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 ◆ 3385号(1月26日発売号掲載)

世界水準の研究

――二月革命からロシア革命を照らし出す
評者:池田嘉郎


 ■和田春樹『ロシア革命』が刊行された。注や参考文献なども含めれば、六〇〇頁弱の大著である。もとになった和田の論文「二月革命」(江口朴郎編『ロシア革命の研究』、中央公論社、一九六八年)も長かったが、量は比べものにならぬほど増え、質もまたいっそうの拡充を見た。この間に公刊された史料・研究は網羅的におさえられ、ロシアとアメリカのアーカイヴ文書も活用されている。世界水準の研究として、和田のライフ・ワークの一つが完成したのである。大部の学術書であるにもかかわらず、明快な構図、生彩ある人物描写、史実発掘の面白さに富み、大いに読みやすい。

 本書は二月革命から照らし出すロシア革命研究である。一九一七年のロシアでは、二度の革命が起こった。はじめに二月革命によってロマノフ朝の専制が倒され、西欧型の社会を目指す臨時政府ができた。次に一〇月革命によってこの臨時政府が倒され、社会主義を目指すソヴィエト政府ができた。ロシア革命研究が盛んであった一九六〇年代・七〇年代に関心の焦点となったのは、一〇月革命である。これに対して、今日では多くの研究者が二月革命にあらたな関心を向けている。民衆ではなく有産層が、社会主義者と民衆がつくった評議会ソヴィエトではなく、有産層が主力をなした国会と臨時政府が舞台の中央に躍り出た。

 今日の二月革命研究の動機は、研究者によって様々である。新史料の発掘と新解釈の提示によって学界をリードしているロシアのニコラーエフの場合、ロシア革命が当初もっていた可能性を再検討したいのであろう。二〇〇二年の著書『二月革命における国会』から二〇一七年の二巻本『国会革命』まで、彼が強調するのは有産層を主体とする国会議員たちこそが二月革命の主役であったということだ(彼の見解の概要は、評者の責任編集になる『世界戦争から革命へ(ロシア革命とソ連の世紀一)』、岩波書店、二〇一七年、所収のアンドレイ・ニコラーエフ「二月革命――帝政エリートの反乱」によって知ることができる)。

 アメリカの長谷川毅も、一九八一年に出た二月革命研究の古典を大幅に増補・改稿し、初版にはなかった副題を付して、Tsuyoshi Hasegawa,The February Revolution, Petrograd, 1917:The End of the Tsarist Regime and the Birth  of Dual Power(Brill:Leiden, 2017)として二〇一七年秋に刊行した。長谷川は二月革命で生まれた秩序がいかに不安定であったかを強調する。彼によれば、ペトログラード・ソヴィエト指導部は権力掌握など考えていなかったが、労働者・兵士大衆の圧力によって、臨時政府全面支持から条件付き支持へと態度を変えざるをえなかった。ここから生じる不安定さが、さらなる動乱へと道を開いていったのである。

 評者も『ロシア革命――破局の8か月』(岩波新書、二〇一七年)で、二月革命で生まれた臨時政府を主役とした。立憲制や私的所有権を奉じた政権が、民衆の要求が高まる中でいかに崩壊していったのか、西欧型秩序への軌跡とは異なる道に、革命ロシアはいかに踏み入っていったのか。これが拙著の問題関心であった。

