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紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

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メカスの震え、怯え、「沈黙の言語」

――どこにもあらわすことのできないようなつらさを魂のなかの鼓動として長生きしたメカス
評者:吉増剛造

 ■詩人・映像作家のジョナス・メカス氏が96歳で亡くなった。追悼特集をお送りする。追悼文を四方田犬彦、廣瀬純、東琢磨、岡本小百合の各氏よりお寄せいただいた。巻頭は、詩人の吉増剛造氏に、追悼として話をうかがった。(収録日・2月6日、東京・高田馬場にて。聞き手・須藤巧〔本紙編集〕)

 ■ジョナス・メカスは生涯の師、友、「恋人」だった

 ――ジョナス・メカス(一九二二~二〇一九年)はユーラシア大陸の西の端、リトアニアで生まれ、ナチス・ドイツの強制労働収容所を生き延び、戦後、流れ流れてアメリカのニューヨークに辿り着きます。そのメカスと、ユーラシア大陸の東の果て、far eastの日本で生まれた吉増剛造とが出会っていた。吉増さんは二月五日付の讀賣新聞でメカス追悼の談話を発表されていて、そのなかでメカスのことを「生涯の師、友」と表現されています。

 吉増 あるいは恋人のような。

 ――その二人の詩人、映像作家はそれぞれペンとカメラとを持つわけですが、その二つはどこまで違うのか、あるいはどこまで重なるものなのか。恋人のような人を喪った吉増さんの声が聴きたいと思いました。

 吉増 いろんな仕草や、メカスの持っている空気、その空気がフワッと動くようにして柔らかく立ち上がってきてね。メカスから心の底から影響を受けた人というのは、飯村隆彦さん、奥さんの飯村昭子さん、あるいはオノ・ヨーコのような、必ずしもメカスのそばにいた人だけではありません。映画、美術、写真、音楽、文学といった文化が一体だったときの――映画でいえば原將人さんや高嶺剛さん、美術だったら赤瀬川原平さんや中西夏之さん、詩と映像だと鈴木志郎康さん、写真だと荒木経惟さん、そういった人たちがメカスから影響を受けている。

 一九七三年にメカスの『リトアニアへの旅の追憶』を観て、映画の生命線に触れるような経験をしました。身体の鼓動になってそれが残っています。一言で言えばメカスの持っている「震え」、臆病なくらいの心の震え、あるいはある種の「細心さ」。ナチスの強制収容所で両親を亡くし、一九七〇年にセーヌ川に身を投じて亡くなった詩人のパウル・ツェラン(一九二〇~一九七〇年)――メカスと二歳違いだ――が持っていた、口ごもって、震えて、怯えて、人が咳払いをすると、それが終わるまで待っていて、それから詩を朗読する、しかも怯えて朗読する――その仕方が、メカスが亡くなってみて、ぼくのなかではツェランと脈を通じ合っている。メカスは、リトアニアからナチスに追われてニューヨークに来た。ツェランはルーマニアに生まれたユダヤ人で、フランスへ行き、自分で生涯を終えてしまった。メカスの持っている震えと怯え、沈黙の核のようなものを動かしていかざるをえないような表現は、脈を通じ合っているとぼく自身も感じていたらしいと、メカスが亡くなってみて初めて気がつきました。メカスの持っている仕草や呼吸などが浮かんできて、彼の声を聴いていて、彼の声のなかに、同時代――同時代なんていう言葉では言えないような、誰にも伝えられないような震え、怯え、「沈黙の言語」があった。あの当時のそれがいまだに脈動している生命線であるらしいということに少し気がついた。そのどこにも行くことができない、生きづらい命をメカスはよくぞ、その後半世紀近く生きたんだなと思いました。

 ニューヨークの、アンディ・ウォーホル、ジョン・レノン、アレン・ギンズバーグ、スーザン・ソンタグ、ロバート・フランク、ナム・ジュン・パイクといった人たちと表現をともにして、そのなかで最も長い時間を生きることによって、アメリカの最も大切な、芸術の隠された震えみたいなものを代表した人として、メカスはおそらく評価が定まるだろうけれど、ぼくはどこかでパウル・ツェラン、あるいはアントナン・アルトー、もうちょっと伸ばしてヴァン・ゴッホなど、極限的なところにまで表現の触手の先端を伸ばしたヨーロッパの人たちとメカスは明らかに共振しているのだろうと思っています。

