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紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

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 ◆ 3388号(2月16日発売号掲載)

「あるがまま」の思想家、鈴木大拙

――不毛である「ゼロ」をどう豊饒である「ゼロ」に変えていくのか
対談:安藤礼二×大澤真幸

 ■清新な折口信夫論などを陸続と世に問うてきた文芸評論家の安藤礼二氏が、大冊の鈴木大拙論『大拙』(講談社)を上梓した。これを機に、本書の持つ射程を十全に照射するために、安藤氏と、『三島由紀夫 ふたつの謎』(集英社新書)を刊行した社会学者・大澤真幸氏に対談していただいた。(対談日・12月26日、東京・高田馬場にて。須藤巧・本紙編集)

 ■鈴木大拙と三島由紀夫が共振する

 安藤 大澤さんは『三島由紀夫 ふたつの謎』(集英社新書)を出されました。三島は十代の頃からスエデンボルグに興味を持ち、「豊饒の海」の主題も仏教的な集合無意識と言うことも可能なアラヤ識です。いずれも大拙の関心と重なり合います。鈴木大拙(一八七〇~一九六六)と三島由紀夫(一九二五~一九七〇)は年齢も生きた環境もまったく違いますが、深く共振する部分がある。明治、大正、昭和、そして平成が終わろうとしている。つまり日本の近代が終わろうとしているかのような現在、その近代の最初を生きた大拙と、最後を準備した三島が行ったことが改めて注目を浴びてくるのではないかと思います。

 大澤さんの三島論を読んで、私はいくつかの点に注目しました。一つは「私」という問題です。例えば太宰の『人間失格』などは「私」を主題とした小説といわれますが、太宰の場合はさまざまな「私」、女性やモノにも憑依して「私」を語りながら、最後には自ら命を絶っていく。三島の「私」、「仮面」を通して告白する「私」は、まさに太宰的な「私」ではないかと思いました。もう一つは、輪廻転生です。さまざまな「私」を繰り返すことでイデアとしての「私」が浮き上がってくる。輪廻転生する実体はイデアである。大澤さんはそう断言なさっている。分身たちが反復することによって、潜在性としてのイデアが浮かび上がってくる。しかも、その浮かび上がってくるイデアは、「ゼロ」にして無限の「海」であると。不毛である「ゼロ」をどう豊饒である「ゼロ」に変えていくのか。素晴らしい観点であり、そこにこそ大澤さんの三島論の核心があると思いました。

 大澤 三島と大拙を比べると、三島のほうがだいぶ年下です。しかし気がつくと、割と似たところにいる。不思議ですね。全然違う旅をしていると思ったら、目的地が同じだったというような。安藤さんは『大拙』で、近代日本の思想にこだわっています。ぼくもそれにこだわっています。「明治一五〇年」が過ぎましたが、その一五〇年を振り返ったとき、きっちりと救い出さなければいけないものがあると思いますが、いまは産湯と一緒に赤子を流してしまっているような状況になっている。三島がその典型で、ぼくは三島が好きなのですが、彼はああいう終わり方をしてしまったから、彼をポジティブに論じようとするとある種の右翼思想になる。左翼の側もなかなかその牙城を崩せない。しかし、ぼくの好きな三島の思索がそういったものに集約されるとは、とても思えません。三島にとって天皇は確かに重要でしたが、しかし三島が求めていたものが天皇である必然性はほんとうはなかったのです。このことを証明し、天皇に集約されないアスペクトをきちんと救い出したかった。そうしないと、日本の近代思想にとってどうなってしまうのかと思う。三島も大拙も日本の近代思想にとって傑出した到達点です。大拙が京都学派に近いところにいて、確かに戦争協力者だったろうけど、しかしそこで大拙が全部捨てられてしまったら、われわれが近代において蓄積してきたものは一体何だったのだろうか。三島にせよ大拙にせよ、一歩間違えば極めて恐ろしいことになってしまうけれども、しかしそこには同時に、日本の近代をグローバルに見たとしても意味を持つような、普遍的な側面があることを明晰に取り出しておく必要がある気がします。

