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紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

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 ◆ 3380号(12月15日発売号掲載)

中東は何処なのか、歴史と論理を読み解く

インタビュー:臼杵陽氏

 ■中東地域研究者、臼杵陽氏の『「中東」の世界史――西洋の衝撃から紛争・テロの時代まで』(作品社)が刊行された。中東を世界史のなかに位置づけ、グローバルな観点からこの地域の近現代史を解きほぐした、新たな歴史叙述の書である。

 9・11事件と対テロ戦争以降、私たちは中東関連の報道に日々接してきた。日本は他人事ではいられないはずだが、相対的に関心は低く、理解に乏しいままではないだろうか。今年に限っても、九月に解放されたジャーナリストの安田純平氏の帰国に際し、彼が伝えようとしたシリア内戦の現実よりも、彼自身の「自己責任」が再び取り沙汰されたことは記憶に新しい。

 本書は、そんな私たちの内向きの中東理解を変えるための、またとないテキストである。そもそも中東とは何処なのか、この地域はどのような歴史をもち、今日に至っているのか。二世紀以上にわたる近現代史をめぐって、臼杵氏に話をうかがった。(10月16日、東京・目白台にて。聞き手・米田綱路〔本紙編集〕)

  ■「中東」を全体としてえがく近現代史

 ――本書刊行の経緯についておうかがいします。

 臼杵 中東については、これまで複数の研究者による本はありましたが、一人の研究者が、西はモロッコのマグレブ地域から東はイラン、トルコまで含め、世界史のなかで中東を叙述した近現代史はありませんでした。それがこの本を書いた第一の理由です。

 「中東」とカギカッコを付けたのは、中東の地域概念自体が、時代によって地政学的に変化しているからです。この本では「伸縮自在」と書きましたが、地域の名称そのものが論争になってしまうほど、問題の焦点が変わっていく。ですから、どうじてもカギカッコを付けざるをえなかったのです。

 そもそも中東という言葉が出てきたのは、二〇世紀の初頭です。その時には、中東は現在のイラン、アフガニスタン辺りを指していました。当時、ロシア帝国が南下政策をとってペルシア湾経由でインド洋へ出ていこうと試みたのに対し、インドを押さえていたイギリスが阻止しようとして、イランとアフガニスタンが緩衝地帯として英露の衝突の場になった。そこで中東という言葉が出てきたわけです。

 二〇世紀初頭には、近東、中東、極東というヨーロッパ中心主義に基づく一九世紀的な言い方が流通していました。ところが第一次世界大戦が起こり、中東を支配していたオスマン帝国が崩壊した。これは非常に大きな転換点でした。なぜなら、オスマン帝国領を近東と呼んでいたのが、具体的にそれが指す対象がなくなったからです。

 第二次世界大戦中、イギリスがカイロにMiddle East Command(中東総司令部)を置きました。それが第二次世界大戦後における中東地域になっていきます。特に冷戦後になってからはMENA(Middle East and Africa)の省略形として中東が使われ始めました。

 このように、中東は地政学的な呼称で、時期によって指している対象の地域が変わっています。ですから、初めて中東について聞く人は、もう混乱するしかないでしょう。

 戦間期にこの地域と関わり始めた日本は、中近東という新しい言葉をつくり出した。これは欧米では使われていない日本独特の表現です。日本の中東研究者は基本的に、中東・北アフリカという言葉は使わないで、中東でも北アフリカを含めるという使い方をしています。

 新聞社の記者や編集委員でも、立場によって中東と書いてみたり、中近東と書いてみたりする。どうも自覚的に使っているとは思えないし、たんに便宜的な呼称として使っているだけのようです。

 外務省も以前は中近東といっていて、石油が出るか出ないかで中近東一課、中近東二課と分けていた。旧通産省は一九七三年の石油ショック以降にできたので、中東という言葉を使っています。つまり役所のなかでも、何処の地域を指すのか、その呼称は何なのかで、かなりのぶれがあります。

