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紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

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到達できない場所へ

――宮澤賢治のさみしさ、しあわせについて
対談:古川日出男×暁方ミセイ

 ■このたび、詩人の暁方ミセイ氏が『紫雲天気、嗅ぎ回る――岩手歩行詩篇』を鎌倉にある出版社・港の人から上梓した。本詩集は、詩人が実際に宮澤賢治に縁のある岩手県の小岩井農場や花巻などを歩きながら執筆した第四詩集である。本書の刊行を記念して、著者の暁方ミセイ氏と、同じく宮澤賢治の世界に深く共鳴している小説家・古川日出男氏とのトークイベントが11月11日、下北沢の本屋B&Bにて行われた。本稿はその採録である(村田優・本紙編集)。

 ■自分が大切にしている詩人に会うために

 古川 本書のサブタイトルに「岩手歩行詩篇」とありますが、「岩手」という地名と「歩行(する)」という動詞が付いている時点で、この詩集がなにをターゲットにし、どのように詩を生み出そうとしているのかが宣言されているような気がします。まずは本詩集を出されたお気持ちと、そもそもの詩集の成り立ち、発端をお聞かせいただけたらと思います。

  暁方 もともと宮澤賢治の詩が好きで、小・中学校のころに出会いました。それが私にとっての詩のはじまりであり、世界と言葉が結ばれた瞬間だった気がします。その後、今から三年前に大学院に入り直し、宮澤賢治の詩に関する拙い論文の執筆と一緒に修士制作をすることになったので、賢治が歩いた場所――『春と修羅』に描かれた光景――をなぞるように辿りながら詩を書こうとしました。歩いて土地や時間と反応しあい、書きたいと思いました。その試みの結果できたのがこの詩集です。そのときはこれを修士制作として提出するだけで、人に見せるつもりはなく、個人的な歩行の痕跡として残すだけのつもりだったのですが、このたび港の人の上野さんに声を掛けていただき、刊行することになりました。だから、本として出すときには少しためらいがありましたね。

  古川 ためらいの前提には、「読者を意識する」というよりも自己との対話を優先したフィールドワークのような文章も入っていることもあった?

  暁方 そうです。公に出すつもりがなく、個人的な歩行の「足跡」として書き、自然にやってきた言葉をそのまま書きつらねた部分も多いものだったからです。書いた後で何重にも推敲をしましたが、歩きながら起こる人間の内外の反応によって書くとも言えるこの詩は、ある意味言葉の鮮度に頼る詩でもあるので、残した部分も多いです。ただ、読んでいただいた方からは「今までの詩と比べて読みやすかった」と言われましたね(笑)。

  古川 そういった読者にとっては、詩集として発表することを前提に書かれた暁方さんの詩は逆にハードルが高かったというか、それらを「乗り物」として自分自身を乗車に至らせられなかった。その可能性もある?

  暁方 そうですね……おそらく今回の詩は、これまでの詩に比べるとあまり行と行の飛躍がなかったからではないでしょうか。だから、その車ならば読者も乗りやすかったのだと思います。

  古川 たしかにこの詩集には旅をしている感じがありますね。電車に乗っていてもどこかを歩いていても、詩人のいる場所に同時にまた読者もいるのがすごく伝わってきました。もともと大学院を出るために書かれたものということでしたが、具体的にはいつごろ書かれたものだったのでしょうか。

  暁方 大学院には二七歳ぐらいに入りましたので、二〇一五年ごろですね。

  古川 では、ここに収録されているもっと古い年代の日付がついている詩はどういった経緯で生まれたのでしょう。

  暁方 大学の在学中から岩手には何度か行っていて、そのときに書いた詩なのですが、その詩も人に見せるつもりはありませんでした。自分が一番大切にしている詩人に会うために彼を追い、追い越そうとして書いてきた、ごく個人的な詩でしたので。

  古川 “追い越す”というのは、詩人としてのレベルではなくて、賢治がかつて歩み、そして彼が生身の体では歩むことができなかった場所と時間の先を行く、ということですね。

  暁方 もちろんそうです。今回が初めての花巻旅行だという印象を持たれるのも不正確だし、在学中の詩も入れました。

  古川 賢治が詩を書くときも暁方さんと同じように詩の最後に日付を入れている。

  暁方 そうですね。これはちょっとした読者へのサービスというか、遊びみたいな感じで付けたこともあります。宮澤賢治は日付を書くことで詩人の痕跡を残していましたので、自分もサンプリングした日を入れておこうかな、と。

