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紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

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 ◆ 3382号(1月5日発売号掲載)

反知性主義とアメリカ精神史

――文学という虚構が現実をつくり変えている
対談:巽孝之×森本あんり

 ■このたび、アメリカ文学研究者の巽孝之氏が『パラノイドの帝国――アメリカ文学精神史講義』を大修館書店から上梓した。本書は、赤狩りや反テロ戦争に典型的に表れる〈パラノイド〉〈陰謀論〉をキーワードにした異色のアメリカ文学論である。本書の刊行を記念して、著者の巽孝之氏と、宗教思想史を通して〈正統〉〈異端〉のイメージを覆し、ポピュリズムの蔓延する「権威なき世界」を問うた『異端の時代――正統のかたちを求めて』(岩波新書)を刊行した森本あんり氏とのトークイベント「異端の時代のパラノイド・スタイル――ホフスタッターを超えて」が11月21日、東京堂書店神田神保町店にて行われた。本稿はその採録である。(村田優・本紙編集)

 ■トランプは希代の詐欺師か

  二〇一八年のアメリカの中間選挙が終わって数週間経ちました。連邦議会の上院が共和党、下院を民主党が占めるというねじれ議会が出来してしまったにもかかわらず、トランプ大統領は大勝利を収めたと言っていて、本当に彼は「ポスト・トゥルース」を生きている人だと思います。それと関連して、ちょうど中間選挙が始まるときに私はマイケル・ムーアの最新映画『華氏119』を観るとともにスラヴォイ・ジジェクの最新刊『絶望する勇気――グローバル資本主義・原理主義・ポピュリズム』(青土社)を読んだのですが、この二つが期せずして重なっているんですね。トランプとヒトラーを重ねているところなんかは瓜二つ。マイケル・ムーアとしては完全にトランプを許さないと主張しているのですが、民主党のほうも悪いところが大いにあると指摘していて、ジジェクも概ね同じことを言っている。別に両者は原作のある映画でもなければ映画ノヴェライゼーションでもないのに、驚くほど重なって見えました。トランプというこの奇妙な現象に日々接している人間はどうしても一定のresponsibility――応答責任――を感じざるをえない――そしてその批判の論拠もある程度は共有せざるをえない――今はそういう時代だと思います。

 森本さんの場合は二〇一五年には『反知性主義――アメリカが生んだ「熱病」の正体』(新潮社)を、二〇一八年に『異端の時代』を出しました。『反知性主義』の刊行はオバマ政権時代でしたが、その前にあたるブッシュ政権のときから「反知性主義」という言葉が言われはじめていました。それが今回、トランプ政権において再燃しているわけです。それから森本さんはアメリカの政治史家、リチャード・ホフスタッターの理論に立脚しています。このイベントのサブタイトルも「ホフスタッターを超えて」と名づけていますが、森本さんの最新刊『異端の時代』はある意味ホフスタッターがつくった方法を踏まえたうえで、同時に丸山眞男もターゲットに入っているという、大変意義深い内容になっています。

 森本 トランプについてはたしか、以前にも巽さんと鼎談のかたちで話しましたよね。二〇一七年のアメリカ学会で。

  われわれと、アメリカ政治思想史の久保文明さんですね。アメリカ学会の機関誌『アメリカ研究』第52号の巻頭座談会「トランプ政権下のアメリカ合衆国」として発表されました。

 森本 そのときに僕はトランプと陰謀論について話をしましたが、今から考えて少し訂正しておくべきかと思います。それは、テリー・ウィリアムズに倣って「トランプは希代の詐欺師だ」と言ったことです。私は陰謀論やconman――詐欺師――の話が大好きなのですが、トランプをconmanと言うのは持ち上げ過ぎのような気がしてきたからです(笑)。というのも、conmanは力ずくで相手をだますのではなく、スマートで知恵がなければなりませんから。