 ですから今回、あえて書名に「中東」とカギカッコをつけて、問題提起をしてみたのです。

 ――書名の「世界史」についてですが、近東、中東、極東は西欧から見て、東方を遠近で分けた呼称ですね。これまでの西洋史学による西漸史観を根本的に変えていく、西洋中心の歴史学の大きな転換を経て、いま「世界史のなかで中東を語る」ことについておうかがいします。

 臼杵 近現代の中東を研究した、我々より上の世代の研究者は、アラブ地域についてはヨーロッパ史研究の出身が多かった。植民地宗主国にしたがって中東の東アラブ地域はイギリス史を専門にした研究者、北アフリカはフランス史研究から入ってきた人、ブラックアフリカはドイツ史の専門家が多かった。つまり、日本におけるアカデミズム、大学の歴史学の現代史の枠のなかには、そもそも中東という地域がなかったわけです。特に近現代史となると、イスラーム史とは全く違う枠になります。イスラーム史は東洋史のなかの一部として地位を確保してきた歴史があるのですが、一九世紀には西欧に植民地化されたために、ばらばらの状態で分解されて見られてしまうようになり、植民地ごとに中東を語る語り方が中心になったわけです。

 たとえばマグレブだと、モロッコ、アルジェリア、チュニジアがフランス領なので、フランスの研究者が扱う。トルコはオスマン帝国の研究者が近代までを研究した。エジプトはイギリスの植民地でしたからイギリス研究から入ってくる。リビアは空白に近いので研究者がほとんどいない。そういう歴史があるので、中東を一体として捉えることがなされなかった。そもそも中東という言葉を使い始めること自体が近現代の話ですが、結局はバラバラのまま、部品を扱うように中東を見てきた。北アフリカと西アジアのアラビア語、トルコ語、ペルシア語が話されている地域を対象とした中東が、全体としてえがかれることはなかったのです。

 それでは中東が見えてこないのではないかという反省は、ずっと以前からなされてきました。ですが、共同研究をするにしても対象が大きすぎるので、なかなかうまくいかなかったんですね。その意味では、本書は無謀なことを試みたということになります。

 ■「西洋の衝撃」とイスラーム法

 ――本書では、一七九八年に始まるナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征を、中東における近代の幕開けと位置づけられています。

 臼杵 中東の歴史をわかりやすく語るために、日本との比較で考えてみました。日本がどのようにして近代を迎えたというと、まさに黒船です。中東において黒船に相当するものは、ナポレオンのエジプト遠征によってもたらされた西洋の衝撃(western impact)だったのです。

 ナポレオンが入ってきたのは、ちょうどイギリスと争っている場所で、インドへの道の中間点に当たるスエズ地峡のコースでした。エジプトを押さえることが、アジアへの道を確保することになるという地政学的な話ですが、こうして中東は、いい意味でも悪い意味でも近代に巻き込まれていくわけです。

 それまでオスマン帝国は鎖国で、外国人は自由には入ることができなかった。東アジアで清帝国がしていたのと同じことをオスマン帝国もしていた。清帝国の場合、イギリスがやってきて鎖国の扉を強引に開きますが、中東の場合はフランスでした。

 ナポレオンのエジプト遠征と黒船とは半世紀以上ずれがありますが、中東の体験は日本と違っているわけではない。むしろ日本より早く近代を迎えることによって、近代化でヨーロッパ的な技術を受け入れた。ですから、日本から見ればエジプトは先進国だったという言い方もできます。結果的に植民地化されるか、されないかという違いはありますが、この本では中東と日本を並べて語ることによって、近代との出会いを考えてみたのです。

 ――一九世紀にオスマン帝国は西欧列強に浸食され、変容を強いられつつも主体的に変容していったのですね。日本の近代化における和魂洋才ではありませんが、オスマン帝国ではイスラーム法体系の上に新たにヨーロッパ法が導入され、二重の法体系が形成されていったと書かれています。

