e-hon TOPへ戻る

紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

1949年創刊。硬派な人文書からホットなサブカルチャーまで紹介する週刊の書評新聞「図書新聞」とe-honのコラボ企画!

「図書新聞」の紙面で紹介した書評や、対談記事をご紹介します。【週1回更新】
取り上げる本や評者を厳選し、確かな見識で深く掘り下げた書評は「読み応えアリ」です!
「図書新聞」定期購読はこちら

 ◆ 3379号(12月8日発売号掲載)

新世紀ドゥルーズ論

――絶望とともに生きて死ぬドゥルーズの哲学
対談:小倉拓也×福尾匠

 ■小倉拓也著『カオスに抗する闘い――ドゥルーズ・精神分析・現象学』(人文書院)と、福尾匠著『眼がスクリーンになるとき――ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』(フィルムアート社)というドゥルーズ関連書が、同時期に出版された。さる10月6日、グランフロント大阪北館にて、この二著の著者によるトークイベントが開催された。本稿はその採録である。(須藤巧・本紙編集)

 ■ドゥルーズの一貫性を読み解く――『カオスに抗する闘い』

 福尾 『カオスに抗する闘い――ドゥルーズ・精神分析・現象学』、こんなにクリアカットなドゥルーズ論は珍しいと思います。山森裕毅さんの『ジル・ドゥルーズの哲学』(人文書院)では、『差異と反復』(一九六八年)までの前期ドゥルーズの道筋がすごくクリアに示されていて、「ドゥルーズってこんなにちゃんと読むことができる哲学者なんだ」と当時学部生だった僕は初めて実感しましたが、それと似たような印象を受けます。本書が際立っている一つの点は、いわゆる「大哲学者」の名前があまり出てこないところだと思います。例えば僕の本ではベルクソンにフォーカスしていますし、ヒューム、スピノザ、ニーチェといった「大哲学者」とドゥルーズとの対決なり交流なりが前景化しているドゥルーズ論がこれまで多かったと思いますが、本書は、精神分析と現象学に焦点を当てながらドゥルーズの一貫性を読み解いていきます。

 小倉 スピノザ、ニーチェ、ベルクソンといった名前は、ドゥルーズ研究をするときに必ず参照しなければならないとされるものですが、僕はそうした「大哲学者」のテクストを読むのが好きではありませんでした。例えば、「歓びの哲学」などと形容されるスピノザの『エチカ』を読むと、辛くて悲しくて仕方がない。本書第四章でドゥルーズの他者論を扱っていますが、これの原型は僕の学部の卒論です。卒論のときは精神分析が理論的に重要であるという自覚はありませんでしたが、その後大学院に進学し、より学術的な文章を書くようになって、一九六〇年代後半のドゥルーズにとって精神分析が避けては通れないということが分かってきました。

 福尾 本書のもとになった小倉さんの博士論文のサブタイトルには、「人間学」という文言が入っていました。人間学としてドゥルーズを読むときに精神分析と現象学を扱うのは、戦略的にどういう意図があったのですか?

 小倉 「人間学」はかなりこだわりをもってつけたタイトルでした。博士課程のある時点で、生まれて、生きて、死んでいくことについて考え始めたのです。スピノザ、ニーチェ、ベルクソンは「非人間主義」といわれる哲学者です。ドゥルーズの光に照らしてみる場合にはとくにそのように形容されます。人間にとってあらわれてくる世界ではなく、人間を前提とせずに、大文字の〈自然〉や〈生命〉を思考しようというのが、ドゥルーズの哲学の本流だったと思います。ところが僕は、生きて、死んでいく、その間に全部忘れていく、しかもそれが決して元に戻らないということに震撼した。そのことに、スピノザやベルクソンはあまり答えてくれないけれど、ドゥルーズにはたしかにそれに答えようとしているところがあります。そこにどういう思想家、哲学者たちが構成的に関与しているのかを見ていくときに、ドゥルーズのなかの否定的なものの系譜のようなものがあって、それはやはり精神分析と現象学だろうと思ったのです。