  『異端の時代』にもconmanという言葉が多く見られますよね。

 森本 巽さんが今回出された本には、本当に圧倒されました。洪水のような情報量だし、それが何度も波のように襲いかかってくる。面白いだけでなく、いろいろと考えさせられました。僕は文学の専門家ではありませんが、文学という虚構が現実のほうをつくり変えてしまっている……それが『パラノイドの帝国』のテーマとなっていると思います。もしかすると、トランプ現象もそうしたカテゴリーのなかで論じられるべきことかもしれないと感じました。つまり、トランプが選挙に勝ったと宣言することは、今ある現実の描写というより、やがて成就してゆくべき予言として、それが現実になっていくプロセスにあるのではないか、という恐怖感です。下院で負けたといっても、ここは日本の衆議院優先と違うところですが、下院は二年しか任期がないから、やはり上院のほうがずっと重みがある。上院は最高裁の判事を指名する権利もあり、最高裁判事は承認されれば終身ですから、トランプ政権が実権を握るという事態は、四年や八年という単位でなく、今後二〇年、三〇年と続くことになる可能性があります。それと、これは以前の鼎談でも聞きましたが、トランプの言っている虚構があまりにも巧みなので、文学者のお株が奪われてしまった、という話が面白かったです。

  ある人物が、アーシュラ・K・ル=グウィンやハインライン、アシモフといったSF作家らはトランプ政権が言っているオルタナティブ・ファクトをこれまでずっと書いてきたのだと指摘したのを承けて、ル=グウィン自身が烈火のごとく怒ったのです。自分がフィクションのなかで書いているのはオルタナティブ・ヒストリーやオルタナティブ・ユニヴァースであり、そこで追究しているのは真実なのであって、トランプの言っていることは単なる嘘に過ぎない、と批判したんです。作家自身が矢面に立つことを恐れずそんな弁明をしなければならないぐらいに、トランプは現代の文学を窮地へ追い込んでいる。

 それは『パラノイドの帝国』を刊行した直後に、ニューヨーク・タイムズの辛口批評家であるミチコ・カクタニが『真実の死』という本を上梓したこととも関連します。そのなかで彼女はトランプが七〇年代~八〇年代に発展したポストモダニズムの理論を政治的に利用どころか乱用していると論じ、その中心人物であった脱構築の巨匠たち、すなわちジャック・デリダやポール・ド・マンへも矛先を向けている。これもとんでもないことで、この二、三〇年のあいだ文学理論を支えてきたポストモダニズム思想までもがトランプへの悪影響として再批判されている。

 森本 大変ですね、文学者というのは(笑)。

  ええ、ル=グウィンのようなノーベル文学賞候補とさえいわれた大作家までが、彼女にとっては思想的には雑魚同然のトランプに反応しなければならないのですから。とはいえ、拙著そのものはトランプという存在だけをにらんで書いたわけではありません。トランプについて言われていることならば、私がこれまで二〇年ぐらい考えてきたことがだいたい当てはまりますので、その都度書いてきた文章を集め、パラノイド・スタイルとして一冊にまとめました。だから、これまでの文章には一貫した論法があったわけです。

  たとえば、現代アメリカ文学の大御所といえばフィリップ・K・ディックとトマス・ピンチョンですが、この二人をホフスタッター理論と絡めるとわかりやすい。ホフスタッターには“The Paranoid Style in American Politics”(『アメリカ政治におけるパラノイド・スタイル』)という未訳の名著があって、皆さんには「パラノイア」という言葉のほうがなじみがあると思いますが、ホフスタッターは「パラノイド」との違いをちゃんと定義しています。つまり、パラノイアはせいぜい個人レベルの被害妄想なんですが、パラノイド・スタイルは国家レベルのそれなんですね。彼らは国家が秘密結社かなにかの陰謀で支配されていると思い込み、やがて極右的になっていきます。パラノイアとパラノイドは個人か国家かの違いになりますが、どちらも一種の被害妄想にはちがいない。前者がディック、後者がピンチョンの主題としたところです。

 森本 しかも、そこに「スタイル」という言葉が入っていますね。単なる個人の一回限りの問題ではなく、同じパターンや型がアメリカ政治の通奏音として現れる、という考え方をホフスタッターは示したかった。

  そこがホフスタッターのオリジナリティですね。彼が「パラノイド・スタイル」と言うときに、たとえばバロックやマニエリスムといった美術史の言葉のように使っているのが面白い。はじめはピンと来なかったと思いますが、今にしてみるとパラノイド・スタイルと呼べる系統の文学作品や映像作品が多くつくられてきています。今回の本は、そうした系統の論考を重点的に集積しました。