 ニコラーエフ(潜在的に)、長谷川、評者のいずれも、一〇月革命を崩壊や破局といった観点から見ていることでは共通している。二月革命はその破局の位置を見定めるための視座なのである。和田の本書は、こうした歴史観とは一線を画する。和田にとって二月革命と一〇月革命は、変革を求める民衆運動の太い線によってともに貫かれているのである。民衆運動の役割を強調する点で、本書のロシア革命像は元になった一九六八年論文の視点を引き継いでいる。だが、本書はオーソドックスな民衆革命像を単に打ち出しているのではない。むしろ、基本的な枠組みをなすのは、一九八三年に和田が提起した現代史認識「世界戦争の時代」論である。冷戦を含む三次の世界大戦の時代が二〇世紀であり、為政者は総力戦に備えるために社会を改造し、諸々の支配に抗する運動もまた総力戦との関係で自己を規定せざるをえない。これが「世界戦争の時代」論である。本書では、この「世界戦争の時代」論の中に、ロシア革命の民衆運動も位置づけ直された。それは「反戦・反軍の」民衆革命という言葉に集約的に表されている。序章で和田はこう記している。「一〇月革命は、反戦・反軍の革命として、民衆の観点からすれば、二月革命ではじまった反戦反軍・平和の革命を完成するものであった」「このように見れば、二月革命こそ、ロシア革命のもっとも根源的な革命であったと言うことができる」(一九頁)。これが本書の基本的な立場である。二月革命に焦点を絞りながら、『ロシア革命』と題した理由もここから明らかであろう。


 民衆運動を重視するとはいえ、それだけで二月革命を論じることはできない。一九一七年二月末に首都の街頭に労働者と兵士が流れ出し、政治情勢が流動化したときに事態の帰趨を方向付けたのは、国会議員や在野の社会主義活動家であった。彼らは民衆とは異なって政治的教養を身に着けた、当時「公衆」と呼ばれた人々である。社会主義活動家は「公衆」の周縁部にいたといえよう。皇帝と官僚団が独占する官界から排除されている「公衆」は、一九世紀の終わり頃から専制体制の変革を目指して、粘り強い活動を繰り広げてきた。高等政治の分析に長けた和田は、彼らの動向を丹念に追い、その内面や個性にまで切り込んでいく。

 第一次世界大戦の戦況が悪化し、ニコライ二世による恣意的な統治の弊害が明らかになるにつれて、「公衆」さらには体制側エリートの一部でも、状況を打開するためのいくつかの試みが動き出した。それらは秘密裏のものであったから、史料もいきおい間接的なものが増える。和田は回想や証言等を突き合わせることで、そうした試みの実態を明らかにする。史料の出所や信頼性の検証も行なわれるので、読者は歴史家の作業過程を追うことができる。体制側エリートである皇族や大貴族はラスプーチン暗殺を決行するが、そこへのイギリス秘密情報機関の関与をめぐる検討はスリリングである。あるいは「公衆」のうち、共和政まで突き進むことは望まない人々は、軍事クーデターによるニコライ二世の退位、皇太子アレクセイへの譲位を追求した。そうした動きの中心にいたグチコフたちの構想や人間関係が、これまで注目されなかった点も含めて検討される。

 「公衆」のうちにはもう一つ、共和政革命の路線があった。その中心にいたのは左派弁護士のケレンスキーである。彼は社会主義者から自由主義者にまで至る政治連合をひそかにつくりあげた。主体として状況の打開に挑み、できるだけ可能性の幅を広げようとするケレンスキーの努力に、和田は共感しているように見える。ケレンスキーがつくったネットワークはフリーメーソン結社の形をとった。政治的自由が厳しく制限された帝政ロシアでは、それが有効な選択肢だったのである。ケレンスキーとその盟友ネクラーソフ(自由主義者左派)、コノヴァーロフ(同上)の人的結合は、本書の元になった一九六八年論文でも先駆的に指摘されていた。本書はその後研究の進んだフリーメーソン結社について、遺漏なく叙述している。

 軍事クーデター路線と共和政革命路線は、ニコライ二世の除去による政治変革という目標を共有し、人間関係においても重複していたが、競合する関係でもあった。「公衆」内部、あるいは和田の言葉を使えば「市民革命」を目指す勢力内部のこの二大潮流を明確に区分して論じた点は、諸研究と比べての本書の特徴である。