 福尾 そこに「カオスに抗する闘い」というものが主題化してくる根拠があるのですね。それ自体がこれまでのドゥルーズ理解を転覆させる試みだったと思いますが、卑俗な言い方をすれば、ドゥルーズはカオスを礼賛した哲学者で、生それ自体、自然それ自体のカオティックな流れのなかに身を投げ出すことを肯定する。しかし、それと対立するような系譜を描き出しているのが本書だと思います。本書でさしあたりフォーカスされているのは『哲学とは何か』(一九九一年)ですが、それにとどまらず、一九四〇年代のドゥルーズのテクストから彼が自殺する九〇年代のテクストまで、一貫してそのようなものが底流としてあったことを本書は示しています。いままでのドゥルーズ研究でも、四〇年代のテクストまで触れたものはほぼないと思います。初めての試みとさえ言っていいかもしれません。本当にドゥルーズの最初から最後まで、「カオスに抗する闘い」というテーマが流れ続けていた。

 小倉 一九四〇年代のテクストは、のちにドゥルーズ自身が、自分の論集(『無人島』、『狂人の二つの体制』)を出すときに収録しないとしていたものですが、それらを収録した『書簡とその他のテクスト』が二〇一五年に出版されました。それらのなかにのちのドゥルーズにおいて開花する個々のテーマがすでに含まれていると指摘する研究者は以前からいました。しかしそこから、彼の人生全体を貫く思考のモチーフのようなものが取り出せたのは、もしかしたら僕に何らかの透視能力のようなものが働いたのかもしれません。

 福尾 「カオスに抗する闘い」という言葉は、『哲学とは何か』に出てくるフレーズですが、この「カオス」はどういう意味でしょう?

 小倉 「カオスに抗する闘い」は原著にイタリック体の強調で出てくるキーワードですが、これまであまり論じられてきませんでした。この「カオス」は「誕生と消滅の無限速度」と定義されます。ものすごく簡単に言えば、「まばたきするたびに記憶喪失する」ような事態のことです。主観的な認識だけではなくて、私たちの身体の物質的な組成も含め、何であれあらゆる瞬間にリセットされてしまうような事態。どんな存在者であれ、バラバラにならないようにおのれを合成し、形作っているわけですが、その形の力のようなものが失われて、ほどける。私たちはふつう、例えば「1、2、3、4……」といったようにある種の連続性をもって生の時間を営んでいますが、それがその都度「1、1、1、1……」であり続けるような事態、これが、最晩年のドゥルーズが闘わなければいけない敵としてターゲットにしたカオスというものです。

 では、ドゥルーズはなぜそれを問題にし始めたのか。おそらくドゥルーズ自身の老いの問題と不可分です。『哲学とは何か』は、冒頭で、老いが到来する晩年にのみ提出することができる、そういう問題を扱っているという言い方をしています。「哲学とは何か」というタイトルゆえに、単にこれまでの思考を総括するという意味で晩年の書物だと宣言していると読めなくもないのですが、カオスをめぐるドゥルーズの記述には明らかに彼自身の不可逆の老い――ある種の認知症的なもの――が影響していて、彼はそれをすごく恐れている。これに対して、最小限の絆、まとまりを何とかしてつくり出さなければと彼は考えているのです。

 福尾 『哲学とは何か』では、「カオスに抗する闘い」を構成するものとして「哲学」と「芸術」と「科学」が出てきます。本書『カオスに抗する闘い』の終盤ではそのうち芸術がクローズアップされます。そこにはどのような理由があるのでしょうか?

