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 ◆ 3383号(1月12日発売号掲載)

出版とは何かを問い続けた雑誌が消えるまえに

インタビュー:出版ニュース社代表・清田義昭氏

  ■一九四九年の創立以来、出版界の報道機関、情報と言論の場として重要な役割を果たしてきた旬刊誌『出版ニュース』が、今年の三月で休刊する。発行元の出版ニュース社は、出版界・読書界の一年間の記録を網羅した『出版年鑑』の版元だが、同書も昨年八月刊の二〇一八年版で休刊した。七〇年にわたり本の世界をウォッチし続けてきた、出版界の顔ともいえる同社の歴史が、まもなく幕を閉じる。それは、出版界が陥って久しい苦境を象徴する事件でもある。 同社代表の清田義昭氏はいま、出版物の再販売価格維持制度(再販制度)を改めて検証する必要性を説く。再販制度は、出版社が書籍や雑誌の定価を決定し、取次店が書店への配本と返品の流通、集金を担い、書店が定価販売する出版界のシステムの土台である。全国の読者に同一価格で出版物を提供してきたこの制度は、多品種少量生産を特徴とする出版の自由を支えてきた根幹をなすものだが、いま、それが崩れつつある。

 「出版とは何か」を半世紀にわたって問い続けてきた清田氏に、同社のこれまでの歩みを踏まえて話をうかがった。

 (11月26日、東京・神田神保町にて。聞き手・須藤巧/米田綱路〔本紙編集〕)

  ■他の業界誌とは違う『出版ニュース』の位置

 ――出版ニュース社は、戦時体制下の出版統制のもとで国策会社としてできた日本出版配給会社が閉鎖されたあと、国立国会図書館への出版社の納本事務を代行してきた歴史があります。清田さんは一九六七年に入社されました。高度経済成長の真っ只中の時代ですが、入社当時の様子はどのようなものでしたか。

 清田 私が出版ニュース社に入ったのは偶然で、新聞広告を見て応募したのがきっかけです。学生時代から『出版ニュース』を図書館で見たり、その情報をまとめた『出版年鑑』を古書店で買っていたこともあって、自分がやりたいことができそうだと思って同社に入りました。

 当時は社員が一四、五人いましたが、強く印象に残っているのは、当時の社長が言った「『出版ニュース』という雑誌は新聞の文化面に特化して、特に本に関する情報を扱っている」という話でした。入社してからの仕事は『出版ニュース』を出すこと、それから納本事務です。

 一九四八年に国立国会図書館ができますが、国立国会図書館法で納本義務が定められ、出版社は刊行物を納本しなければいけないと義務付けられた。それまでは取次の東販(現在のトーハン)と日販がそれぞれ納本していたのですが、まとめた方が効率的だということで、出版取次協会から委嘱を受けて、出版ニュース社が同協会の分室という形で納本事務を行うことになったのです。

 東販と日販が前半、後半と分けて、毎週月曜日と金曜日に新刊本を持ってきます。月曜日に来た本が、金曜日に収集書誌部の人が取りにきて国立国会図書館に行くのですが、その間に本から書誌データを作り、それをもとに国立国会図書館納本新刊目録として『出版ニュース』に掲載しました。納本事務代行の仕事は無償なのですが、新刊の本が入ってくることによって私たちはリストを作ることができる。『出版ニュース』の半分がそうした納本目録でした。納本事務は88年まで続きました。

 新刊本が月曜日に入って金曜日に出ていく間に、司書経験者がカーボンを敷いて納本のための事務書類を何枚か作った。それをもとに書名、分類別、版元の三枚にカード化して並べる仕事を、朝から晩までずっとしていました。その間に並んでいる本を自由に見ることができますし、そこから選んでブックガイドを書きます。そうするうちに新刊本の知識が頭のなかに入ってきました。つまり書誌情報だけではなく、どういう本がどういう形で入ってきたかが知識として入ってくるわけです。

 ――清田さんは学生時代から「出版社ののれんの研究」に関心を持ち続けてこられたそうですね。出版ニュース社はその実践的研究をする上で、恰好の出版ジャーナリズムの場所ではなかったでしょうか。