 では、総体としてのこれら「公衆」の活動と、一九一七年二月に街頭に溢れた民衆との関係はどのようなものであったのか。和田の構図はこうである。「二月革命は、一九世紀の幕を閉じた最後の市民革命であるとともに、世界戦争の世紀である二〇世紀の幕を開いた、反戦・反軍の民衆革命のはじまりであった」(四九三頁)。和田が「市民革命」というときに念頭にあるのは、一九世紀西欧における都市有産者(≒有権者)層としての「市民」である。マルクス主義における「ブルジョア革命」「ブルジョア」に多かれ少なかれ対応するであろう。政治的自由を第一の目標に掲げる「市民革命」は、西欧では一九世紀半ばまでに頻発し、制度改革を通じて世紀末までにその課題は基本的に果たされた。だが、専制君主制の「ながすぎた支配」(二二頁)が続いたロシア帝国は、政治的自由の実現を見ぬままに二〇世紀に入ってしまった。トロツキーであればブルジョア革命とプロレタリア革命という用語を使って遅れたロシアの課題を説明するところである。これに対して和田は、一九世紀的な「市民革命」と、世界戦争の世紀における「反戦・反軍の民衆革命」として、独自の近現代史把握を打ち出している。本書においては、この二つの革命が交差することで、ロシア革命の構造をなしているのである。


 通常、二月革命の事件史の叙述は、国際女性デーの一九一七年二月二三日に、ヴィボルグ地区の女工が街頭に出たところから始められる。だが、和田は国会の再開日に予定されていた二月一四日こそが、諸事件の発端であったとする。軍事クーデター路線と共和政革命路線の人間関係の結節点にあった、中央戦時工業委員会の「労働者グループ」が、革命の開始を目指してこの二月一四日に国会に行進するようアピールを出したからである。行進は警備体制に阻止されたが、「戦闘的な労働者に(…)積極的な行動への抑えがたい意欲をかきたてたことは間違いない」(二四九頁)と和田は見る。この日を二月革命の発端とするのは本書の独創的な点の一つであり、実際そういう見解に立つのは各国の代表的な研究者のうちでも和田だけである(拙稿「ロシア革命研究の最先端――各国の歴史家はどう見ているのか」、『ユーラシア研究』五七号、二〇一八年、を見てほしい)。和田がこの日を重んじるのは、二月二三日に始まる民衆の街頭行動に押されながら、「市民革命」派内部の二つの路線の競合が亢進していく、そうした過程としての二月革命の起点をここに見出すからである。

 二月二三日から二七日にかけての労働者の街頭行動、警察と軍隊の対応については、公刊史料はもとより、ペテルブルグのロシア国立歴史文書館にある保安機関の報告書や、アメリカのコロンビア大学とフーヴァー研究所にある亡命者の未公刊の回想も活用される。二七日に守備隊の兵士が反乱するに至り、国会議員(ケレンスキー、ネクラーソフ、コノヴァーロフたち共和政革命派もいたし、軍事クーデター派の元議員グチコフに近い人たちもいた)は国会臨時委員会をつくり、社会主義者は労働者と兵士に呼びかけてペトログラード・ソヴィエトをつくる。軍事クーデター路線と共和政革命路線の駆け引きが、軍指導部も巻き込みながら本格化する。国会議員を一体的に捉え、その革命性を強調するニコラーエフに対して、和田は二つの路線の競合によって国会臨時委員会の行動が鈍ったことを指摘する。従来の研究が無視してきた、共和政革命路線を後押しするためのコノヴァーロフの動きも和田は掬いとっている。