 臼杵 オスマン帝国の場合、少なくとも一九世紀のあいだはオスマン帝国の枠組みを維持して、オスマン主義によるアメリカ合衆国のような国家づくりをして改革を進めていこうとした。ですが結局、第一次世界大戦でオスマン帝国がドイツと手を結んで参戦し、敗戦してしまい、体制そのものが崩壊した。第一次世界大戦後、それぞれトルコ語を話す人、アラビア語を話す人、ペルシア語を話す人という形で国民国家に分かれていきました。オスマン帝国の後には連邦的なものができず、国民国家的なものへと代わり、アラブ世界はさらに国家としては細分化されていったのです。

 二重の法体系についてですが、いちばん典型的な事例は、ケマル・アタチュルクが第一次世界大戦後にトルコ共和国をつくったことです。シリア、レバノン、ヨルダン、パレスチナなどの旧オスマン帝国領は、トルコ共和国が成立したとき、イスラーム法であるシャリーアを近代法・市民法の下に位置づけ、いわゆる世俗主義が前面に出てきた。これは中東のなかでは例外的でした。他の地域はそこまでは徹底しておらず、社会のレベルにおけるイスラーム法は現在に至るまで続いていますし、いまはかなりのイスラーム復興の動きがあります。エジプトなどの場合は、完全に二重の法体系のままで出発してしまいます。

 つまり、政府レベルにおいては近代法で、ヨーロッパ法をどんどん受け入れていくなかで、ヨーロッパをモデルにしながら新しい国家をつくっていった。しかし、国家を支えている社会の部分ではイスラーム法がそのまま生き残った。冠婚葬祭など私法のレベルにおけることはすべてイスラーム法で、現在に至るまで運用されています。国家の占有である刑法などに関しては、完全に近代法に切り替えていくのが、中東の近代的な動きでした。ただ、サウジアラビアのように刑法までイスラーム法で行う国も出てきた。ですから、場合分けをして中東を考えていかなければいけません。

 基本的に中東は、イスラーム法が社会のなかでものすごく大きな影響力をもっていますし、社会を規定してきたところがありますから、近代法が入ることができなかった。そしてイスラーム復興が起こってきます。トルコも、いまのエルドアン政権に表れているように、二一世紀に入った頃からイスラーム化の波がかなり遅れて押し寄せてきた。逆にいえば、トルコの世俗主義が中東のなかでは非常に特殊だったということになります。

 ――オスマン帝国は、オスマン主義によって帝国内で多民族が宗教的にも共存し、なんとかして分解しないようにまとめていたわけですね。オーストリア帝国も、多民族共生の「ハプスブルク神話」でバラバラにならないようにつなぎとめていたのが、第一次世界大戦によって解体しました。

 臼杵 オスマン帝国とハプスブルク朝はよく比較されますが、もう一歩踏み込んでいえば、ハプスブルク朝は分解して国民国家的な独立国家ができ、独立を達成していますが、オスマン帝国の場合はトルコ共和国やサウジアラビア王国を除いて、ほとんど植民地化されてしまいました。

 ヨーロッパが第一次世界大戦後に旧オスマン帝国領に対してとった扱い方は、ハプスブルク朝とは違っていたし、ロシア帝国に対する扱い方とも違っていた。中東の場合、旧オスマン帝国領は条件としてはハプスブルク朝と同じだったはずなのに、イギリスとフランスとイタリアの植民地になりました。

 オスマン帝国領の東側は委任統治になりました。エジプトはそれ以前の一八八〇年代から植民地化されていますし、アルジェリアは一八三〇年代からフランス領になっています。リビアは第一次世界大戦直前にイタリア領に編入されます。