 清田 現在はかなり変わってきましたが、日本のアカデミズムで行われている研究をどこの出版社から本として出すかは、アカデミズムの人たちにとってとても重要なことでした。私は学生の頃から、アカデミズムと出版ジャーナリズムの関係に関心があって、この出版社からこういう世界の人たちが本を出している、ということに興味を持っていました。いわば出版社のイメージ論です。

 アカデミズムの世界は出版ジャーナリズムを経由して業績を作ります。出版ニュース社に入ってそれがよく見えてきて、仕事が面白くなりました。出版ニュース社は出版業界の基礎的な情報を作っている会社ですが、そこで自分の関心を生かすことができたのです。

 私が入社した一九六〇年代後半はとりわけ学生運動が盛んで、管理社会批判も強まり、時代が大きく動いていました。『出版ニュース』は業界の情報誌ですが、本をとおしてそうした時代を見ることができて、とても面白かったです。

 ――「「出版とは何か」を考えつづけた四〇年」(山本武利責任編集『新聞・雑誌・出版』ミネルヴァ書房、二〇〇五年所収)のなかで、出版ニュース社に入られた頃の「出版とは何か」をめぐる議論が紹介されています。マスプロ、マスセールの光文社カッパブックスを手がけた神吉晴夫氏と、小部数の専門書出版社で良書とは何かを問うた未來社の西谷能雄氏との論争、箕輪成男氏の「学としての出版」、鈴木敏夫氏の出版評論など、出版とは何かを論客たちが問い続けた。そうした議論ができるメディアは『出版ニュース』以外には見当たらないですね。

 清田 その他、ジャーナリストの鈴木均さんや憲法学者の清水英夫さんなど、多くの人に誌上で出版論を展開していただきました。みんな私より相当年上の人たちで、私はその人たちの出版論を意識的に吸収していきました。その影響もあって、いまだに本とは何か、出版とは何かという時に、アカデミズムやジャーナリズムの動き、批評の世界と出版とがどういう繋がりを持っているのかをまず考えます。それは入社した時からずっと持ち続けている意識です。つまり、出版物はアカデミズムやジャーナリズムや批評を反映するものだということですね。

 仕事をしていくなかで、業界の会合などに出て人間関係もでき、他の雑誌にも知り合いが増えていきました。後に独立ジャーナリスト群団ができますが、その前にいろいろな業界誌の記者の集まりを持っていたことがあります。梅原正紀さんや丸山邦男さんらが集まる情報交換の場でした。私もそこでいろいろな人たちから学びましたが、まだいい時代だった頃の話で、みんな余裕を持って仕事ができていたんです。

 入社して二、三年すると、『出版ニュース』で自分がやりたいことを意識的にプランとして出し、二八歳で編集長になりました。私は年齢より老けて見られたのですが、当時の編集部長だった鈴木徹造さんからは「絶対に齢は言うな」と言われました。あまりに若い編集長だと、対外的に信頼されないと考えたのでしょう。

 『出版ニュース』の編集を続けながら、出版ニュース社がどういう位置にあるのかを考えました。業界紙では『新文化』や『文化通信』があり、当時は『新聞之新聞』が出版関連のことをかなり取り上げていましたし、書評三紙があった。それらとは違う雑誌をどう作っていくかを考えて、出版の業界と図書館、読書界を結ぶという意識をはっきりと持つようにしました。

 ――出版と図書館、書店、取次を結ぶという出版ニュース社の性格は、ルーツである日配から独立したという、創立の経緯とも関わるものだったのでしょうか。

 清田 そうですね。もともと出版ニュース社は日配が前身ですが、日配は戦時体制下の出版物の一元配給機関としてスタートした、国家統制による出版のあり方を象徴する国策会社でした。それが戦後に閉鎖する時、博報堂が主導して、日配の機関誌『出版ニュース』を継承し発行する出版ニュース社ができ、日配の広報の仕事をしていた人たちが実務の中心を担いました。ですから、当時の登記上の社長は博報堂の社長で、設立発起人にはフランス文学者の辰野隆、杉並区長で原爆反対運動に取り組んだ評論家の新居格などが名を連ね、株主構成は博報堂をはじめ朝日新聞、読売新聞、講談社、明治書院、東京書籍など多彩でした。こうした顔ぶれを見ても分かるとおり、創立の経緯は他の業界誌と少し違います。ですから、『出版ニュース』は出版の業界誌であるけれども、他の業界誌とは少し違うという意識で仕事をしてきました。