記事掲載はここまで。続きは本紙でお楽しみください。
1月下旬以降、全文掲載予定です。

天皇制に鼻血ブー

――いつだって、あたりまえの基礎事実からはじめよう。全員悪人!
評者:栗原康

■このひとをみよ

 さて、本書をよんであらためておもったのは、小田原さんの思想の根っこには親鸞の「悪人正機」があるってことだ。あの有名な「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」である。もうちょっとかみくだいていえば、全員悪人、全員暴走だ。たとえば、小田原さんはお地蔵さまの由来にふれて、こんなことをいっている。それは貧しさにうちひしがれ、泥にまみれてしまった民衆のすくいをもとめる心そのものなんだと。食う物にもこまって、もうどうしようもなくて子どもを死なせてしまった、あるいは殺してしまったお父さん、お母さんたち。せめて、あの世にいってからは幸せでいてほしい。そういうおもいがお地蔵さんのやさしい顔にあらわれているんだという。わが子よ~~。

 でもねと小田原さんはいう。そういう民衆の心がいつも権力にもっていかれちまっているのが問題なんだと。だって、みんな悪いことしちまったなって負い目をかかえているわけだからね、そこに権力がつけこんでくるんだ。近代の天皇制だっておなじこと。天皇は現人神ですよ、みんなのお父さんなんですよ、天皇がみんなをいつくしみ、はぐくんできてくれたから、わたしたちは生きてこられたんですよ、だから陛下の赤子であり、臣民であるわたしたちがそのご恩にむくいるのはあたりまえなんですよっていわれてきたわけだ。陛下のために戦地にいって死んできましょう、それがよいことなんです、道徳なんですと。ほんとうはその天皇にめっちゃ税をむしりとられて苦しんできたはずなのに、そんなことはおかまいなしだ。お国のために、日本という「家」のために善行をつんでいると、罪をつぐなっているかのようにおもえてくる。よりよくなれ、よりよくなれ。絶対正義の名のもとに悪をたたいて善人面。侵略、虐殺なんでもござれ。さからうやつは非国民。ヘイカ、ヘイカァ、ヘイカ~~~! 鼻血ブー。

 だからこそなんだけど、たとえ反権力だろうと反天皇制だろうと、こっちが善人面するようじゃダメなんだと小田原さんはいっている。だって、そりゃ天皇はファックなんだけど、その悪しき道徳が人びとの日常にまで浸透しているからといって、それを根絶しましょう、ふだんから政治的にただしいふるまいをしていきましょうとかいいはじめたら、しちめんどくさいからね。天皇制って敵がでかいぶんだけ、こっちも倫理主義的になっちまう。なんか会話のなかで天皇制についてチョビッとでもブレたことをいうやつがいたら、急にブチきれてはげしくまくしたててしまったり、あるいはひとの日常をただすのってキリがなくてね。なんでもいえてしまうんだ。たとえば、友だちがこまっていたら、なんの見返りももとめずに自分を捨ててたちあがるくらいあたりまえだとおもうんだけど、そういうことでさえ、天皇制につながるっていえてしまう。それは「滅私奉公」みたいな発想につながりかねないんだよってね。ひとをいつくしむ心自体が否定されてしまう。あらゆる感情はキケンである? とりしまれ? 反権力をもとめる人たちが、いつのまにかどぎつい相互監視をはじめてしまう。ザ・権力だ。

 だから、小田原さんはこういうんだ。正義をふりかざし、そこからすこしでもハズレたやつを非国民だとか、裏切り者だとかいってたたくのはやめましょうと。「ひとは常にひとを裏切って生きています。どうも問題はその裏切りの程度だけのようです。そうでなければ人間社会など成立しようがありません。逆に『真実の人』ばかりで人間社会が成立するとは思えません。わたしは『裏切り者』がおり、自分もまたその一人であることを自覚していますので、『真実の人』ばかりの社会など息苦しくてとても生きていたいとは思いません」(本書、一一七六頁)。さすが牧師、いいことをいう。泣きそうだ。いつだって、あたりまえの基礎事実からはじめよう。全員悪人!

