川文三の著作が引用されている。これによると狩猟民とは違って、血を見慣れていない農耕民の日本兵は戦場で血を見ると逆上する。これがヨーロッパ人には残虐に映るらしい。しかし、この文明論を用いた「単純化」は、人種・民族への憎悪と結びつくステレオタイプと表裏一体ではないか。

 ヘイトに対して「ヘイト」しようとすれば、「分かりやすさ」に棹ささねばならないのかもしれない。私のような研究者は、学者の矜持として「分かりやすさ」を避けて、ヘイトを「分析」しようとするだろう。先ほど私が「学者然」として魔女狩りの時期を指摘したように、だ。だが現在の状況を知る私たちは、このような冷めた指摘だけでは「真実の敵」とは戦えないと気づいている。この意味でも、「憎悪」に取り組んだ本書の意義は高く評価されるべきである。

 本書が「単純化」の応酬に陥らないように、本書が憎悪を三つに分けて記述していたように、その差異を認識しながら、しかし自身の問題として引き受けながら、ヘイトに向き合うということ。これは極めて厄介だ。自分の心の暗部を晒されるような不安も襲ってくる。

 憎悪なくして人は生きられない。もちろん、強弱はあるだろう。ただならぬ憎しみから、ちょっと嫌だという気持ちまで。本書の示すヘイト・プロパガンダの図像は、これらを繰り返し見せられることで、むしろ「ソフト」なマイナスの感情に効いてくる。つまり、「ちょっと嫌」を正当化し、後押ししてくれる表現、これがヘイト表現であり、ヘイトスピーチである。

 「ヘイトに対するヘイト(嫌悪)」という毒を喰らいつつ、長期的には誰も幸せにしないヘイトに決然と反対する。そのための方法(情理)を、われわれは獲得せねばならない。

 (東京女子大・ドイツ近現代史)

七人が世界を救う

――民衆の知恵と笑いがたっぷりつまったロシアのむかしばなし
評者:寺村摩耶子

 ■七人はこころづよい。昔話において、七人兄弟は危機に直面することがあっても、最後には必ず救われるという安心感がある。ロシアの昔話絵本『七人のシメオン』もそんな聖なる七人の物語だ。顔も背丈もそっくりで、名前もおなじ「シメオン」。彼らがにこにこしているのは、もうそれだけで祝福されてある感じ。だがこの七人がすごいのは、それぞれに「わざ」をもっていること。その「わざ」とは。(上から順に)天までとどく柱をたてることができる。その柱にのぼって世界をみわたすことができる。船のり。弓の名人。五番目の「夜空の星をひとつのこらずかぞえられる」というのもいいなあ(どんな役に立つのかわからないけれど)。六番目の「農夫」も重要だろう。などと思いつつ、物語の予感にわくわくする。さて、末っ子のシメオンは? 王様の問いに、彼は涼しい顔をして答える。「わたしはうたっておどり、笛をふくのがとくいです」。さっそく役立たずのレッテルを張られた彼は、追放の身となるのだが。しかし、もちろんその「笛」はただの笛ではなかった。そして一番ちっぽけで無力に思われた者が、じつはここぞというときにもっとも強い力を発揮するのも昔話の常である。このあと王様の命令で遠い海の向こうの島から美しい姫を連れてくることになった七人は、幾多の困難に直面しながらも、力をあわせてみごと困難を乗りきるのだ。

 見ること。行動すること。あるいは待つこと。六人の「わざ」はなるほどそれぞれに重要なものだろう。昔話ではこういうとき「大食らい」とか「大酒のみ」といったナンセンスな人々が登場することもあるが、その点このロシア昔話は質実剛健である。と思いきや、最後にとんでもない強者が待ちうけていた。「ピーピロリー ピーポッポー」。とにかく最初から最後まで楽しげな笛の音色がなりひびいている。彼が笛を吹きはじめるや、誰もかれも踊りださずにはいられない。楽しくもおそるべき笛の音。じっさいそれは悪玉を踊り死にさせるおそろしい音色でもある。また、かたくななエレーナ姫の心を溶かす愛の笛でもある。こわばったものやねじれたもの。さまざまな境界をも溶解させてしまう魔法の笛。「ロシアのおどりの曲」。私はその曲を幸か不幸か未だ耳にしたことはないが、青々とした草原のなかで王様やけらいたちが牛や馬やオンドリとともに足を踏みならし、いっせいに踊る場面を見るだけで可笑しく、涙と笑いが同時に出そうになる。

 大地の底からわきおこってくるような物語。民衆の知恵がたっぷりつまった昔話絵本。それが楽しいのは、あかるくも不思議な魅力をもつ絵がまさに笛の音色のように心にひびいてくるからだろう。おおらかなナイーヴアートのような絵。白とブルーの民族衣装を身にまとう妖精のようなシメオンたち。彼らのなんともとぼけたような表情やしぐさを見ているだけで、ほのぼのとしてリラックスした気分につつまれる。デビュー作『貝のなる木』以来、古層としてのメルヒェンを紡ぎだしてきた画家は、ここでも不思議かつリアルな物語をのびのびと演奏しているようだ。ちなみに『貝のなる木』は嵐の夜に荒ぶるものたちが主人公の少年の優しいチェロの音色にうっとりとして聴きほれるうちに、いつのまにか大地が鎮まるという美しい絵本。ときおりレコードを聴くようにして開いてきたが、『七人のシメオン』もそんな一枚、いや一冊になりそうである。

 予想もしないことが次々に起こる物語。だが昔話の主人公たちはけっして絶望することもなければ、歩みをとめることもない。そして旅から帰ってきたとき、いつも少しだけ大人になっているのだ。もちろん「七人のシメオン」もまた。昔話絵本から教わることはあまりにも多い。

 (エッセイスト・絵本研究者)