 結局、ハプスブルクとオスマンの違いは、ヨーロッパ列強の対し方の違いです。

 ――そこには、近代の西欧列強の中東に対するまなざしが表れているといえるでしょうか。

 臼杵 そうですね。キリスト教ではなく、イスラームが主流を占めている社会に対する、ヨーロッパの人たちの偏見がある。ユーロセントリズム(ヨーロッパ中心主義)を支えているのはキリスト教でしょう。

 話は飛びますが、米ソ冷戦が終わった後、ヨーロッパがEUとしてまとまり、具体化されていくなかで、トルコはEUに入れませんでした。そこで議論されたのは、ヨーロッパがキリスト教的なもので、イスラームを排除する構図があるのではないかということです。そして、先ほど話したように、いまのトルコは逆にイスラーム的な方向へとスタンスを移しています。

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哲学は理論における革命の相同物である

――本書はすべての人に関わる
評者:廣瀬純

 ■スピノザを読むアルチュセールとともにアルチュセールを読む。この作業を通じて市田は、『資本論を読む』(65年)でアルチュセールがおのれの方法とした「徴候的読解」について、それが、何物かの「顔」に別の何物かの「背中」を見ることに存するものだったということを明らかにする。ひとは、ときとして、「並外れて活発な想像力」を発揮するということだ。

 そうした「過剰な想像力」は、すでにアダム・スミスに到来していたとされる。スミスは、賃金(労働の価格)に「労働の価値」の背中を突如として見、彼にとっては揺るぎないこの経験の「事実性」に強いられて、労働の価値のその顔を「証明という目を通して」見ることへと向かった。「精神の眼は証明そのものである」。

 スミスが「精神の眼」(知性)でその顔を見た「労働の価値」を眼前にして、マルクスもまた、過剰な想像力の一撃に襲われる。マルクスは、労働の価値に搾取(労働力の価値)の背中を見てしまったが故に、逆に自分はその顔をまだ見ていないという、やはり彼にとっては揺るぎない「確信」に押されて、おのれのうちに精神の眼を覚醒させ、『資本論』を書いた。

 『資本論』を読むアルチュセールが経験したのも同様の「出来事」だったと市田は言う。アルチュセールは、マルクスの残した「科学的充満」に「哲学的空虚」を見てしまったために、「マルクス主義哲学」のその存在の証明へと必然的に向かうことになった。「充満」は「顔」、「空虚」は「背中」の謂いである。

 アルチュセールが精神の眼によってその顔を見ようとした「マルクス主義哲学」は、「認識論的切断」(「科学性」の基準の歴史的交代)を「一般的に説明する〈理論〉」だと定義され、その資格で、理論における「革命」(生産様式の移行)の「相同物」だと言われる。この意味でまた、市田はアルチュセールを、無数の小国に断片化されたルネサンス期イタリアに国民統一のその背中を見たマキァヴェッリと同様、「政治的創設者の絶対的孤独を理論において体現する」者としての「哲学者」だったとする。彼らに到来した過剰な想像力のその「単数性・外在性・超越性」こそが彼らを「哲学者」にしたのであり、「哲学」はそうした絶対的孤独のうちでだけ始まるということだ。

 逆もまた真であるはずだ。すなわち、レーニン、そして、本書ではその名を引くことが避けられ、「正しい観念はどこから来るのか」というその有名な言葉の徘徊を以ってのみテクスト内に幽かに存在する毛沢東などについてもまた、哲学者の絶対的孤独を実践において体現する者だったと言わねばならないはずだ。理論におけるその相同物のみならず、「革命」それ自体においても、「はじまり」をなすのは、何らかの個人への過剰な想像力の突然の到来であると本書は我々に告げる。ロシア革命とはレーニンその人のことであると、市田は『革命論――マルチチュードの政治哲学序説』(12年)ですでに言っていた。だからこそ、本書は、アルチュセールの妄言に心中辟易している人にも関わる。すべての人に関わる。我々のうちの誰かが資本主義の顔に共産主義の背中を見るとき、ただそのときにだけ、その存在の証明としての革命は始まるのであり、これのみを市田は「政治」と認める。