 安藤さんがこれだけの執念で大拙について書いた、その狙いを教えてください。

 安藤 私は折口信夫に大変なこだわりがありました。折口にも戦争の問題があります。さらには詩人でもあったので、客観的な学問の対象としてはほとんど論じられてきませんでした。しかし折口のテクストを読んでいくと、フランスのバタイユやアルトーに匹敵する詩と論理との融合がなされている。その根源には一体何があるのだろうか。折口のテクストが持つ豊かな可能性が捨てられていくなかで救い出さなければいけないものを追究していくと、折口の持つ不可思議な論理性に突き当たります。折口は十代のうちに、アメリカの大拙がやろうとしていたことの詳細を、一人の年長の僧侶を通して知ることができました。折口の起源に大拙がいたのです。大拙の近くには南方熊楠もいましたし、何よりも大拙自身が世界という視点から捉えられる日本思想固有の問題を強く意識していた。私たちはもう忘れていますが、大拙の時代にはまだ不平等条約が改正されておらず、日本は半植民地状態にあった。真の独立を果たすためには、思想的にも独立しなければいけない。大拙にはそうした強い思いがあったはずです。グローバルな地平のなかで自分たちが拠って立つ真のローカリティを発見する。そうしたのが、夏目漱石(一八六七~一九一六)であり、南方熊楠(一八六七~一九四一)であり、西田幾多郎(一八七〇~一九四五)であり、鈴木大拙であった。つまりは明治元年前後に生まれた人たちであった。ローカリティだけを自明視するのでもなく、グローバルをそのまま認めるのでもない。大拙は、そうした人々の代表だと思いました。

 大澤 われわれの感性と知性の背景にある、日本や東洋といったものの九〇パーセントくらいは無意識のうちに身につけていると思います。ローカルであったり固有であったり特殊であったりする部分と、普遍的なものとの関係が気になります。両面が背反しているのではなく、逆に短絡的に直結しているということが、です。例えば鈴木大拙は、日本という東洋から出てアメリカに行く。極めて特殊な人ですが、いずれにしても独特な文化的伝統のなかで生きていた。しかし、「日本にもこんな変わった人がいたよ」というだけでは面白くない。大拙の仕事が、西洋も含めた知や実践の全体的なコンテクストのなかで普遍性を持つことを提示しなければいけない。というか、そのように提示する価値のある人を紹介すべきだと思います。

 三島は大拙に比べれば、海外体験はありません。しかし三島は西洋的な文学や感性に魅かれていて、三島の文学も日本においてはかなり西洋的なものだと思います。しかし、ユニヴァーサルな世界で三島が成功した一番の理由は、そうでありながら同時に三島が日本的でもあったからだと思います。『三島由紀夫 ふたつの謎』でぼくはわざとプラトンのイデア論を出しました。それは日本の話ではなく、西洋哲学全体の土台部分です。しかしそれも三島の日本的な背景がある議論のなかで乗り越えられていくというか、脱構築される。日本の持っているローカリティや特殊性と、その普遍的な意味の混ざり方が一番面白いところだと思うのです。大拙は完全にそうですよね。こんなにインターナショナルな人は当時としては非常に珍しい。しかし同時にこれほど日本の宗教的伝統を「売り」にする人もいない。

 安藤さんは、ローカルな特異性とグローバルな普遍性のつながりについてはどうお考えですか?