 日配から分かれたのは取次の東販、日販、大阪屋と、出版健康保険組合、そして出版ニュース社でした。取次は日配の路線に沿った形で、雑誌の東販、書籍の日販と呼ばれていたぐらい、それぞれ特色のある取次としてスタートしました。そして出版健保と出版ニュース社も、それぞれ別の独立した道を歩み始めたのです。

 そうした創立の経緯もあって、“出版ニュース”は創立当初から業界の共通した機関誌のような位置づけでした。納本事務を代行していましたし、たとえばどこかの書店が再販制度に違反した場合は、再販違反を告知する義務があったようで、発表のメディアとして『出版ニュース』が位置づけられたりしました。私たちも業界の機関誌として役割を果たしているという意識がありましたし、いまだにそれは続いています。

 日本書籍出版協会や日本雑誌協会、日本出版取次協会の記者会見などに出て、業界のニュースを告知するのも『出版ニュース』の大事な仕事です。それと同時に、少し引いた形で業界を見ている意識がある。つまり、業界のためにあるというのではない形で業界をウォッチすることが、業界に資するという意識がありました。いい業界誌を持つことができる業界はいい業界であり、そうありたいと私は思っていたのです。

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出版人の精神のありか

――何のために生きるのか、何をなすべきかを野にあって愚直に問うた理念と実践の軌跡
評者:米田綱路

 ■名古屋の出版社・風媒社の創業者で、一昨年に八四歳で世を去った稲垣喜代志氏の遺稿集『その時より、野とともにあり』が刊行された。本書を前に、ふと、生身の本人に相対している錯覚に囚われる。存在感のある面影が浮かび上がってくるようだ。人知れず野に咲く花のような著者との出会いを育み、本に実を結ぶ媒介たらんと苦闘を重ねた、風雲の出版人の軌跡。本書は、折々に書き継がれた文章をとおして、出版に生涯をかけた人間の精神のありか、その動きを伝えるものだ。

 私が図書新聞に入った二〇年余り前、稲垣さんは月に一度は、上京のおりに神田神保町の仕事場に立ち寄った。一人のときも、誰かを連れて来るときもあったが、代表の井出彰を相手に話し込む姿はいつも変わらない。思えば、当時はまだいろいろな人たちが本を手に訪ねてくる場所だった。出版社から移ってきた私などは、その数の多さにまず驚いた。稲垣さんは、上京できないときは電話をかけてきた。本書の随所にしるされる風媒社の理念「心から心へ」は、おりにふれて見聞きした稲垣さんの言葉の端々からもうかがい知ることができた。

 稲垣さんは戦時中、海軍兵学校を志望する“少国民”だったという。敗戦直後の混乱期、農家の跡取り息子だった彼は農林学校へ進学した。「農学校を選んで以来、私はつねに“野”と地続きで生きてきた気がする」と本書にある。在野は観念ではなく労働とともにあった。農繁期は学校を休んで家業を手伝い、ずっと野にあったからである。そして卒業後、転機が訪れる。家出同然で法政大学に入学し、藤田省三や松下圭一のもとで学んだ。稲垣さんの野は、耕すことを原義とする文化の領域へと広がった。そうして法政を卒業し、出版社を経て日本読書新聞に入った。当時の編集長は巖浩(のちに雑誌『伝統と現代』を創刊)、同僚には後に日本エディタースクールを創設する吉田公彦(民俗学者の谷川健一、詩人の谷川雁の弟)、渡辺京二(評論家)、三木卓(詩人)らがいたというから、まさしく書評紙の黄金期、梁山泊時代である。

 稲垣さんは愛知県出身だが、名古屋の人ではない。三河の刈谷が故郷である。そんな彼が書評紙を辞して、名古屋で出版社を始めた理由がおもしろい。当初は「敵地に単身のり込む思い」だったというが、なぜ名古屋だったのか。答えは「バカだから」。「言葉を変えていうなら、中央でだけしかまともな出版がなり立たないという現実がシャクだから」だと、「出版バカの今日と明日」(一九七八年)に書いている。出版社一極集中の東京に比べ、紙代から印刷代、製本代、輸送費まで何をとっても経費は高く、余分に手間がかかる上に流通にもハンデがある。それでも“地方”での出版にこだわるゆえんは、中央の真似をせず、地域を掘り、それを敷衍するためだというのが彼の持論だった。