 すべての革命のそのはじまりには過剰な想像力の発動がある。我々一人ひとりに対してなされる本書によるこの力強い「呼びかけ」は、しかし、ひとつの「沈黙」に支えられている。本書について右に述べ得たすべての事柄に鑑みて、また、「アルチュセールは自分の哲学を「知らなかった」と〔…〕想定し」た上で「本書は「アルチュセールの哲学」を〔…〕「ねつ造」する」という著者自身による宣言に鑑みて、拙稿に課せられている責務はひとつしかない。『ルイ・アルチュセール』が、アルチュセールのねつ造した「マルクスの哲学」のその徴候的読解から始まる新たな哲学であるということを示すこと。この責務を果たすためには、しかし、『ルイ・アルチュセール』における「沈黙」を「徴候的沈黙」と受け取ることで、同書それ自体を徴候的に読解するという厚かましい迂回が必要かもしれない。

 問題の沈黙は、過剰な想像力の到来のその「範例」がモーセの経験に同定される箇所にある。「神が彼に語りかけるのを聞いたとき、モーセは神の後ろ姿だけを見て神だと覚った」。この一節をスピノザの『神学政治論』から引く市田は、しかし直ちに、「語られた内容(「十戒」)のことはさておこう」と言い添える。語られた内容についての市田のこの沈黙が、問題の沈黙をなすわけではない。「内容の真実性も内容そのものも超えた」次元での「預言の事実性」、出来事の事実性がここでの議論の対象なのだから、内容について沈黙するのは当然だ。問題は、語りを聞いたという事実それ自体についても市田が沈黙してしまうことにある。

 「〔神はモーセに〕顔を見せず、背中越しに声を聞かせた」と書くとき、あるいはまた、「なぜ預言者は預言を信じるのか。神の後ろ姿を見、言葉を聞いたからである」と書くとき、市田は、声を聞くという現象を、背中を見るという現象のうちに回収してしまっている。すでに見た通り、『アルチュセール』全体を通じて、徴候的読解をめぐる議論は背中を見ることに集中し、これとは区別される現象として声を聞くということが問題にされることは一度もない。音声は、映像の構成要素として回収され、それとしては捨象されてしまうのだ。

 同じ徴候的沈黙はアルチュセール自身のテクストにもある。彼の名高い論文「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」(69年)にもモーセへの言及があったことに、市田は我々の注意を引く。「主たる神は雲のなかからモーセに語りかけた。そして主はモーセに呼びかけた」。いっさい内容の問われることのない「語りかけ」が「呼びかけ」に先立ってあることを、この一節は「そして」の一語によって確かに捉えている。しかし、アルチュセールは、おのれ自身の筆によるテクスト内のこの接続詞を読み飛ばしてしまうのだ。「呼びかけ」に先行する「語りかけ」についてのアルチュセールの沈黙が、彼のイデオロギー論を支えている。

 語りかけられることなしに、「呼びかけに振り向く」こと、雲海の充満のなかに神の空虚を見ることは可能なのか。何らかの声を聞くことなしに、何物かの顔に別の何物かの背中を見ることは可能なのか。もちろん可能だ、我々には「異常な想像力」があり、我々は「狂って」いるのだから。これが市田の答えであり、我々を心底鼓舞する市田からの呼びかけだが、しかし市田は、この革命的福音を我々に与えるためにこそまさに、音声を映像の一部に還元してしまう。

 我々は狂っていない。出来事を生起させる我々の想像力は異常でも過剰でもない。我々は、音声によってこそ、映像の「ねつ造」的な二重化へと導かれる。『神学政治論』の一節は、文字通りに読めば、同書で確かに「並外れて活発な想像力」を語っているスピノザ当人にすら反して、そう告げているのではないか。スピノザを読むアルチュセールとともにマルクスを読むアルチュセールを読む市田も、あるいは、「『聖書』を読むスピノザのように、古典派経済学を読むマルクスを読ん」(傍点は評者)だアルチュセールもすでに、彼らの試みそれ自体において、そう告げているのではないか。