 小倉 ドゥルーズは、哲学と科学と芸術を、カオスから出来しカオスを征服しようとする「カオスの三人の娘たち」だと言います。表向き、ドゥルーズはその三者に優劣はないとしていますが、どう読んでも哲学が一番偉いという話になっている。ドゥルーズは、哲学は「概念の創造」だと言います。あらゆる瞬間にあらわれては消え、直前と直後の連続性がないようなカオスを、概念は一挙に俯瞰することができる。これは芸術=感覚に対する、哲学=思考の特権性とも言えます。思考とはまさに非物体的な営みで、いま‐ここの感覚的なもの、可滅的なものに依存せず、抽象的なものをそれ自体として捉える能力です。ドゥルーズはこのような概念の創造を哲学によるカオスに抗する闘いとして定式化するわけです。

 ところが、本書では、哲学より芸術を重視する議論を構成しています。ドゥルーズが言うように、思考の力によって、哲学による概念の創造によって、カオスを一挙に俯瞰することができるかもしれない。けれども、私たちの身体、脳は、老いとともに崩壊していく。それに対して、哲学は何の抵抗力も持ちえません。私たちの脳が摩耗して、身体がほどけていったらそれで終わりです。しかし、ドゥルーズはどうやら、芸術がその点に対するひとつの救済になるかもしれないと考えている。芸術論は同時に感覚論です。のちに話題にする「救済」や「復活」の問題にも関わりますが、芸術=感覚は、哲学=思考にはできない仕方で、カオスとの最も接近した闘いのなかで自己および世界をギリギリとのところで合成し、保存する。晩年のドゥルーズは、いまや到来しつつある不可逆の老い――そして死――に立ち向かうことができる特権的な闘いとして芸術を見ていた。

 2ページ以降はこちら

わが「内なるトランプ」

――すべての抑圧の根源にある新自由主義システムの打破に向けて連帯するよう訴える
評者:三牧聖子

 ■いま、多くの人々が世界は誤った方向へ向かっていると感じている。しかし、危機の根源はなかなか見えない。大量消費主義の際限ない拡張過程を「ブランド」を鍵に解き明かした『ブランドなんか、いらない』、惨事につけこんだ過激な市場原理主義改革の実態を暴き出した『ショック・ドクトリン』など数々のベストセラーで、危機の根源にある新自由主義の問題にメスを入れてきたナオミ・クラインからまた痛快なパンチが繰り出された。今回の主題は、「トランプ」である。

 私たちの世界は、ドナルド・トランプによって混乱させられている。そもそもなぜトランプが権力を握ることができたのか。その鍵は、「ブランド」にある。トランプは、客観的な善や正しさには関心を持たない。脱税を単に「頭を使った」だけだと平然と正当化し、罰を免れたことを誇らしげに語る。なぜなら、自分がつくりあげたブランドに忠実で、首尾一貫していることこそが、その維持の秘訣だからである。セルフ・ブランディングの能力だけに長けたトランプの台頭は、中身よりもブランドを重視する現代世界の病理を見事に象徴している。

 しかしナオミは、トランプ政権に「ノー」を突きつけるだけでは、アメリカも世界も救われないと強調する。トランプを世界最大の権力者の地位まで引き上げた、この世界を変えなければ、第2、第3のトランプはいくらでも生まれうる。トランプ当選のはるか前から、特権階級にある人間たちは、労働者をこき使い、ゴミのように切り捨て、あらゆる生命を支える大地と水、空気を下水のように扱ってきた。この数十年、ブランドと大量消費主義の台頭とともに、コミュニティや人とのつながりは消失し、公的領域は劣化し続けてきた。このような背景がなければ、トランプが大統領になることなどありえなかった。世界を覆う「トランプ的なるもの」と戦い、トランプの台頭を後押ししたものから解放された世界を実現することこそが目標とされるべきなのだ。

 気候変動問題をはじめ、世界が直面している危機は、もはや対処療法を許す次元にはない。その克服には、「小刻みの歩み」ではなく、決意の「跳躍(リープ)」が必要である。このような主張は、ユートピアニズムに聞こえるかもしれない。しかしナオミは、「逆・ショックドクトリン」――トランプという、現代世界が抱える問題をすべて集めたような大統領を前にした人類の覚醒――に期待をかける。それほどまでに危機は切迫しているのである。本書の巻末には、既存のシステムに「ノー」を突きつけるだけでなく、新しいシステムへ向かう「跳躍」をいかに実現していくかについて、市民が具体的に練り上げてきた綱領「リープ・マニフェスト」も収録されている。