  古川 自分の感性に照らせば「サンプリング」という言葉は音楽的なものに聞こえて、そこには誰かがつくったメロディーやビートを抜き出すといったニュアンスがあります。しかし、もともとは野原で草を収集し、標本をつくるというような行為を指しますので、今の暁方さんの話を聞いて、本来の言葉の意味に戻ることができました。

  暁方 宮澤賢治は自分の詩のことを「心象スケッチ」と呼んでいました。自分が出した詩集にしても、手本の本は「詩集」の文字を塗りつぶしていたそうです。私が読んだ論文のなかに書いてあったのですが、「スケッチ」というと一般的には絵画のイメージですが、一方で理科の世界での「スケッチ」は植物などをただ単に描写するのではなく、その特徴を捉えてできる限りわかりやすく描くことなのだそうです。今のサンプリングの話にもつながるかもしれませんが、賢治もあるものをそのまま書くのではなく、人間が自然でも感情でもその対象に対して感じるありさまを、強烈に感受して映像や物語になるまで追いかけて、詩に書いていたのではないか。だから、私自身もそうした書き方に興味があって、本詩集でもそのコンセプトを大切にしました。

  私も音楽は好きなんですがそこまで詳しくなくて、「サンプリング」もどちらかと言うと科学的なイメージで捉えがちになってしまいますね。そこに生じたなにかを、神聖なまま、生のままつかんできて、ラベルを貼るような行為が、私にとって今まで詩ではなかったのかと思います――たとえそれが出来得ないことであっても。

  古川 ただ、ラベルを貼って単に自分だけの標本としてとっておくのではない。その詩をどこかへ届けようとするわけですよね。

  暁方 自分でも不思議な行為だと感じています。最初から誰かのために書いているわけではないのに、人に届けたいと思ってしまうのはどうしてなんだろうと。

  古川 先ほど出たスケッチの話ですが、これはもっと簡単に言えば似顔絵のことだと思うんです。たとえば暁方さんの顔を、コンピュータも駆使しながらものすごくきれいな水彩画で描いても、それが暁方さんに似ているとは限らない。単純にそのまま描くのではなく、デフォルメしたときにはじめてその顔が誰だか判断できるのだと思う。結局、あなたの特徴がこう見えるという、画家=表現者のフィルターを通して生のかたちを捉えているわけです。生のままでは見えないものも、私/僕の目を、耳を、皮膚を介することでいろいろな特徴が出てくる。さらに、この作業ではなにかを創作している「彼方」に受け手を想定していたとも言えますね。こうしたスケッチのあり方を暁方さんが踏襲されたとしたら、はじめは公に発表するつもりがなかったとしても、そのときからすでに誰かになにごとかを届ける行為がはじまっていたのではないかと思います。

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世紀末にダンスと舞台を変えた「ザ・ダンサー」の謎と真実

――日本と欧米の舞踊や芸能の交流を知ることもできる
評者:志賀信夫

 ■ロイ・フラーの名前は日本ではダンス関係者にしか知られていなかった。それもモノクロの写真や短い映像で、白い衣装を羽ばたかせて踊る姿を見た程度だ。どういうダンサーかは、ほとんど知られていなかった。

 一方、イサドラ・ダンカンは有名で、米国生まれ、パリで活躍しモダンダンスの祖として知られる。日本では一九五八年に自伝が翻訳されているが、六八年の『裸足のイサドラ』という映画の公開も大きい。このカレル・ライス監督の作品で、自由なダンスを生み出したとして、より広く認知された。

 だが二〇一七年、『ザ・ダンサー』という映画で、フラーも少しは知られるようになった。ダンカンとの交流を含めて、フラーの栄光と衰退が描かれたディ・ジュースト監督の映画だった。それも背景にあったのだろうか。本書はフラーの自伝を中心にして著者が書いた伝記である。こうして、謎だったフラーのことが詳しくわかることになった。

 ロイ・フラーは一八六二年、米国シカゴ近郊に生まれ、十代からさまざまな劇団で活動し、一八九一年、ニューヨークで独自のダンス、大きい薄布の衣装で踊るサーペンタインダンスを生み出した。手の動きが「蛇のよう」だからこう名付けられ、パリの有名なレビュー劇場、フォリー=ベルジェールなどで活躍した。