 スピノザが彼に語りかけるのを聞いたとき、アルチュセールは『資本論』に後ろ姿だけを見てそれを「マルクスの哲学」だと覚った。この意味でこそ、アルチュセールによる『資本論』の徴候的読解は、「スピノザの哲学でもあるマルクスの哲学を『資本論』から取り出すこと」(傍点は評者)だったと言われなければならないのではないか。市田自身もまた、スピノザについて語るアルチュセールの声を聞くことで、アルチュセールがその顔を見た「マルクスの哲学」に「アルチュセールの哲学」のその背中を見たのではないか。自分は「アルチュセールの哲学」のその顔をまだ見ていないと確信したのではないか。

 アルチュセールも市田も、やはり、狂っている。しかし、それは、彼らの想像力が並外れて活発で、異常なまでに過剰だからでは微塵もない。よそから到来する声を聞いて、ここにある物に別の物の背中を見てしまう、しかも、それを「内容の真実性も内容そのものも超えた」次元でなしてしまう、さらにはまた、そこからもう一歩踏み出して、その別の物を精神の眼で見ることにより、それこそが自分の聞いた声の内容だったことにしてしまう(「『神学政治論』は〔…〕スピノザの『資本論』である」とアルチュセールは結論するに至る)という点においてこそ、彼らは「狂人」なのであり、徴候的読解から証明へと彼らの辿る道程は「狂気の沙汰」なのだ。

 アルチュセールや市田の「戯言マルクス主義」にはいよいよ付き合いかねるという人々にも『ルイ・アルチュセール』が関わるのは、彼らの哲学が革命の相同物だからであり、徴候的読解は出来事の、証明は政治の相同物だからである。出来事(来るべき映像=音声のその存在を預言する映像)が産出されるのは、彼らの理論の内容に従えば、過剰な想像力が我々に到来するからだが、彼らの理論の形式に従えば、よそから到来する音声とここにある映像、互いに自律的で「並行」関係にある音声と映像のその「出会い」が我々に到来するからだ。そして、後者の理解に従えば、政治とは、この出会いを「凝固」へと導く運動のことであり、あるいは、そのための「技術」のことだ。

 「歴史は〔…〕、広大なつぶやき空間のただなかにのみ、可能である」。フーコーの『狂気の歴史』(61年)から本書で引かれるこの一節についても、市田の「アルチュセールの哲学」は、その形式において、おのれの内容が告げるのとは異なる理解を示している。無数の音声の騒めきのただなかに身を沈め、そこで「行方不明者」となるときにのみ、我々は既存の映像に新たな映像の背中を見る、既存の人民の充満に来るべき人民の空虚を見る。歴史を可能にする過剰さは、我々の想像力のそれではなく、「広大なつぶやき空間」のそれなのである。

 (龍谷大学教員)