 ナオミの鋭い批判は、新自由主義システムの暴力に対し、結束した抵抗を実現させられてこなかったリベラル派にも向けられる。リベラル派を分裂させるトランプの戦術は、巧みであった。トランプは選挙戦を通じ、マイノリティへの差別的な言動を繰り返しながら、アメリカの製造業の雇用が失われていることを訴え、自らこそが白人労働者の救世主であると訴えた。トランプ当選を受け、リベラル派の一角にすら、女性やマイノリティの問題を訴えたことが白人男性労働者に疎外感を与えてしまった、問題は人種ではなく、経済であったのだという自省が生まれ、いわゆる「アイデンティティ政治」への否定的な眼差しが生まれていった。

 ここで、ナオミは「人種か、経済か」と優先順位を問う、問題設定自体が誤りであると指摘する。ナオミが人生で初めて公に支持した大統領候補バーニー・サンダースですら、この誤った二分法を信じている節があった。サンダースが、金融資本主義を批判するのと同じ激烈なトーンで、黒人に振るわれる暴力を批判することはなかったのである。

 しかし、「多様性」を掲げたクリントンの敗北から、「人種やジェンダーではなく経済」という教訓を導き出すことは誤りである。逆に、クリントンの失敗は、その多様性の追求が極めて表層的なものにとどまったことにこそあった。ナオミは、クリントンが、中絶や同性婚など、シンボリックな主張を掲げながら、実際にはシステム上層部の一部の人間の「多様性」を実現するだけで満足し、住宅を得る権利、家族を養える賃金を得る権利、国民皆保険など、富裕者から貧困者への本格的な富の再分配を必要とし、新自由主義のルールブックに根本的な変更を迫ることについては沈黙を決め込んだことを糾弾する。

 抵抗勢力の分断は、古今東西、特権階級の常套手段である。リベラル派の分断とタコツボ化が、新自由主義的システムに対する有意味な抵抗を不可能にし、今日までそのシステムを存続させてきた。ナオミはリベラル派に対し、すべての抑圧は連鎖していること、経済格差の拡大と気候変動は、人間を常に人種とジェンダーに基づいて序列化するシステムから切り離せないことを自覚し、すべての抑圧の根源にある新自由主義システムの打破に向けて連帯するよう訴える。

 本書の最後でナオミは、「内なるトランプ」への内省を私たちひとりひとりに促す。それは、「進歩派」を自認し、トランプを批判する人々の中にすら存在しうる。世界の存続のためには、自然や人間からの「テイク」から利益を上げるシステムから、教育や介護など低炭素の経済部門を拡張する「ケア」を原理とするシステムへの根本的な変革が必要である。そのような大胆なチェンジのためには、私たちひとりひとりが、「内なるトランプ」と向き合い、それを克服していかねばならない。そのような思想的な闘争をおろそかにすれば、私たちは、トランプという権力者を批判しながら、トランプを生み出した世界の温存に加担することになってしまいかねない。

 本書は強い危機感に基づいた著作だが、その根底には力強い楽観主義がある。読後、多くの読者はそのラディカルな変革への道筋に「イエス」とうなずくはずだ。

 (高崎経済大学)

カオスからいかにして最小限度の秩序やまとまりを作り出すか

――ドゥルーズによる精神分析と現象学(的精神病理学)への注目に格別の重みを与える書
評者:松本卓也

 ■近年、ドゥルーズに関する良質の学術書の刊行が続いている。主要著作の翻訳が文庫化されており手に入りやすいことに加えて、関連書籍も豊富であること、さらには研究者間の交流も頻繁に行われ、近年では日本を含むアジア圏におけるドゥルーズ研究者の国際的な学術交流も盛んになっている(来年度は日本で学術会議が開催されるようである)ことなどがその理由であると思われるが、それ以上に、かつてフーコーが予言したように「ドゥルーズの時代」が到来したことが大きいのではないか。そのように感じさせられるほどの勢いがこの分野にはある。