記事掲載はここまで。続きは本紙でお楽しみください。
3月下旬以降、全文掲載予定です。

社会構成主義と抽象の力

――読者の中枢=自己から根本的に組み変える可塑的なオブジェクトでもある書
評者:大崎晴地

 ■本書は、二〇一七年に豊田市美術館で岡﨑氏自身が企画した「抽象の力」展の論文を中心に、これまでの論考とともに編まれた大著となる。「キュビズム以降の芸術の展開の核心にあったのは唯物論である」。物質が精神を規定する唯物論の思想は、政治だけでなく芸術にも影響を与えた。なぜ多視点的に断片化されたキュビズム絵画を、さらに文字通り彫刻やレリーフにするのか、またなぜ色彩のない土肌色(アンバー)なのか、といった一般のキュビズムの説明では理解できない問いによって、知覚とその内実(認識)のズレに言及するところから本書が始まる。ピカソの青の時代の頃に描かれた盲人にみられる、手で物に触れることの直接的な触発のように、そこには視覚的に網羅される全体的な見かけ(色と形)とは異なる「部分的全体性」としての視点がある。その抽象の形成は、当時、国際的だったフレーベルの教育メソッドやモンテッソーリによる知的障害児の知能向上育成など、幼児期の積み木や玩具の具体的な物とのかかわりから得られる「事物と事物との交感のプロセス」にある。こうした具体的な直接性は本人のなかで形成されるものであるため、先行研究はあるものの抽象芸術への影響を確認することはできない。それは視点を代えれば、教育メソッドを通じた規律訓練の型にすでに抽象の力が内的に関与していることにもなるように思われる。だとすればその内的な自己の規律規範に対する破壊に向けたダダイズムこそ、ある意味で幼児(ダダをこねる)をやりなおすことを試みたことになるのではないか。

 本書では、芸術家のパートナーが重要な役割を持っていたことに気づかされる。たとえばアルプの夫人のゾフィー・トイベル=アルプは、応用芸術や身体芸術を結びつけ、ある種のクラフト(工芸制作)との関係が強く指摘されたが、これらの芸術は過小評価されてきたために、ダダは「反芸術」と見なされてきたという。女性解放運動にかかわるエレン・ケイ、貧困児童の教育活動に従事していたベネデッタ・カッパ。ダダイズムの真髄とされる「何かを何かが代表することへの反対」における根底には、生活に根ざした身体感覚や触覚、クラフト、また社会へのフェミニズム運動など、「女性たちの思考」が潜在的に重要だったことが示唆される。

 「アヴァンギャルド」が政治用語であることはよく知られているが、本書では芸術家、デザイナー、建築家が政治や社会とどう関係してきたのか、抽象芸術の背後には当然のことながら、作品表現に留まらない精神の射程として、まさに唯物論的な思考や意志と不可分な形態として存在していることがわかる。ともすれば抽象は一般に頭脳的なものとして理解されそれが対象化され固定的に扱われれば、非対称的な権力や暴力ともなってしまう。これがたとえば霧の濃淡の偏差として、きわめてアモルファスな物質を制御する中谷芙二子の仕事になると、その偏差が格差を生み、権力に反転しうる可能性も含めた統治と抵抗の両義性が指摘される。その父、中谷宇吉郎が、雪の結晶が顕微鏡(科学技術)によって捉えられる形の観念により、結晶の研究を阻礙したという話は興味深い。多くは崩れた結晶(奇形)であるにもかかわらず、人々が関心を寄せるのは理念的形態(観念)の完結した美の方にある。宇吉郎はその雪の失敗、奇形の結晶の方に多くの情報があるとしてその構造を研究し、芙二子の霧の彫刻はそうした観念に囚われる人々への批判であるという。こうした人間の視点がもたらした正常と異常の対比は、倫理的問いともパラレルであろう。キュビズムから構成主義へ至る思考が、昨今の社会構成主義への流れに直結していると岡﨑は述べているが、このように科学や芸術の形態学が人々の思考に影響力をもたらすことにもなるのだ。