現代社会分析のためのガタリ思想のアップデート

――もしガタリが今も生きていたら、現代の状況をどう論じるだろうか?
評者:村澤真保呂

 ■精神科医としてラボルド病院を拠点にジャン・ウリとともに「制度論的精神療法」を創始し、また社会運動家・哲学者として独自の思想を展開し、さらに『アンチ・オイディプス』などドゥルーズとの共同作業をつうじて現代思想を牽引したフェリックス・ガタリがこの世を去ったのは一九九二年、今から二六年前のことである。アカデミズムのいわゆる「哲学学者」とは異なり、みずからの狭い専門領域に閉じこもることなく、精神疾患やフェミニズム、マイノリティ、テクノロジー、エコロジーといった資本主義社会がもたらす諸問題に正面から挑んだガタリの思想は、かつてはドゥルーズの思想に入り込んだ「不純物」のようにみなされる傾向が強かったが、近年になってラッツァラートやドス、ナドーらの著作をつうじてすこしずつ再評価が進み、英米圏のアカデミズムにおいても取り入れられる動きが見えはじめている。こうしたガタリ再評価の背景にあるのは、情報化・エコロジー・主観性の危機といったガタリの扱った諸問題が、現在になって誰の目にも見えるほど明白な姿を取りはじめたことである。そうであれば、誰もが次の問いを頭に思い浮かべるはずだ――「もしガタリが今も生きていたら、現代の状況をどう論じるだろうか?」

 本書はカナダのメディア理論家で、ガタリ研究者としても名高いギャリー・ジェノスコによるガタリ論である。そして本書を通底している主題も、ここで述べた「ガタリが今も生きていたら、現代の状況をどう論じるだろうか」という問いである。

 ガタリが生きていた時代には、まだインターネットは実用化されておらず、スマートフォンどころか携帯電話も普及していなかった(日本で携帯電話が一般に普及しはじめたのは九五年のPHS開始以降である)。また政治・経済の本格的なグローバル化が進展するのは、ソ連崩壊(九一年)からすこし後のことである。エコロジー危機や人類の持続可能性が課題として認知されるのも、二一世紀に入ってからである(日本ではまだ認知されていないかもしれないが)。しかしガタリは、そのような状況が到来するだいぶ以前、つまり六〇年代から九〇年代初頭にかけて情報化社会、エコロジー危機、グローバル資本主義、そして主観性の危機(つまり人間精神の危機)の問題に取り組み、高度かつ抽象的な議論を展開した。ただし、その議論は伝統的な哲学的手法とは異なる仕方で展開され、考察対象も多領域にわたり、独自の造語や新概念に依拠しているため、哲学研究の専門家にとって理解しづらく、伝統的な哲学研究の対象となりやすいドゥルーズとくらべて関心がもたれにくかった。むしろガタリが言及されるときには、ドゥルーズ思想の解釈をそのまま適用して(つまりガタリをドゥルーズ化して)論じられるのが通例であった。

 しかしメディア理論家であり自身もメディア関連の企業経験のあるジェノスコは、そのような哲学研究のあり方とは離れた立場から、つまり現在の高度に情報化した資本主義社会の問題を解明する観点から、本書でガタリの思想を正面から(つまり安易にドゥルーズ化することなく)解読し、現代のための理論としてアップデートを試みる。そのために、本書はまずガタリの思想形成の歴史的背景から出発し、つづいて政治、エコロジー、主観性などの各主題ごとにガタリ思想の核心を示しつつ、現代世界の諸問題(イヌイットなどのマイノリティ問題、インターネット販売やクレジットカードなどの高度情報=消費社会の問題、ポピュリズムの基盤にある情動の問題)を分析する。とくに「非シニフィアンの記号論」の章で、難解とされるガタリの著作『分裂分析的地図作成法』や『機械状無意識』の理論的核心を明らかにしつつ、イヌイットやアボリジニへの各国政府の対応を事例として高度情報化社会と政治的管理の関係を明快に論じた箇所には、メディア理論家としてのジェノスコの関心の鋭さと手腕の高さに評者もうならざるをえなかった。

 このような本書の内容は、ガタリ思想を安易に簡略化することなく、むしろ抽象度の高さをそのまま維持しつつ、さらなる拡張と応用を目指すものであり、したがってガタリ思想の入門書というより、むしろ現代社会の分析に活かすための優れたガタリ論として読まれるべきであろう。いずれにせよ本書のもつ意義は、「訳者あとがき」で紹介されているアリエズの言葉に尽くされている――「この本はわれわれが陥っている危機の世紀がまさにガタリの言うとおりのものであるという考えに読者を導いてくれるだろう」。

 (龍谷大学教員)