 風媒社の出版物を見れば一目瞭然だが、同社の志向は決して“地方出版”ではなかった。踏み込んでいえば、地方出版の時代ともいわれた一九七〇年代前後の趨勢とも一線を画していたふしがある。

 七〇年前後、同社はスターリン主義に消された革命とインターナショナル関連の良書を数多く出した。二〇〇一年頃、当時は上前津にあった風媒社を初めて訪ねたとき、私は自分の関心から対馬忠行『トロツキズム』(六七年)やA・バラバーノフ『わが反逆の生涯――インターナショナルの死と再生』(七〇年)、Z・A・B・ゼーマン/W・B・シャルラウ『革命の商人――パルヴスの生涯』(七一年)、そして図書新聞の編集長だった大輪盛登が訳したM・イーストマン『若き日のトロツキー』(七二年)など、同社の既刊本を挙げた。すると稲垣さんは、そんな本はいま読まれないし意味があるとも思えないと否定し、それより君にぜひ読んでほしい本がある、後で送るからと言った。

 手許に届いたのは、瀬尾健著『原発事故…その時、あなたは!』(九五年)と同『チェルノブイリ旅日記――ある科学者が見た崩壊間際のソ連』(九二年)だった。瀬尾は京都大学原子炉実験所「熊取六人衆」の一人で、九五年に若くして世を去った。本書所収の「瀬尾健さんの思い出」に、稲垣さんは刊行の経緯をつづっている。瀬尾が手がけた原発事故のシミュレーションは、福島原発震災を先取りする科学的予見と警告だった。いま思うと、稲垣さんの出版人としての炯眼に驚嘆せざるを得ない。出版の打ち合わせで瀬尾とやりとりをするなかで、彼の原稿がチェルノブイリ原発事故のたんなる被曝実態の調査報告や旅行記ではなく、類まれな科学論・技術論であり人間論、日本の原子力行政への厳しい警告の書であるのを見抜いたからだ。

 稲垣さんは人間論にまで届く出版を志向した。「編集者心理」(九二年)に、「編集者にとってもっとも大切なことは“精神”のありかである」と書いた所以である。何のために生きるのか、何をなすべきかを問いつづけ、愚直に誠実さを持ち続けること、未来への洞察力を培うこと、不正に対する怒りと弱者への連帯を目指すこと。彼は「ユニークな発想とか、企画力があるとかは、それらの次にくるものだ」とも述べる。厳しい経営の逼迫に呻吟し、誠実に生きることの虚しさをかみしめながらも、彼の言葉を借りれば、生来のニヒリズムと農本的楽天主義で乗り切った。

 「胸の奥底に常に志を秘めながら、それの実現がかなわぬことを恥とする心を持っているかどうか、その一点を言いたかった」と、稲垣さんは大言壮語することへの自省も同時に述べた。さかのぼれば、彼は「愚直に生きる」(八二年)に、「身や心を切り売りしながら、“良心”を掲げることのおこがましさ、虚しさ。そんな良心なら要らない。良心とはもっとささやかで懐かしいものであるはずだ」と書いている。そして「底辺に這いつくばってエヘラエヘラしながらも、どこか愚直さを失わないで生きられるかどうか」と自問した。良心の出版など事々しく掲げはしないが、人間にとって最も大切なものは何か、どう生きるかを愚直に問い続けて、本を世に送り続けたのである。

 本書の「四十五年後の夏に」(九〇年)で気づかされたことがある。「私はこれまで出版という仕事を通して、差別、社会的弱者、不正、歪められたものへの怒り、社会的正義の問題を一貫して訴えつづけてきたつもりである。スターリン主義批判もその一つであった」と稲垣さんは書く。つまり、彼にとっては原発批判もスターリン主義批判も別の事柄ではなく、一貫して社会正義の追求、いのちの尊厳を守るという問題だったのである。その実現のために出版の種を蒔き続けることが、風媒社の理念と実践だったのだ。