 イサム・ノグチの慰霊碑《ヒロシマ・モニュメント》のプランのポテンシャルを擁護した岡本太郎が、縄文のエネルギーと「太陽」すなわち原子力を同一化した言説(平和のシンボル)によって、被爆国である日本が核への恐怖を持ちながらも、その批判を解除する役割を果たしてしまったという。「抽象を単なるデザイン的な意匠とみなす偏見」が、このように人々の思想に大きく影響することは、建築やデザインなどのインフラや象徴的なモニュメントであればなおさら問題も大きなものとなる。抽象の力は決して芸術に引きこもる居直りではなく、社会や政治と芸術が根本的に不可分な形態(抽象)にあり、その拮抗する構造を読み解くことは歴史に隠された作家の思考を掘り下げる作業でもある。本書が特異的な作家を取り上げるのも、対象化を拒む抽象の原理的な特徴によることを証拠立てるが、その系譜が明らかにされれば普遍的なものともなるのだ。

  政治と国家は地理的な場所とともにあり、ここで言及される抽象の力は、場所に制限されない共時性(シンクロニシティ)=世界性という芸術固有のネットワークを持つことが強調される。近代科学によって絶対的な空間と時間が支配し、規格化や制度が整備されていくなかで、芸術は唯物論的な不確実性によって抵抗する。しかし、今見てきたように、現代のようにより柔軟な権力の形態化は、グローバルな情報技術の網の目(ユビキタス社会)においては、ますますその政治と芸術の形態(抽象の力)の境界は見分けが付きにくいものとなるのではないか。「アンフォルメル」は芸術の最後の砦として、政治性と距離を持つ無形性を保っていたのだとすれば、本書の終わりに提示される「プライムオブジェクト」(クブラー)は、こうした時代において事物の通訳不可能性から批評を打ち立てるという点で、世界の抽象化(速度)につり合う科学的なメジャーのようでもある。それは人間の社会とは異なる事物そのものの織りなす時空間である以上、具体的な抽象である。人間の進歩史観を解体し、事物の歴史にたまたま今生きて寄り添った「人間」が、どういう仕方で世界(事物)とかかわるのか。本書はその点で、読者の中枢=自己から根本的に組み変える可塑的なオブジェクトでもあるのだろう。

 (美術家)

白波の唯物論は砂浜の表情に戯れ破顔する

――「このわたし」の「存在」の問い、生の意味と価値の情趣
評者:原島大輔

 ■本書の「あとがき」には、対談や座談会で訪れる生の「歓び」について書かれている。編者である北野圭介がひらく対話の場に実際に何度かお邪魔させていただく機会に恵まれたわたし自身はもちろんのこと、この生の交歓は、本書に収録された対談や座談会を通じて貫かれているから、きっと読者にも実感されるだろう。それは、本書でとりあげられているいろいろの「マテリアル・セオリーズ」が、じつはその深いところではどれも、生の意味と価値の問いに応えようとし続けてきたからかもしれない。ときにはそれら「マテリアル・セオリーズ」のあからさまな字面からは抜け落ちることがあったとしても、陰でそれらを支え後押ししているもの、そのダイナミクスは、生の「歓び」だ。あるいは、本書の「序」で提起されているように、それは「このわたし」の「存在」の問いである。

 本書の展望する「新たなる唯物論」は、素朴な物質主義的一元論としての唯物論とは一線を画すものにならなければならないだろう。そもそも「もの」とは何だったのか、その自明性がいま意味不明になっているということに、本書は導かれている。そこで展開されるさまざまな主題はこの意味不明の多様な表現の事例だ。前景に登場するのはポストヒューマンや人新世や情動や人工知能やメディアやプラットフォーマーといった一見すると機械論的な物質主義の問題系だが、それらはむしろ、人間や自然や知識と行為や心と意識と自己や知性と理性と感性や情報、そして生、そういった「もの」たちの意味不明の表現にほかならない。