 ニコラーエフが国会臨時委員会とソヴィエトの協同関係を強調し(拙著もそれにならった)、長谷川がソヴィエト指導部の態度の曖昧さを重視するのに対して、和田は国会臨時委員会とソヴィエトの対抗関係をより重く見る。さらに、そのいずれも内部に「さまざまな路線」を抱えていたと和田は記す。「ブルジョア市民の革命の側には」、グチコフに近い国会議長ロジャンコの「動きがあり、これが成功すれば革命は軍事クーデターに引き戻されたかもしれない。その一方で、労働者兵士の革命〔民衆革命〕には、軍隊民主化を急進させ、戦争反対に向かう動きがあり、これが進めば戦争続行を求めるブルジョア市民の革命との衝突が避けられなかった」。かくして「このような内部分裂を抱えながら(…)二つの革命が協定を結んで、革命権力を創り出す決定的な瞬間が近づいていた」(三九二―三九三頁)。こうして二月革命は臨時政府を生み出した。その主体となったのは、「市民革命」勢力中の共和政革命派であった。だが、彼らは戦争を終えることはなかった。講和を求める「民衆革命」は、これからむしろ高揚していくのである。


 本書の叙述は一九一七年三月二五日の革命犠牲者追悼コンサートで終わる。だが、それ以降の展開についても、和田は明快な展望を与える。先に引用した、「二月革命は、一九世紀の幕を閉じた最後の市民革命であるとともに、世界戦争の世紀である二〇世紀の幕を開いた、反戦・反軍の民衆革命のはじまりであったのである」という文章に続けて、和田はこう記す。「この民衆の反戦・反軍の革命が、ブルジョア市民の革命との共同の成果である臨時政府を押し倒したのが、一〇月革命である」(四九三頁)。つまり、二月革命から一〇月革命への過程は、「反戦・反軍の民衆革命」の盛り上がりとして捉えられる。拙著を含め、一〇月革命の破局・崩壊の側面を重視するロシア革命観が優勢になる中で、和田は民衆革命の到達点としての一〇月革命というオーソドックスな見方をはっきりと打ち出している。

 この相違自体は解釈の問題であるが、「反戦・反軍」という「民衆革命」の規定については立ち入った検討が必要である。まず、二月革命の局面において、果たして民衆運動は「反戦・反軍」であったのかという問題がある。和田は一九一六年一〇月の前線・首都の兵士の抗命(七九―八三頁)を重視するが、二月革命そのものの過程では、反戦のスローガンはボリシェヴィキなど少数者が掲げただけであった。街頭運動の中心的要求は、「パンをよこせ」から「専制打倒」へと展開したのである(二六三、二七三―二七四、二八五頁)。だから、二月革命の局面だけを取り上げるならば、「反戦・反軍の民衆革命」と呼ぶのは難しいようにも思われる。

 他方、二月革命の民衆運動が潜在的にそうした方向性をもっていたのかどうかを問うのであれば、見え方は違ってくる。とくにペトログラード・ソヴィエトが三月一日に出した「命令第一号」は、戦争の継続は否定しないものの、兵士に対する将校の権威を解体することで、ロシア軍の戦闘継続能力を著しく低下させたのだった。くわえて、三月以降を見るならば、ペトログラード・ソヴィエトの三月一四日の宣言「全世界の諸国民へ」を皮切りに、一〇月革命に至るまで講和の問題が政治過程の最重要問題となったことは明らかである。したがって、二月革命における「民衆革命」を「反戦・反軍」と規定することは、シェーマとしてはありうる。

 その上でなお、第二に、一〇月革命以降に目を向けたとき、「反戦・反軍の民衆革命」の盛り上がりというロシア革命観はどこまで有効かという問題がある。和田は一〇月革命以降の展望について、ごく簡単に次のように示している。一〇月革命を成し遂げても、「現実を直視すれば、ロシア革命は、民衆が望んだ平和で軍隊のない社会をつくりだすことはできなかった」。ソヴィエト政府による全面講和の呼びかけは連合国に無視され、ドイツ軍はロシア領内に侵攻し、ロシア軍はすでに解体している。「そこで世界戦争からロシアを救うには、社会主義をめざして、革命戦争を戦うほかないという、〝レーニンによる第三革命〟が発動されることになった」(一九頁)。「権力を握ったレーニンの政府が、一九一八年一月に憲法制定会議を解散して、内戦を通じて、第三の革命である社会主義革命を開始するのである」(四九三頁)。和田は、この「第三の革命」によって、「二月革命の願ったところ」とは「異なる方向に向かう、ロシア革命の新しい章がはじまったと言わなければならない」(二〇頁)と述べる。