 思い返せば、稲垣さんにすすめられてインタビューに出かけ、貴重な話を聞くことができた。脳死・臓器移植が始まるなか、五島幸明編著『持ってはいけない! ドナーカード――臓器提供現場からの警鐘』(二〇〇〇年)で名古屋に五島医師を訪ね、氷川剛著『医者に復讐せよ!』(〇三年)を手に豊橋に氷川氏を訪ねて話を聞いた。また『環境漁協宣言――矢作川漁協一〇〇年史』(〇四年)で一〇〇年史編集委員会の古川彰氏を関西学院大学に訪ねて話を聞いた。いずれも稲垣さんの援助で実現したものだった。

 稲垣さんは出版方針の一つとして、「野にあって人知れず見事に生きている人びとの生きざまを特定のイデオロギーに拘泥せず、なまの記録としてとどめたい」としるした。思えば、風媒社のそんな本に導かれて、人を訪ねてきたことに改めて気づかされる。大阪の猪飼野に金蒼生さんを訪ねたとき、手にしていたのは彼女の『わたしの猪飼野――在日二世にとっての祖国と異国』(八二年)だった。そして鹿児島に清水哲男さんを訪ねたとき、手許にあったのは彼が京都の少年時代をえがいた『少年ジェットたちの路地』(九四年)だった。いずれも風媒社から出た、各人の最初の本だったと思う。それぞれインタビューには欠かせない貴重な記録だった。

 私のような後発者の、ほんのささやかな関わりだけでも、このように挙げていけばきりがない。長い付き合いをされた方々はなおさらであろう。本書の多くを占める陶芸家の加藤唐九郎との交友史と評伝は、唐九郎をえがきながら稲垣さん自身の人柄がにじみ出る、実に味わい深い人間論である。その内容は措くが、これまで述べてきた出版人・稲垣喜代志の真髄を知るにふさわしい。一読をすすめたい。

 こうして彼亡き後も、「心から心へ」の理念は数々の本を媒介に、文化の種を新たな野に蒔き続けていくのである。

 (本紙編集)

「忘却の口」=他なる記憶の穴へとはいりこむ

――「信頼」への「信頼」を忘れていたかもしれないことに、わたしたちは本書を通じて気づくことができる
評者:渡邊英理

 ■本書の帯には「広島学を起動する」という言葉がある。この言葉の真意を、編者のひとりである東琢磨は「むすび」のなかで明かしている。「本書をつくっていくなかで、私は「水俣学」のような「広島学」がなぜ成立してこなかったのか、また、それが今からでも立ち上がってくる可能性はあるのだろうかということを漠然と考えていた」。この「広島学」の欠落という現状認識に、意外の印象を受けるかもしれない。原爆の被害に遭い、平和公園や原爆資料館をもつに至った「平和都市」・広島では、戦争体験を受け継ぐ試みがなされ、記憶をめぐる思索を通じて「広島学」が深められている、そう考えられがちだろう。だがしかし、東は「記憶」と「体験の継承」を訴える「広島の実態はむしろ、「忘却」にその本質を見出さざるをえない」のではないかと吐露する。これが本書のタイトルの所以である。

 広島の「忘却」のひとつは、本書のなかで東と小田智敏らが言及するように「平和の軸線」が体現している。「平和の軸線」とは、広島市を東西に走る平和大通りに直角に交わる軸線であり、平和公園を南北に貫き慰霊碑と原爆ドームを一直線に結ぶ主軸である。コンペによりその設計者となった丹下健三は、平和公園に戦中の「大東亜共栄圏記念公園」の直線モデルを流用した。平和公園に丹下が与えた「平和の軸線」を、東は「天皇へのまなざし」であると同時に「戦前から一気に反転しての「平和」の直線」であり、「「核の平和利用」ならよしとする」ような「大義のためにはあらゆることを忘却して突き進む直線」であると読む。それは、在日朝鮮人をはじめ旧植民地出身者をふくむ広島での原爆や戦争被害経験を「唯一の被爆国」のそれに領有する記憶ともつながっている。戦前に軍都であり学都でもあった広島で蓄積された知が、戦後の「平和都市」でも連続していたことを明らかとする小田の論考は、知的言説における「忘却」の一直線を緻密に描きだすものだ。

