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紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

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「図書新聞」の紙面で紹介した書評や、対談記事をご紹介します。【週1回更新】
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 ◆ 3375号(11月10日発売号掲載)

差別と闘う新しい言葉を

――コレクト・クリティークの復権へ向けて
対談:荒井裕樹×岡和田晃

 ■このたび、文芸評論家・ゲームデザイナーの岡和田晃氏が『反ヘイト・反新自由主義の批評精神――いま読まれるべき〈文学〉とは何か』を北海道の出版社・寿郎社から上梓した。本書は北海道文学・アイヌ文化論から大江健三郎、向井豊昭、津島佑子、樺山三英、小山田浩子らの作家・作品論まで収めた、多岐にわたる文芸評論集となっている。現代において批評とは、そして「いま読まれるべき〈文学〉とは何か」……本書をめぐって、著者の岡和田晃氏と障害者文化論を専門とする日本近現代文学研究者である荒井裕樹氏に対談いただいた。(対談日・九月二一日、二松學舎大学にて〈村田優・本紙編集〉)

 ■現代において「文学に何ができるのか」

 岡和田 私は「図書新聞」に掲載された荒井さんのインタビュー(二〇一七年三月二五日号=三二九六号)が強く印象に残っていて、そこで取り上げられていた『差別されてる自覚はあるか――横田弘と青い芝の会「行動綱領」』(現代書館)も面白く拝読しておりましたので、このたびお目にかかれて大変うれしく思います。なぜ面白かったのかというと、学術的な水準を保ったまま一般読者にも伝わるように書かれているだけでなく、横田弘さんの思想を紹介するにあたって本人と直接やりとりしながらも、横田さんの初期の詩篇テクストにまで当たることで運動史を記述する上での粗雑さを回避していたからです。私としてはその文芸批評的な繊細さに大変共鳴しました。

 また、荒井さんは現代文学を中心とした文学教育にも力を入れていて、たとえば星野智幸さんらを大学に招くなど、意識的にアンテナを張っています。私自身、今の「批評」にうんざりしているところがあって、本書の冒頭でもそのことを厳しく書きました。私は「図書新聞」で二〇一五年三月から文芸時評を担当していて、主要の純文学系文芸誌だけでなく、リトルマガジンからSF・幻想文学などのジャンルフィクション系の雑誌まで満遍なく取り上げています。ただ、その仕事を通じて、現代文学や「文壇」というものが亡霊のように存在している「制度」に過ぎず、それが今現在も特権的なものとして機能していると改めて感じました。文芸時評自体、いわゆる純文学五誌である『文學界』『群像』『新潮』『すばる』『文藝』を中心に取り上げなくてはならないという暗黙の縛りがありますが、そもそもなぜそうなのか。その制度が担保しているものは何か、常々疑問に感じているのです。現在、「〈世界内戦〉下の文芸時評」というタイトルで――〈世界内戦〉とはもちろんカール・シュミットの言葉ですね――私は社会における諸問題を見据えながら、日常と例外状況の境目がなくなった現代において「文学に何ができるのか」を一つの重要な主題として時評に取り組んでいます。そして、現在ではヘイトスピーチや差別が極めて苛烈に問題になっているにもかかわらず、現代文学や「文壇」では冷笑主義的というか、傍観者的な態度が非常に広く流通していて、それどころかその流れを追認する状況にあります。

 文芸時評にもいろいろやり方があると思いますが、私の場合は文学作品だけでなく批評についても多く紙面を割いて触れています。ただ、大抵の文芸時評では批評を取り上げることはありません。つまり、「弱いジャンル」になっているんですね。実際、批評で扱っているテクストを読んでいないとそれが妥当なものであるか判断がつかないため、なかにはかなりデタラメで低品質なテクストでも掲載されている。そもそも、批評は現在では商業性に寄与しないジャンルとなっていて単体で出版されることさえほとんどありません。私はそうした「批評」の状況を悲観的に考えていて、ただ批評家同士で馴れ合って褒めたり共感したりしても仕方ないんじゃないかと思っています。だから、障害者文化論を専門としながら、現代文学についても幅広く言及している荒井さんのような方に私の著書をどう読んでもらえるのか、非常に興味がありました。