 ドゥルーズが展開した議論はさまざまな領域においてアクチュアルなものであるが、私の関心からは、特に精神分析や精神病理学の分野において、ドゥルーズの議論が現代にとってきわめて重要なものであるように思えてならない。実際、ドゥルーズ論を上梓した國分功一郎氏が現在、依存症や自閉症(ないし自閉的主体)の問題に取り組んでいることや、千葉雅也氏がその著作のなかでやはり依存症や「自閉」的なあり方に注目していることからもわかるように、かつての臨床と哲学の交点に位置していた統合失調症が軽症化とともに言論のシーンから退潮し、現在その位置を依存症や自閉症――これらの病理は以前から知られていたものの、やはり近年特別な関心が向けられている――が占めつつあることは、現代における「ドゥルーズの時代」の到来とも無関係ではないだろう。

 小倉拓也氏が大阪大学に2015年に提出した博士論文をもとにしたこの『カオスに抗する闘い』も、やはりその第二部・第三部において、ドゥルーズによる精神分析と現象学(的精神病理学)への注目に格別の重みを与えている。第一部は、いわばその前提となる議論であり、ドゥルーズの『差異と反復』および『意味の論理学』の議論を明晰に要約し、前者においてドゥルーズが「カオス」と呼んだものが、完全なバラバラ状態ではなくむしろひとつのシステムであること、および前者における「器官なき身体」が、深層における寸断(バラバラ化)に抗するものであること、すなわち後の『哲学とは何か』における「カオスに抗する闘い」という表現に相当するものであることが示される。言い換えれば、一方の『差異と反復』では、表象の秩序、安定したシステムの下にある潜在的なカオスが問題とされ、その蠢きを解放することが主眼となっていたのだが、他方の『哲学とは何か』では、そのカオスはむしろカオイド(最小限のシステムとしてのまとまりをもったカオス様のもの)として捉えられるようになり、真のカオスはその破壊として位置づけられるのである。そして第二部では、ラカン的他者の不在を思考実験的に論じるドゥルーズの無人島論(第4章)、否定・否認・排除というフロイト―ラカンの3つ組に対するドゥルーズの応答(第5章)、『意味の論理学』におけるメラニー・クラインの位置づけ(第6章)の検討を通じて、いずれも精神分析との関係から「カオスに抗する闘い」の必然性が論じられる。つづく第三部では、今度は精神分析ではなく現象学(的精神病理学)――ここで取り上げられるエルヴィン・シュトラウスは現象学的精神病理学者かつ現代における神経現象学の先駆者であるし、本邦ではまだそれほど紹介がないアンリ・マルディネはハイデガーとビンスワンガーから大いに影響を受けた人物であり、日本における木村敏の周辺や「臨床哲学」に近い研究を展開した哲学者である‐‐から、「カオスに抗する闘い」が論じられる。これらの現象学(的精神病理学)者に注目しつつ、リオタールの〈形象〉(第7章)、メルロ=ポンティの肉(第8章)のドゥルーズ的読解がそれぞれ「カオスに抗する闘い」としての身分をもつことが確認される。そして、最終章(第9章)では、『哲学とは何か』の終盤の議論は老ドゥルーズが「老い」の問題を扱ったものにほかならず、不可避的にほどけていく身体と精神にかろうじてまとまりを与える「仮構」の重要性について論じたものであるとみなされる。

 確固たる同一性(アイデンティティ)など二次的なものにすぎず、一次的なものは変転しつつ反復を繰り返す差異でしかないと考えてみること。そのようなモチーフから出発したドゥルーズの思考は、当然「エディプス」や「自我」といった大きなシステムに軸足を置く精神分析や精神病理学に反対するものであった。しかし、それらの臨床が「発達」(=発生)、すなわち「その大きなシステムがいったいどのようにして出来上がるのか」を問題とせねばならなくなった「発達障害の時代」においては、むしろ差異、差異、差異……とうつろうまったくの無根拠なカオスから、いかにして最小限度の秩序やまとまりを作り出すかが問題となる――これが、本書が現代の臨床における課題と共有する重要な論点であろう。

 (京都大学大学院人間・環境学研究科/精神病理学)