 そのダンスは、ほとんど移動せずに、両手で長い棒につなげた大きな絹の白布をかぶって羽ばたき、渦巻くように動かして踊るものだ。簡単そうだが、ずっと動かし続けるのはかなりな重労働だ。羽ばたく動きや両腕を回すだけでも、長くは続かない。フラーは三〇分以上も踊り続け、さまざまな動きのバリエーションと変化する照明で見せる。十台以上使った照明には工夫を凝らし、近代舞台照明の先駆けとされる。多くの色、下や後ろからも薄絹の衣装と身体を照らし、自分自身を「何千もの色彩豊かな幻影に変えた」、「すばらしい天才」と、ダンカンも自伝で語っている。

 そのダンカンとの関係はなかなか微妙である。フラーの映画にあるように、ダンカンの天衣無縫さがフラーと合わなかったのか、ダンカンの自伝のように、女性ばかりの華美で贅沢なレズビアン的生活がダンカンに合わなかったのか。ただ互いに才能を認め合っていたことが、それぞれの自伝にも記されている。

 評者はサブタイトルの「元祖モダン・ダンサー」には少々ひっかかる。確かにフラーのようなダンスはそれまでになかった。だがそれがモダンダンスに受け継がれたとはあまり考えられない。現代の感覚ではショーダンスだろう。おそらくフラーが求めたのも、いまでいうエンターテインメントだったのではないか。それはその後、一九〇〇年のパリ万博でフラー劇場をつくり、日本の川上音二郎・貞奴や花子をプロデュースしたことからも感じられる。

 また、ヴィクトル・ユゴー、オーギュスト・ロダンやルーマニアのマリー王妃らとの交流、そして踏み込んではいないが、レズビアン的なフラーの生き方も興味深い。

 フラーのダンスに伊藤道郎を思った。一九一〇年代にドイツに渡り、英国、米国で活躍した日本のモダンダンスの先駆だ。有名なダンスは、テン・ジェスチャーという立ったまま移動せずに腕と上半身だけで踊るものだ。伊藤はこれに前から照明を当てて背景に巨大な影を映し出して、米国のスタジアムで踊り、数万人を動員する大成功を果たした。ほとんど移動せず、照明によってスペクタクルに見せるという点で、フラーのダンスと共通するものが多い。

 伊藤はその後、第二次世界大戦の日本参戦で強制送還され、戦後は日本で多くの弟子を育て、ファッションモデルの養成でも有名だ。一九六四年のオリンピックでは開会式・閉会式の総合演出を務める予定だったが、六一年に亡くなった。米国にもモダンダンス、ジャズダンス界に多くの弟子がいる。

 イサドラ・ダンカンは米国、日本などで継承する動きがあるが、フラーの場合はどうだろうか。その点からも、元祖モダン・ダンサーというよりは、ダンカンや花子などを育てたプロデューサーとしての功績が大きいだろう。さらに、新しい照明とともに、創意工夫によってダンスや舞台を変えた存在だといえるかもしれない。

 本書によって、舞踊史の中に大きな足跡を残したダンサー、ロイ・フラーのことを詳細に知ることができた。また日本と欧米の舞踊や芸能の交流を知ることにもなった。

 ダンカンやマリー・ヴィグマンの踊りは現在も省みられることが多いが、ロイ・フラーに焦点を当てて描いたことで、映画を見て彼女に関心を抱いていた人たちにも、本書は大いに歓迎されるだろう。本書によれば、フラーの自伝には事実が曖昧な点もあるというので、このようにしてフラーの全体像を俯瞰できることは、舞踊関係者にも大変ありがたい。そして、本書を読まれたら、映画『ザ・ダンサー』を見ていただけると、ロイ・フラーというダンサーをよりリアルに感じることができるだろう。(批評家)

社会と美術は一体なのである

――美術が変われば社会が変わるという人間本来の本質を導き出さなければならない
評者:宮田徹也

 ■社会が変われば、美術も変わる。「最初は宗教帝国だったものが、軍事帝国に引き継がれ、そして市場帝国となる(中略・引用者)。ついに帝国は、きわめて複雑な一つの世界秩序を人類に授けたのだった」(J・アタリ著『新世界秩序』作品社、217頁)。人類史上、確かに美術は帝国の支配から逃れることはできなかった。宗教から解放された美術は美術館へ収められていくのだが、その美術館は元々ナショナリズム=軍事のために存在した。近年の日本の動向に目を向けると美術は地域振興の道具となり、これからは美術館が市場に関与することが体制から求められている。美術館だけではなく、美術作品自体も、この動向に添って展開する場合がある。インスタレーションやパフォーマンスはリレーショナル・アートという社会の動向を直接に描く姿に変わり、ソーシャリー・エンゲイジド・アート(以下、SEA)はリレーショナル・アートのような作品すらも残さないスタイルを生み出そうとしている。この動向を、本書は克明に解説している。