 荒井 実は久々に「批評」というジャンルの本を読みました。学会などでも学者と批評家が交わる機会はあまりなく、私自身、「意識的に批評を読む」ということをしてきませんでした。というのも、私が大学・大学院時代に活躍していた当時の批評家たちの言葉が、私たちが生きているこの生活空間の延長線上、地続きのところにあるものとはどうしても思えず、魅力を感じなかったからです。何かまったく異なる世界のことを言っているような気がして、私たちが生きている世界の感覚と結びつかないもどかしさみたいなものがあった。これは私の偏見かもしれませんが、それらは高度な知的遊戯、あるいは趣味の世界を語っているように感じていました。私はどうしても自分たちの生きている世界と地続きになっている言葉、そしてその結晶としての文学に惹かれます。これは学生のころから今まで変わっていないスタンスです。しかし、本書の「はじめに」から読んでいくと、岡和田さんの「批評」や現代社会に対する怒りがその文章から見て取れました。この怒りは何なのだろうか、と正直思いましたが、そうした感情は、今私がこの世界に対して感じている苛つきと、地続きのものだと感じました。

 私は取材やインタビューなどで、好きな文学は何ですか、とよく聞かれるのですが、「よい文学」という基準なり概念なりが、作品よりも前に言葉として明文化されることには抵抗があります。ただ、強いて言おうとすれば、この世界の「画素数」や「解像度」を上げてくれるような小説が好きですね。だから星野智幸さんや柴崎友香さんの小説を好んで読むのですが、たとえば星野さんの『呪文』も、狂信的なナショナリズムに陥っていく人の「心の襞」を、フィクションのなかで描いている。そういう作品を私は評価したい。ただ、最近ではジャーナリズムや社会学の後追いみたいな小説も出てきて、個人的には「面白くないな」と思います。具体的に言えば、被災地やLGBT、エスニックマイノリティや障害者、あるいは介護や貧困や虐待などの社会問題を安直に題材としているものです。これまでは「社会のなかに言葉が出回らなかった人たち」の発言が、最近ではネットなどを通じてかなり広がってきたし、そうした声を丹念に拾う社会学やジャーナリズムも出てきました。そのため、私たちも当事者たちの言葉に触れる機会が増えるようになりましたが、小説のなかで彼らの言葉を後追いするようなものをちらほら見かけるようになり、どうしても面白いとは思えない。たとえば最近で言うと……。

 岡和田 北条裕子の『美しい顔』のことですか(笑)。

 荒井 ええ、まあ、そうです。あの作品は文学がジャーナリズムの後追いをしてしまった典型的な事例かもしれません。さっきの「画素数」のたとえで言うと、世界が細やかになったようには感じられないんです。画素数や解像度を上げる小説というのは、我々が見ているけれども見えていないもの、あるいは視界に入っているけれどもしっかりと見えていないものを気づかせる文学のことですから。

 岡和田 文芸誌の新人賞の受賞作品は端的に言って面白いことが多いんですよ。というのも、その小説群は既存の「文学」のカラーに染まっていないからです。しかし、新人賞受賞後には編集者の指導などを受けて彼らもある種の「文学」の型に嵌まってしまい、多くの場合、その型から「文学」をつくり出している。簡単に言えば、「こうすれば芥川賞をとれる」という型に従って書いてしまうんです。そもそも現代の文学状況においては、ある種の様式を洗練させた作品しか認められないので、どうしても「文学」に適応していくようになり、それで世間的な評価こそは上がりますが、批評性は減じていきます。たとえば、この前、芥川賞を受賞した高橋弘希の新潮新人賞受賞作『指の骨』は面白いのですが、それ以降の作品は自分から遠い現実を異化するような冒険をやめて守りに入ってしまい、どんどん日常そのものにまでズレこんでしまった。高橋の二作目の小説『朝顔の日』は結核療養所の話ですが、この小説と療養所の実態を比べて読むと、あまりにも書き方がレトロスペクトに感じます。当時の療養所は『朝顔の日』で描かれるよりも、ずっと現代的。少なくとも、小説のようにただ判で押したような話ではない。

 北条裕子の『美しい顔』についてはすでに文芸時評で取り上げましたのでここではあまり触れたくないのですが(笑)、群像新人文学賞の選考委員は全員絶賛していましたが、私は一読後の違和感をどうしても拭えなくて、ある種の感動ポルノだと感じましたし、何より既視感がありました。その時点で“パクリ”だと判断したわけではありませんが、私自身震災後にいろいろと資料を読んでいたことがあったので、これはどことなく不穏な感じがして信用できなかった。個人的にはジャーナリズムをある程度小説の下敷きにしてもいいと思っていますが、現在は震災から七年も経っているのだから、ジャーナリズムを下書きにするなら書き手側の視点と実際の事件の距離そのものを描かないといけないんじゃないか、と時評で書きました。なぜ距離そのものを作家は批評的に取り上げることができないのか……つまり、この小説で「震災」がお涙頂戴のジャンルの一つになってしまった、というわけですね。