 しかし、たとえ「二月革命の願ったところ」、より正確にはそこで「民衆革命」が願ったところが反戦・反軍であったとしても、二月革命から一〇月革命までの現実の過程をそうした希求のみに収斂できるわけではなかろう。そこで最大の焦点をなしたのは、たしかに戦争と講和の問題であった。だが、この八カ月は、戦争終結に向けた様々な方策――戦勝によって終戦を実現するというケレンスキーや、連合国と協議するという穏健社会主義者のものを含む――のうち、臨時政府打倒というレーニンの最も極端な選択肢のみが残ってしまった過程、評者の見方では破局の過程なのでもあった。そして、そうした極端な選択肢は、戦争からの一時的な離脱こそ可能にしたものの、内戦および連合国による軍事干渉の直接の発端ともなったのである。そう考えるならば、二月革命から一〇月革命までを「反戦・反軍の民衆革命」という太い線でつなぐことは、過度に楽観的なロシア革命像を与えることになるのではないだろうか。また、視点をロシア政府の行動に据えるならば、戦争と革命を一体的に追求し、政治的自覚をもった兵士=市民をつくるというケレンスキーの臨時政府の探究が、レーニンとトロツキーのソヴィエト政府に継承されたともいえる。これもまた、第一次世界大戦中の革命、あるいは「世界戦争の時代」の革命として、そうなったのである。


 以上のことから、「反戦・反軍の民衆革命」を、一九一七年のロシア革命における最重要の側面とすることには、評者は留保をつけざるをえない。だが、それは、この概念自体を退けるということではない。和田のこの「反戦・反軍の民衆革命」という言葉は、一見、広範な人々による反戦運動への共感に基づいた、一般的な表現に見える。実際には、それが指し示すものは遥かに遠大なのである。最後にそのことを論じておかねばならない。

 上述の通り、本書では「世界戦争の時代」論の中に、ロシア革命の民衆運動が位置づけ直されている。それはつまり、「世界戦争の時代」論と、それよりも早くに提起された「複合革命論」とを結合するということである。和田が一九七〇年に提起した「複合革命論」とは、ロシア革命を「ブルジョワジーの革命」「労働者・兵士の革命」「農民革命」「民族革命」の複合体として捉える見方である。「世界戦争の時代」論がグローバルな枠組みであるのに対して、「複合革命論」は一国史的であり、この二つの枠組みは和田の仕事の中で必ずしも有機的に結びつけられてきたわけではなかった(詳細は、拙稿「ロシア史研究の中の戦後歴史学――和田春樹と田中陽兒の仕事を中心に」、『史潮』新七三号、二〇一三年、および「和田春樹のロシア革命史研究をめぐって――複合革命と『世界戦争の時代』」、『初期社会主義研究』二七号、二〇一七年、を見てほしい)。

 それが、本書ではようやく、この二つの枠組みの統合が果たされたのである。もう一度、和田のロシア革命規定に立ち返ろう。「二月革命は、一九世紀の幕を閉じた最後の市民革命であるとともに、世界戦争の世紀である二〇世紀の幕を開いた、反戦・反軍の民衆革命のはじまりであったのである。この民衆の反戦・反軍の革命が、ブルジョア市民の革命との共同の成果である臨時政府を押し倒したのが、一〇月革命である」(四九三頁)。「複合革命論」では、それぞれの構成要素は並立されるだけであった。それに対してこの文章では、「市民革命」(=「ブルジョワジーの革命」)は一九世紀に配置されるのに対して、「民衆革命」(=主に「労働者・兵士の革命」)は二〇世紀に配置される。一九世紀には自由主義的な「市民」(都市有産層)社会の形成が課題であったのに対して、帝国主義の時代、「世界戦争の時代」である二〇世紀にあっては、遥かに広範な民衆の自立こそが課題となる。「世界戦争の時代」という大状況がある以上、そうした自立は「反戦・反軍」の要素をどこかで帯びざるをえない。