 じゃあ、権力にたちむかうにはどうしたらいいか。小田原さんは悪人上等、そのままでゆけという。古代から奴隷のようにあつかわれ、貧しさにうちひしがれてきた農民たち。でも、貧しいからこそ、であえる人たちがいた。全国を放浪しているお坊さんにであえば、わたしもオレもっていって、田畑から逃げだす農民だっていただろうし、あんまし食えなくてもうにっちもさっちもいかなければ、ガキのころからつるんでいた仲間とはなしあって、あれ、年貢をはらうのとはべつに隠し田畑をもてばいいだけじゃんとか、みんなでいっせいにどこそこの領地に逃げだそうよとか、闇にまぎれて領主の館を焼き討ちにすればいいだけじゃんとか、いろいろ悪知恵がうかんでくるんだ。

 もちろん、これは貧しい現状に受動的になっているだけかもしれない。でも、ほんのチョビッとでもその受動性を暴走させてみれば、それまでオレはダメだ、わたしは悪いんだっていって負い目にかんじてきたことがふっとばされている。自分のあたりまえがぶっ壊されているんだ。あれ、権力者なんかにしたがわなくても食っていけるぞってね。オレすごい、オレすごい。だれにもなんにもしばられない、あたらしい自分の生を手にしている。できっこないをやらなくちゃ。もちろん、ひとりじゃなにもできなかったかもしれない、でもワルノリにつぐワルノリに、集団の力に身をゆだねてみれば、まるで讃美歌をうたっているかのように得体のしれない力にいざなわれている、自分でもおもってもみなかったようなことをやらかしている。悪党、与太者、ろくでなし。悪の底をぶちぬいて、正義の秩序を突破しろ。この支配からの卒業だ。きっと小田原さんが賭けていたのは、そういうことをやらかしていく民衆の力だったんだとおもう。エイメ~~~ン、貧しきは幸いなり。全員悪人、全員暴走。どんな感情をもつことでも、感情をもつことは、つねに、絶対的にただしい。花の都のどん底の闇に咲いたる血の花は、罪と罰との泥みずのなかに生れた悪の花。天皇制に鼻血ブー。テメエの正義にくそくらえ。うたえ、なむあみだぶつ! (アナキズム研究)

米国第三波フェミニストに学ぶ、ミクロな性差別への怒り方

――一貫して「女の語りの抹殺」を批判する
評者:海妻径子

 ■本書は『災害ユートピア』の著者レベッカ・ソルニットの、フェミニスト視点によるエッセイ・評論集である。

 いかに男たちが日常的に女性たちを、物知らずで、語っていることが不確かであり、男たちから教えを拝聴せねばならない存在として扱うかを描き出す、書名と同タイトルのエッセイから本書は書き起こされる。男たちはパーティーで、初対面のソルニットに「君は何について書いているの?」と訊き、彼女の得意とする分野に関する自説を滔々と「教示」し、ご丁寧にも彼女自身の著書を(目の前に居る女が著者本人とは思い至らずに)必須参考文献として「助言」する。あるある、こういうこと。どうして少なからぬ男たちは、目の前に居る人が女だと、安心して上から目線で語るのか。

 女の語りが不確かなものとして扱われるからこそ、女からのレイプや暴力の告発もまたしばしば信憑性を疑われるのだ、ということへと、本書の話題は移っていく。さらにそこにコロニアルな貧富の格差が重なることで、問題がいかに深刻化するか。IMF専務理事による、アフリカ移民のメイドに対する性的暴行事件を例に、議論がなされる。

 このような「女の語りの抹殺」を暗喩するような、干した洗濯物に全身を覆い隠されている女を描いた絵画に対する批評へと、ソルニットの筆はさらに移り、歴史の波の間に不可視化された何人もの無名の女=私たちの祖母たちのことを、布をはぎとり糸を手繰るように想起すべきであることが、語られていく。引き続く章では、手繰りよせられ絡みあい、どこにどう糸が延びているのかわからない網や織物のような、ヴァージニア・ウルフの作品についての批評が展開される。「説明しがたいもの」の受容の不/可能性をめぐる議論を経由して、ソルニットの筆は再び、女に対するレイプや暴力、およびそれらについての語りをめぐる男女の対立へと、戻っていく。波がたゆたいつつ、大きな潮の満ち引きをみせるように、気ままに話題を移ろわせているようでいて、一貫して「女の語りの抹殺」を批判するのが本書だといえよう。