 東は、広島で「平和の軸線」の下で「バロック」のように蛇行し迂回する河たちの流れに身を委ねようとする。本書は、その河たちの流れのように、「忘却」の一直線(支配的・規範的な記憶)から零れ落ちた記憶の欠片を拾遺し、また生きていくために忘却せざるをえなかった記憶の避難所ともなった「忘却の口」=他なる記憶の穴へとはいりこむ。出来事の数量的還元から離れる「脱集計化」を縦糸に、また出来事の自己中心的語りから遠ざかる「脱中心化」を横糸に川本隆史が提唱する「記憶のケア」は、この蛇行と迂回の多数で複数の記憶の河をいくひとつの方法である。本書は、そうした蛇行と迂回の、それぞれの「現場性」のなかでの多数的で複数的な実践の記録である。

 「平和都市」広島を「諸関係の特定の布置」と捉え、その布置を文化から空間へという説明変数から解明しようとする仙波希望は、広島が「平和都市」になる過程を理念創出とその土地への転写という動的なプロセスとして明らかにしている。その作業は、「復興」のシステムのなかで場所に重ね書きされる「平和都市」自体の複数性を示すものであり、ゆえに「書き直されていない」もの、あるいは消された痕跡の痕跡を探し求める行為にわたしたちを誘う。西井麻里奈が立ち退きを要求された人々の「陳情書」から掬い/救いとる多義的な声、鍋島唯衣が原爆資料館の被曝再現人形問題から迫る原爆の記憶をめぐる紆余曲折は、仙波が描いた「復興」の空間を生きた人々の具体的な経験であり、その痕跡である。それら「復興」を生きた生身の身体や生々しい声は、あらかじめ反動的でも革命的でもない一定の方向に未だルートづけられない人民の蠢きを感じさせずにはおかない。

 本書はまた広島や原爆をめぐる文化表象に、さらには広島での多様な文化実践に別の「忘却の口」=他なる記憶の穴へと至る迂回路を見出している。柿木伸之は石原吉郎、栗原貞子、原民喜らの詩的言語において、井上間従文は諏訪敦彦らの映像表現においてそれを行う。片岡佑介は、理想の被害者像を体現し日米双方の加害を隠蔽するマリヤ像の表象機能に着目し、加害と被害の輻輳性を内容形式両面で示す長崎の原爆映画、熊井啓『地の群れ』の批判性を明らかにしている。上村崇と峰崎真弥が江田島で行う哲学とアートの対話実践は、「だらしなさ」という身体性で規格化された街や記憶を揺さぶる。ガタロ+ハルミ(+松崎めぐみ)によるパフォーマンス「恨と飯」は、「あらゆる問題が圧縮・凝縮された」広島のなかでも最もその密度の高い基町で行われる。ガタロ+ハルミにとって清掃と看護という労働の現場でもある基町で行われるそのパフォーマンスは、生きるため(「飯」のため)の忘却とそれでもなお生き延び取り憑く記憶=「恨」、あるいは生きること=「飯」と表裏の記憶=「恨」のありようを示し、複数の「百年の孤独」=他の記憶に共振する押し開かれた身体性を感受させる。

 在日朝鮮人の女は赤い何かを「ムンチ」する(和える)。河童はそれを食べる。ここには、なにも持たない者による歓待の経験が簡潔に示されている。赤いものは内臓だという。他者にさしだすものをほとんど持たない者が、それでも他者をもてなすとき、その歓待は絶対的なものになる。ここで迎えられる者もまた、無所有の河童である。内臓を食べた河童を在日朝鮮人の女は背負う。この奇妙なもてなしは、河童、猿猴、道祖土など他者たちを無条件に受け入れる歓待であり、その背負いあいは「恨と飯」を通じた異族たちの交歓である。

 「あとがきにかえて」に東の次の言葉がある。「わからないということがわかり、忘れていることがあるということを記憶し、知らないことがあるのだと知る、のだ。一般論としてもいいうるが、こと「戦争」であるとか「原爆」であるとかジェノサイドとはそうしたことなのだ。わかりようのないことが起きてしまうのだから、それだけでも絶対にしては、させてはいけないことなのだ」。このある種「当たり前」のことへの深い「信頼」から、他なる者への歓待や異族たちの交歓も生まれてくる。その「信頼」への「信頼」を忘れていたかもしれないことに、わたしたちは本書を通じて気づくことができる。

 (静岡大学准教授・近現代日本語文学)