 工藤安代(特定非営利活動法人アート&ソサイエティ研究センター代表理事)は「はじめに」において、本書を端的に説明する。「SEAの翻訳にあたり、カタカナ表記した意図は、「engaged」を訳する難しさゆえだった。直訳すれば「社会関与の芸術」となるが、この「関与」という日本語のあいまいさとニュアンスが、このような新たな芸術動向を日本に紹介する邦訳として適していると思えなかった。本書の中で星野太が指摘するように、「engaged」は、単に社会に「関わる」という中庸を得たものではない。社会に関わる多様な芸術的行為を言い表しつつも、特定の人々と深く関わりながら、何らかの変革を生み出すという意味を込めた用語としては、ソーシャリー・エンゲイジド・アートと原語のまま表記するのが最適であろうと考えた」(8頁)。「秋葉は、SEAの端緒をフェミニズム運動と同時代に現れたコミュニティ・アートであることを強調し、七〇年代後半には上記雑誌においてアーティストの実践がつぶさに検証されていたことを提示する」(9頁)。「本書の巻末でまとめた「SEAに関する年表」は(中略・引用者)芸術界から忘れ去られた活動、無視されたものなど、もう一度SEAという文脈から見つめ直してみようと考えた」(10頁)。

 執筆者はトム・フィンケルパール(ニューヨーク市文化局長)、カリィ・コンテ(キュレーター)、グラント・ケスター(カルフォルニア大学サン・ディエゴ校視覚芸術科美術史教授)、星野太(表象文化論)、高山明(演出家)、藤井光(美術家)、ジャスティン・ジェスティ(米国ワシントン大学アジア言語・文学学科准教授)、秋葉美知子(特定非営利活動法人アート&ソサイエティ研究センター副代表理事)、清水裕子(同)である。SEAのアーティストとして取り上げられたのは、ペドロ・レイエス、ママリアン・ダイビング・リフレックス/ダレン・オドネル、西尾美也、ミリメーター、明日少女隊である。それぞれの立場から様々な角度でSEAを分析・検証している。

 ジャスティン・ジェスティの「社会的回転の論争」をここでは見てみよう。ジャスティンはSEAに対する米国の論争と展開を紹介し、未解決の諸問題、まず「一般の観客に語りかけていない」(241頁)点、次に「芸術の実践の政治とは何かという問い」(243頁)、更にSEAなどが「新自由主義搾取の圧力の下で社会が粉々になるのを追いかけている」をどのように考えればいいのか考察している。

 その上でジャスティンは論の最後に「日本の好機」という章を立てる。ジャスティンは富井玲子の論考を引き「日本においての近・現代のアートとアヴァンギャルド・アートは、文化生産の一分野として、欧米のそれらと同程度の自律性を確立したことはなかった」(250頁)としながらも、だからこそ「日本の異質な歴史は、かえって資源・財産になるのもしれない」(同)と指摘する。「おそらく、日本の新しいパブリック・アートの実験は裏返した形のアヴァンギャルドだろう。それは、散在し、アドホックで、開発主義のはしかが過ぎ去った後に残ったポケットの中に価値を見いだす、多少控えめな試みである。この意味で、今こそ、こういった実験を真剣に考えるのに適した時かもしれない。決断の時だ」(252頁)として論考を終える。

 ジャスティンは十年以上、日本で調査・研究した成果を『ART AND ENGAGEMENT IN EARLY POSTWAR JAPAN』として米国で出版したばかりだ。「印象派の移植」(土方定一)から百年以上経った。もしかしたら日本人以上に日本の戦後美術を理解しているジャスティンが、上記のようにこれからの日本を占うのは本当に興味深い。

 我々は美術が変われば社会が変わるという人間本来の本質を、ここから導き出さなければならない。社会と美術は一体なのである。我々は本質を見誤ってはならないのだ。(嵯峨美術大学客員教授)