 さらに、一九世紀的な市民革命は主にヨーロッパにおいて追求された課題であったのに対して、二〇世紀的な民衆革命は先進地域の抑圧下におかれた全地域の課題となった。そう考えるならば、この二つの革命が複合し、鋭く対立したロシア革命とは、ヨーロッパとアジアにまたがった、ロシアならではの現象であった。近現代世界史の縦軸と横軸が、ロシア革命において交差したのである。

 かくして、和田のこの文章は、一九世紀的課題と二〇世紀的課題、ヨーロッパとアジアをともに抱え込んだロシア革命の本質を、凝集して捉えているのである。本書は、和田のロシア革命研究の総決算と呼ぶにふさわしい、堂々の一巻である。

 (ロシア史家)

新興国への規制回避ツーリズムの規制が早急の課題だ

――HeLa細胞の誕生は細胞やDNAへの介入=細胞政治のはじまり
評者:大野秀樹

 ■〈Q.遺伝病を理由に人工妊娠中絶してもかまわないですか。‥A.母体保護法(一四条)では、経済的理由や暴行若しくは脅迫によって妊娠した場合のみ人工妊娠中絶を認めています。しかし、二〇一三年四月に開始された新型出生前診断(NIPT)の検査を受けた妊婦の中で異常が確定し、妊娠継続が出来るかどうかの選択が出来たヒトの実に九六・五%にあたる三三四人は中絶を選んだというデータが存在しています。遺伝学的検査を行うにあたっては、日本産婦人科学会の指針に沿って、しかるべき施設で行うことが望ましいと考えます〉(『遺伝学的教育に関するQ&A集』、公益社団法人日本人間ドック学会遺伝学的検査検討委員会)。

 サイエンスライターの著者・粥川準二は、「健康が問題にされるとき、その客体と主体とは何か?」という問いを立て、(一)「人口または集団」を扱う社会医学や公衆衛生、(二)「個人または個体」を扱う、いわゆる医学全般、(三)細胞やDNAを扱う生物医学(バイオメディスン)、の概ね三つに分類した。(一)は、フランスの思想家・ミシェル・フーコーの唱える「生権力」(かつて専制君主国家で作用していた権力、死に対する途方もない権力ではなく、生に対する権力を意味し、資本主義の発達に不可欠の要因)の二つの形態のうち「生政治(学)」に、(二)は「解剖政治(学)」に相当した。しかし、現在では、三つ目の形態を加えなければならないことは明らかである。そこで、著者は(三)を「細胞(生物学的)政治」と名づけた。すなわち、生権力は、人口を経由して個人を、個人を経由して細胞やDNAを貫きながら、その影響を広く深く及ぼしている、ということだ。

 HeLa細胞の登場によって、人類は初めて、ヒトの細胞を身体ではない場所で扱うことができるようになった。体外受精やクローン技術、ES細胞、iPS細胞、ゲノム編集といったバイオテクノロジーはすべて、細胞を培養することができなければ存在しなかったであろう。HeLa細胞の誕生は、細胞政治の誕生でもあったのだ。一九五一年、ヘンリエッタ・ラックスというアフリカ系女性が、子宮頸がんでジョンズホプキンス病院を受診し、生検を受けた。そのときの病理切片から、細胞培養研究の第一人者だったジョージ・ガイが世界初のヒト細胞株の培養に成功し、彼女の名前からHeLa細胞と名づけた。容易に培養が可能だったために、HeLa細胞は分裂・増殖を続けながら「試験管から試験管へと」世界中を旅することになった。