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絶えず望むことは〈更新されること〉

――すばらしく速く物語は(思考も)転がる
評者:大和志保

 ■バスタブは思考の母である、という諺がナポリにあるのかどうかは知らないが、イタリアのバスタブとくれば公衆浴場に華ひらく「対話」文化が想起されるだろう。しかし「いま、ここ」にあるバスタブは、孤独な思索の場として――独り宴の――まずは設定される。その母なるバスタブが産み出す思考の泡、神経単位のざわめきからこの「対話篇」は始まる。

 「チャオ、元気かい?」「俺は元気だ、君は?」「昨夜、ジェシカに会ったよ!」「彼女はどうだった?」「ああ、とても素敵だった。出会ったとき百万長者の気分になり、神や世界のことを談笑したんだ。(中略)昨夜、《彼》が眠ろうとしていたときに、俺たちは彼女のことを長く考えていた。彼女が母なる自然が創ったままのヌードなのを想像していたんだ」。……浴槽に浸かって思索に耽る《彼》の内部で神経単位(?)がノイロン語(!)で交わしあう珍妙な会話に、読者たるこちらとしては、コレは自称ユーモリストの大真面目を装ったジョークとして脳内で処理されるべきなのか、単なるトンチキ会話として読んでよいものかおおいに戸惑うわけなのだが――。

 そんな思考を真夜中のバスタブで放牧する《彼》すなわちベッラヴィスタ氏は定年を迎えた哲学教授であり、近所の高校生三人――秀才ジャコモ、サッカー狂のペッピーノ、さらには氏のノイロンをも魅惑する(?)女生徒ジェシカ――相手に放課後の私塾を開いている。彼の哲学講義につれて、ベッラヴィスタ氏の「生活と意見」さらには被る受難――ここは「受難」と書いてしまおう――が短い章立て(二百頁に二十八章、テンポ・アレグロである!)で展開する。ニーチェ、ベルクソン、ベンサム、フロイト、ポパー、と講義の時系列に沿って(いわゆる「生の哲学」の流れだろうか)、ベッラヴィスタ氏の内なる肉欲と金銭と懐疑と功利が絡み合い、すばらしく速く物語は(思考も)転がるので、逐次的に読み進めるしかない訳だが、訳者によれば今作は著者クレシェンツォのベッラヴィスタ氏の言行を記録した「《プラトン的》対話篇」の最終部であるそうなので、これは彼の――すなわち自身の人生への解答篇でもある。本書の帯には、先行作である『ベッラヴィスタ氏ユーモア名語録』から、次のような(本書を知らずこの帯文を読むだけではいささか意味の取りにくい)文が掲載されている。「ユーモア作家の遺作は垂涎の的になる。…そういう訳なので、私の性行為に夢中になったと告白している、偽の恋人からの手紙を、私は家中にまき散らした。遅かれ早かれ、誰かがそれを出版するだろう。ひょっとして、私は今から前払い金を要求してもよいのではあるまいか?」――訳者によれば、「ウンベルト・エコ流に自作どうしの《間テクスト性》を常に保持していることに驚かされる」ということだそうだが(それはまた少々大仰だと私は思うが)、つまりは「偽の恋人」ならぬ本物の恋人を得る挿話(あるいは受難の挿話)をもって最終篇におけるアンサーとしているのである。さらに、最終章ではプラトン「対話篇」に回収されるような回帰的(?)オチがあり、これが(もしかしたら)ナポリ風ユーモア、なのかもしれない。「《小説》を謳ってはいても、その実は哲学物語の様相を呈している」とは訳者の解説だが、四方山話に載せて哲学言説をやさしく語り直す「読みもの」として書かれたものなのだろう。

 ベッラヴィスタの名が「美しい眺め」の意を含むように、彼が望むのは移動祝祭日の生だ。この物語において、彼が絶えず望むことは〈更新されること〉なのだと私は読んだ。エピグラフに引かれている一文が、すべてを語る。「人生とは私たちが何か他のことを話しているうちに過ぎ去る一切なのだ(オスカー・ワイルド)」。巻末に余禄として収められているジョバンニ・ピアッザによれば、著者は「親族すらも一目では判別できない」相貌失認を患っているのだという。ならば、彼に降りかかる一切、過ぎゆく一切は彼にとって生の手触り、自分を擦ってゆくものの痕跡とその祝祭に他ならないだろう。それがナポリ界隈の小さな世界のどたばたであったとしても。