 だがそんな「もの」、どう学究的に観察記述するのか。いわゆる三人称的で客観主義的な観察記述ではあるまい。それは、一回的な出来事だから、一般的な文体で記述してしまうと、もう書きはじめた地点で全部なかったことになってしまう。だから、一人称的で主観的な観察記述なのだが、そう書いたら書いたで誤解を招くかもしれない。それはいわゆる主観主義的な自分語りのようなものとも違うからだ。むしろ、自我が静まりかえったときにこそよく働く、語られるがままの語りとでも言うべきもので、それが自然と自分の働きそのものになっている、そういう「このわたし」の「存在」の問いが自からリアライズされるのだ。それは近代的人間像の自我は否定するかもしれないが、そのことは人間の機械論的アルゴリズムへの還元というよりはむしろ、別の人間性の自覚なのである。それはいかなる権威も根拠もない無常の世界を自己産出している生命の清々しさそのものに自からなることである。無限の偶然性から意味と価値を自己限定するプロセスの実感である。ポストヒューマンというよりは、ここにいま生きられている素朴な人間性の自覚の問題である。「このわたし」の「存在」の問いはそのようにして問われることであり、その幽玄である。

 本書で言及される芸術家や思想家のなかにはこれを見事な趣深さで表現するものも少なくない。そうした芸術や文学は、創作の活動そのものは非物体的なプロセスだが、成果物としてはパターンとして物体的なメディアに記憶された痕跡である。そうしたいろいろなパターンのなかには、イメージ的な文体の文章もあるだろう。それは生きられた意味と価値がたしかにリアライズされた事実である。そのかぎりではイメージ的な文体の人文学だっておおいに結構ではないか。むしろその方がよいとさえ言いたい。だが、もしそれらがもはやまず味読されえないとしたら。本書ではそんな文体に耽溺することへの深い疑いもまた差し向けられる。いま意味不明と無意味の決定的な岐路にいるのだ。意味不明な「もの」に、そして「このわたし」の「存在」の問いに応えるために、さまざまな同時代人たちを対面でも読書でも歴訪する本書は、いわば時宜にかなった文体をめぐる切実な探究でもあるのだ。もし生きられた現実の自己観察記述なら、ただひとつのかわらない文体に固執することなどできるはずもない。どうしたってそのつどひとつのまたとない臨機応変になってしまうものではないか。

 本書が述べるように、人間のパターン認識や論理演算の能力を圧倒する性能のテクノロジーが日常生活の環境に浸透し、人間的な言語や記号の意味形成よりもはやく、人間的な意味や価値などおかまいなしに、社会の制御に関与している状況についての研究には、たしかに人間的な言語記号中心の「テクスト表象」分析の手法だけでは限界があるだろう。テクノロジーが高度に生活環境に浸透した現代に適応して生きている「このわたし」の「存在」の問いにふさわしい思想の言葉をつくることは重要な課題だ。データ中心主義化が進行しているとき、それをきちんと記述して分析できる概念装置が必要である。だから、たとえば本書が提案する「データ表象」という視点からの観察記述が、文化論の重要な仕事であることは間違いない。ただ、もしそれが表象主義の一変種にとどまり、単純に機械論的で物質主義的な一元論になってしまったら、そもそも文化は観察記述の対象になりえない。文化は表象主義的には問われえない。もし本書の言うように、「このわたし」の「存在」の問いのために「表象概念を根本的に変容」させるなら、まずこのいわゆる表象主義的な表象概念から抜け出さなければならない。本書が表象文化論の極意は表象不可能性にあると指摘する所以だろう。

 「もの」は探せばどこかにあるようなものではない。物質的存在者があるだけでなく人間のような社会的生物もいる。機械論的な形式的なアルゴリズムが自動的に行動しているだけでなく、生命論的なインフォーマルなプロセスが自己産出的に活動してもいる。だから「もの」は物質主義的な一元論の視点からは観察記述できない。物質的視点だけでなく非物質的な情報的視点が重なり合うのだ。機械論的世界観と生命論的世界観の二つの視点が必要だということである。「新たなる唯物論」の真価はこの両義性をどうするかにかかっているだろう。生きられた自己形成がそのダイナミクスだ。「このわたし」の「存在」の問い、生の意味と価値の情趣である。それは、本書のいう対談や座談会の場のわくわくする「歓び」でもある。そして実際、それが編者その人の魅力でもあるのだ。本書はそういう生の交歓に貫かれたひとつの痕跡である。

 (基礎情報学/表象文化論)