 HeLa細胞はまだ生きており、標準的な参照用細胞になっていて、分子科学者で研究に用いなかった者はほとんどいない。しかし、それは彼女の許可を得ることなく研究材料になったのだ。彼女の死後、研究のため血液などを提供したラックス家の人々にも、利用されただけで何の見返りももたらさなかった。一方、ヘンリエッタとHeLa細胞の物語が、生命倫理あるいはインフォームドコンセントを誕生させた一因となったようだ。本書の目的は、この細胞政治を全面展開させることにあった。

 ここでは、ES細胞、iPS細胞、STAP細胞などの各論には、紙幅の関係で触れない。重要なのは、代理出産、人工授精、体外受精、出生前診断(冒頭のQ&Aを参照)、受精卵診断、ミトコンドリア置換(三人親体外受精)、体外配偶子形成、生殖細胞系ゲノム編集といった、生殖にかかわる医療技術に共通する問題は、「生まれてくる子どもは、同意することができない」ということである。「妖精はランプから出てきてしまい、再び元に戻すことはできない」(双子研究で有名な心理学者ロバート・プロミン)のだ。一四日ルールというものがある。受精後一四日頃に原始線条[背骨になっていく溝で、胚の生物学的な個体化(individuation)が確かなものとなる初期のポイント]が出現するので、ヒトの受精卵の研究は授精後一四日までと定められている。直接関連するES細胞の扱いが要注意だ。

 著者の最大関心事の一つがメディカルツーリズムである。メディカルツーリズムを患者の出身国と渡航先で分類すると、「先進国から先進国」へ、「新興国から先進国」へ、「先進国から新興国」へ、「新興国から新興国」へ、という四パターンが存在する。「先進国から新興国」へ、というパターンが最も多い。国際的な経済格差が規制の厳しさの違いをもたらしているらしい。つまり、先進国での厳しい規制は、規制回避ツーリズムとしてのメディカルツーリズムを促進しかねない。例えば、不妊のカップルが、人件費が安くて規制の緩い国に渡航することだ。商業的代理出産で、インドやタイがその“メッカ”であることがよく知られている。主に、新興国(へヴン)で実施されている生殖補助医療技術、幹細胞治療、遺伝子治療には、それぞれ倫理上、安全上の問題があるが、患者や子どもの帰国後には、治療や施術に責任をもたない医師が、その後のケアやモニタリングを行わなくてはならなくなる、ということも、規制回避ツーリズムに共通する問題である。

 「先進国」へ、の例としては、米国では「男女産み分け」に関して規制がない、英国では「ミトコンドリア置換」が容認されている、などが知られている。これらに対して、可能な限り早く、国際的なコンセンサスを形成して、それに基づく規制を実施できる体制をつくるべきである、というのが著者の提言だ。

 (社会医療法人財団大和会理事長・杏林大学名誉教授)

本を照らしだす光の箱

――本と絵画のスリリングなコラボレーションをとおして懐かしい風景が見えてくる
評者:寺村摩耶子

 ■本を読んでいるとさまざまな風景がうかんでくる。それは気ままな旅にも似て心愉しいひとときであり、また近ごろではなぜか遠くなりつつあるように思われる贅沢な時間でもある。その風景がなんと向こうからやってきてくれた。『ことばの生まれる景色』。この青い本のなかには四十冊の本が入っている。正確には本の一節とともに、本の風景を切りとった絵とことばが。ありがたくもめずらしい。本書のプロデューサーにして著者は書店の店主である。本の風景を日々目にしている人ならではの本といえるかもしれない。そして画家は独得の風景画で知られるnakabanだからこそ可能になった本だろう。とはいえ。本の絵を描くことと、本を読んでその風景を描くこと。ふたつは似ているようで違う。見えるものと見えないものほどの違いがあるように思われる。しかし画家は描いた。そしてそれらの風景は一冊の書物に纏められることで、虹のように発光しはじめたようだ。パラパラとめくっているだけでもまぶしい。色つきの夢を見ているみたいだ。本が夢を見ているのかもしれない。『百年の孤独』の夢。『方丈記』の夢。『1973年のピンボール』の夢。私はかねてよりこの画家の静物画や風景画に心惹かれてきたのだが。本の一瞬の風景が、ふわりと切りとられている。それでいて深いものを照らしだしているように思われる。四十の本の旅はときに過酷なものだったはずだ(カフカの『城』には笑ってしまった)。だがさまざまな色と明度をたたえた風景は輝いてみえる。本のなかを旅するように描かれた風景に驚嘆し、嬉しくなった。