 一点、この翻訳の文体において古めかしくも奇妙な間接話法がそのスタイルを領している点、この哲学的四方山話が徹底して男性視点のオールド・スタイルを採っているにしても、少なからず違和感を覚えたことを表明したい。ティーン・エイジャーが「ねえあんた、あれをしたげてもよくってよ」風の喋りをするだろうか。レトロスペクティブ、と言えば言えるが、生の風景を更新してゆくアチチュードではない、と思う。

 いずれにせよ、クレシェンツォは中有の達人である(そこにはダンテが書くところの黒い天使たちが集っているのだろう)という見解には同意したい。

 (歌人)

生き生きとした文章をどう書けばいいのか

――書くという行為が、思考の加速スイッチをオンにしてくれる
評者:須藤靖貴

 ■読み手の心にとどくエッセイとはどういうものか。

 生き生きとした文章をどう書けばいいのか。秘訣はあるのか。

 著者(重里徹也、助川幸逸郎)が、それらの問いに明解に答えてくれる。「文章を書く前の準備」、「知っていると差がつく文章表現」、「文章を書くときに知っておきたいこと」、「文章を書いたあとにやるべきこと」と章をざっくりと四つに分け、さらに細かく具体的に奥義を説く。初心者にはもちろん、文章を書きなれた中級者にも役立ち、上級者の膝をも連打させるような好著である。

    ○

 「エッセイの書き方」、「文章読本」的な類書は山ほどある。職業柄その概ねに目を通したが、失望することも少なくない。文体がエラそうで、「生き生きとした文章を書く奥義」を伝える文章が、それほど生き生きとしていないのである。

 そりゃ川端や三島や谷崎や丸谷才一の説く文章指南が格調高くてエラそうなのは仕方のないことなのだろうが(井上ひさしの『私家版・文章読本』は例外的にとても面白かった)、エッセイストによるものもあまり感心できなかった。

 その点、本書は著者が読者の前にしゃがみこみ、目を見ながら笑顔で語りかけるような柔らかさがある。ともに女子大で教鞭をとっているからだろうか、叙述が親切で明解。そういう文章こそが、わたしたちの心にしみ込む。

 何のために文章を書くのか。一つは他人に文意を伝えるため。もう一つは、自分自身で自分の思考や感情を知るため。

 著者の一人、重里氏は「この二つを同時にできることが、文章を書く醍醐味」と説く。経験上、「この件、よくわからないままにペンを取ったけれど、キーを叩いているうちに考えがまとまってきた」ということは多い。書くという行為が、思考の加速スイッチをオンにしてくれるのだろう。

 さらに胸が空くのが「名文家=頭脳明晰」という故なき常識を鮮やかにひっくり返してくれているところ。

 「頭の良さなんて、文章を書くという場所では、全然、たいしたことではありません。(中略)頭の良さは、よく切れるカミソリのようなものです。鋭いけれど、ちょっと硬いものにぶつかると、すぐに刃が欠ける(後略)」。

 出来の芳しくないわたしなどはおおいに溜飲が下がり、「愚直に鈍刀を使えばいいんだ」と何度も大腿部を叩いた。

 具体的指南で瞠目したのが「何とか書きはじめるための二つの方法」。車が動きだすときに大きなエネルギーを使うのと同様、書き始めが一番ツラい。プロでもそうである。自分の頭や心にはモヤモヤとした「何か」がある。しかしそれをうまく文章にできない(これを「白紙の恐怖」と呼ぶらしい)。

 書き出しという難所をどう切り抜けるか。一つは「自分が日頃から考えていることを披露する」。

 「教養の大切さを説く声をよく聞くが、それでは一体、教養とは何なのか。一つの答えをとりあえずいえば、歴史を知ることではないか」(重里氏)。重里氏は学生時代から「歴史を知ることこそ教養」と肝に命じていた。それを文章の初めに持ってきて、エッセイにエンジンをかけたのである。

 もう一つは「自分の切札を使う」。

 重里氏は国民的作家・司馬遼太郎の研究者。大学の後輩でもあって親交も深かった。だから、「ハッタリでもいいから、司馬さんの話題に持っていけば、なんとかなる」と胸を張れる。羨ましい切札だ。

 さらに、共著者が互いの文意に言及するところが秀逸。たとえば、前述の「書いているうちに思いつくこともある」(重里氏)という点に、もう一人の著者の助川氏は「いちばん書きたい話題を決めておこう」としていて、しかしそれらは決して矛盾しないと説く。鮮やかな相対化である。

 良い文章の要諦は自己相対化に尽きる。自分の文章がどう読まれるのかを考えてこそ、そんな自明ながらも忘れがちなことも、本書はじんわりと教えてくれるのである。

 (小説家)