 アカデミシャンではなく、ジャーナリストとして骨太の作品をものしながら、同時にフェミニストとしての問題提起もおこなうソルニット。ナオミ・ウルフと似ている、と思ったら、二人はほぼ同世代だった(ソルニットは一九六一年生まれ、ウルフは一九六二年生まれ)。レーガン政権下でのバックラッシュの時代に二〇代を過ごした彼女たちの世代は、ひとまわり下の世代と共にミクロポリティクス志向の「第三波フェミニズム」の担い手として語られることが多いが、しかしそのミクロポリティクスは決して単純な「日常生活への閉じこもり」ではなく、社会に対する抗議とアクチュアリティに開かれたものであることは、本書でも明らかだ。「パーティーでの会話における上から目線での御説開陳」にこそ、女の語りを抹殺し沈黙を強いる、性差別のミクロな実践を見出すことができるのだ。

 比して日本では昨年、ソルニットとは五歳違い・一九六六年生まれの酒井順子が、エッセイ『男尊女子』(集英社)で、性差別に異議申し立てるのではなく男をおだてて世話を引き受けた方が楽、と考える女を批評した。ネットや雑誌の記事で「モテテク・さしすせその法則」(男に対して「さすがですね」「知らなかった」「すごい」「センスいい」「そうなんだ」と相づちを打つと、モテる、というテクニック)というものが紹介されていたりもする。もちろん米国にも同様の「モテテク」指南記事はあふれているのだろうし、日本においても「#女の価値を決めるバッグ」ツィート(ある男の「女のレベルとその人の持つバッグのブランドのレベルには相関がある」というツィートに反発して、風変わりなバッグの写真に「女の価値を決めるバッグ」というハッシュタグをつけSNSに投稿するのが流行した)のような、「上から目線」の男への抗議行動もみられはするけれど。

 それにしても日本では依然、女がストレートに怒ることがタブー視されていると思えてならないし、そもそもフェミニスト・エッセイの書き手が同時に、恋愛や結婚、保育所問題や介護などの「女の領域」に題材を限定することなく、社会派ジャーナリストとして他の様々な問題をも幅広く取材調査して著書を出すことが、あまりにも少なすぎる。エッセイという「身辺雑感」(と伝統的にみなされてきた)の世界に留まる限りにおいて、フェミニスト発言が許されているのだとすれば、それこそがまさに「女の語りの抹殺」の一形態に他なるまい。日本において調査ジャーナリズムは、大熊由紀子や竹信三恵子のような大手新聞記者およびその出身者を例外として、女がなかなか入り込めない「男の世界」であり続けている。

 ソルニットは本書の中で、実にストレートに怒る。「自分たちが抑圧されているさまについて女性が語るとき、決まって男性側から返ってくる「男がみんなそうってわけじゃない」という言葉…問題は、男性たちがよく言う「俺個人のせいじゃない」という言葉や、傍観者の男性が居心地悪く感じなくてもいいように、実際にそこにある遺体や被害者たちから、そして犯人自身から話題を逸らすそのやり方にあるのだ。ある女性が激高してこう言った。「何がほしいの?女を殴ったり、レイプしたり、脅したりしてないから、ご褒美にクッキーでもくれってこと?」」(一五一頁)……ああ、「夫がフラリーマン(帰宅拒否症)にならないよう、妻から夫への家事のダメ出しは控えて」だの、「男にも痴漢冤罪や妻からのDV被害がある」だの、日本では何と「ご褒美クッキー」言説が飛び交っていることか。そう、私たちはもっと女性差別に怒っていいし、怒りの感情をエッセイで噴出させることと、理知的で冷静な調査ジャーナリストであることは矛盾しない。それを本書は、確かに教えてくれるのだ。 (岩手大学准教授)