 まぶしい光はいうまでもなく四十冊の本から発せられるものでもあるだろう。古典から新しい本まで。詩や小説や俳句やクレーの美術論から子どもの本まで。ダイナミックなセレクション。ひらかれていると同時に強い個性が感じられる。「たいせつな本」。そのことは、それぞれの本に付された短いエッセイからも伝わってくる。好きであること。それ以上のブックガイドがあるだろうか。だが本書はブックガイド以前に「本の景色」なのだった。

 『遠野物語』をひらく。「……」(驚きの沈黙)。山男が立ち去ったあとの森だ。かすかに風の気配がする。石牟礼道子の『苦海浄土』をひらく。「沖のうつくしか潮で炊いた米の飯の、どげんうまかもんか、あねさんあんた食うたことのあるかな」。食うたことはないが、潮の香りのする文章が皿に乗せられている。ふくよかな握り飯だ。レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』。あの苦しく美しい小説のような本を読んだのはいつのことだったか。チョコレート色の朝焼けを眺めていると、熱を帯びた文体や本物のマテ茶の強烈な香りまで思いだされてくるようだ。他人の心に映る風景は当然ながら自分のものとは違う。にもかかわらずそこに懐かしさを感じるのはなぜだろう。

 本と絵画のスリリングなコラボレーションはなんと絵本にもおよぶ。アメリカの古典的名作『おやすみなさいおつきさま』。クレメント・ハード版では子ども部屋の室内が描かれていた最後の場面。それをこの日本人画家は夜空に解き放った。本は読まれることで新しくなるのだ。――そんなふうに興奮することしきりだった私は、ふと須賀敦子の『ミラノ 霧の風景』の前で足をとめる。ミルク色の霧のなかにひとりたたずむ女性の遠景。彼女はかつて「コルシア書店」に勤めていた。著者の辻山氏が書店をはじめるにあたって、まっさきに思いだしたのがそのことだったという。須賀敦子は人生の節目にさりげなく現れてくる不思議な人だ。私にとって彼女は何よりもまずすばらしい翻訳者として現れた。翻訳が著作でもあるような本の数々。それらを私は長く忘れており、あるときたいせつな本の数々が「須賀訳」であることに気づいて驚いた。ただそれだけのことであるが。「霧の風景」をとおしてさまざまなことが思いだされてくる。本が本を呼ぶ。既知の本も未知の本もみな懐かしい。

 ことばが生まれてくる景色。そこに思想とユーモアがひそんでいることも忘れてはならないだろう。表紙の絵は四十冊のなかでゆいいつ本の風景そのものが描かれたものだ。一冊の本との運命的な出会い。それが青年の未来を予告しているのみならず、多くを語りかけてくること。凍りついた世界。だがその絵にはあたたかさがある。

 イラストレーションは「光り輝かせる」という意味のラテン語から来ているという。ならば、ページではなく本そのものを照らしだそうとする本書は一種の「光の箱」といえるかもしれない。それは遠い本や懐かしい本を映しだす。パラパラと音をたてながら。ことばとイメージが互いを照らしだしながら。

(エッセイスト・絵本研究者)