 メカスが亡くなって以後、毎日のように、彼の仕草や目つきとか、無言の伝え方でぼくにたくさん伝えられていたことを思います。メカスは、ニューヨークの映画の活動の真ん中にいたとか、そういうことではなくて、ヨーロッパ経由で遠い、遠い旅をしてきて、リトアニアというヨーロッパのはじっこからは最も遠いところまで辿り着いて、映画だけではなく、隠されていた苦難の波動を持ってくることによって――メカスにとってもこれは思いがけない出会いだったと思いますが、「メカス日本日記の会」というものがつくられました。中沢新一さんは『リトアニアへの旅の追憶』の配給権を持つほどのファンでしたし、四方田犬彦さんはリトアニア語の「光」( viesos、シュヴィエソース)という一言を覚えれば、私はリトアニア語と友達になれるんだと言っていたりしました。このように、メカスはあるジャンルにおさまりきらないような、とても大事な、遠いところとの奇跡的な接触を果たしえた人だと思います。パウル・ツェランの場合は、詩だし文芸だし、ある意味では哲学だし(ハイデガーにも会いにいっている)、評価が定まってきていますが、メカスの場合は、亡くなってみると、彼が根本的に持っていた、どこにもあらわすことのできないようなつらさを魂のなかの鼓動として長生きし、しかも東洋のはじっこまでその表現の先端を伸ばしてくれた。メカスという人の存在がとても大きな波紋を残したんだ。

 村田郁夫さんの翻訳によって、私たちはメカスの詩集を読むことができるようになりました。メカスが詩人としてのその姿を見せたのは、だから日本でのことだったのですよ。メカスが人と接触するときは、その根源的な震えとともにあるopenness――どんな人にも震えと明るさと恐れをもって接する。そうしたメカスの持っている根底的な、……なんていうかなあ、受難の震えのようなもの、そういうものが、メカスの九六年の生涯を通して、そしてその彼が亡くなることによって、とうとう姿をあらわしてきたなと思います。

 讀賣新聞での追悼でもいいましたが、メカスの映画を観た客がメカスにこう質問した。「Why is your movie so shaky?」(なぜ、あなたの映画はこんなに震えているのですか?)。メカスはこう答えた。「Yes, because my life is shaky.」(それは私の人生が震えているから)。メカスが実際に撮るとき、ムーヴィーカメラなのに一発だけシャッターを押してニヤッと笑っていたりするのね。それが映像になるとそういうかたちをとらざるをえない。しかしそうやって笑っているメカスをまわりの人たちは見ている。それが伝わっていく。それを見たぼくらは、詩のある微妙な休止符の瞬間を見たなと思う。そういう受け取り方をしているの。

 フィルムを止めてプリントしてみる「frozen flame」というやり方をメカスはして、写真集も出しました。メカスは深い時間をかけて、心の震えとともに注意してそれを提出していく。映画人たちは、映像表現からそれを捉えていくかもしれないけれど、アルトーが言うように、ゴッホの画面も、あれはコンマや「、」を打っているのと同じなのだということとかなり通底するように、そうした仕草でなければ世界に触れられないような仕草、挙動、震え、その全体がメカスの一生を通じて私たちの前に提示された。ペン先が紙に触れるのと同じように、シャッターを押すとき、世界に軽く触れるようにタッチしている。それが映画になる。詩になる。パウル・ツェランとメカスは本当に似ていると思います。メカスはここまで長い旅をしてくれることになったのです。それはとても大きなことだと思います。

 いまは時代が変わってしまって、ジャンルごとに分化していってしまったけれども、六〇年代の終わりくらいはもっと沸騰していたわけじゃないですか。中上健次は実際にはメカスと会っていませんが、もしかするとそうした歌声や震えを根源的に持っていた可能性があります。生き残ったから、ぼくがそうした感性的な判断の責任をとってそういうことを言うことができる。

 メカスは九六歳まで生きた。いろんなことを思い出します。メカスのオフィスに行ったら、メカスの後ろに大野一雄のポスターが貼ってあったんだよね。それで、メカスと大野一雄の話をしました。メカスは何人か奥さんを変えていますが、大野一雄を撮りたい女の人と一緒になったこともありました。メカスはとても孤独で何も言わないけれども、芸術の根源的な、注目している震えるような心の根を、終始一貫、間断なく発信していた人だね。

記事掲載はここまで。続きは本紙でお楽しみください。
3月下旬以降、全文掲載予定です。

ギリシア哲学史の見直しを迫る異端の書

――従来のギリシア哲学史観を覆し、「存在」を問い直す
評者:轟孝夫

 ■本書はギリシア哲学を講義形式で通史的に概観する書物である。上巻は一五回の講義からなり、タレスからデモクリトスまでの古代ギリシアの自然哲学者がおおむね時代順に取り上げられている。このように述べれば、本書は何の変哲もないギリシア哲学史の書物であるように思われるだろう。

 しかし実際はそうではない。本書はギリシア哲学史の書物としてはきわめて異例なことだが、ハイデガーの「存在の思索」を全面的に支持する立場から書かれている。ハイデガーの「存在の思索」がギリシア哲学の独自の解釈と不可分であることはよく知られているが、ギリシア哲学研究者のあいだでは彼のギリシア哲学解釈はすこぶる評判が悪い。ギリシア哲学のプロがハイデガーを真に受けることはありえないし、またあってはならぬことなのだ。しかもハイデガーの「存在の思索」はその難解さと徹底した反時代性ゆえに、ハイデガー研究者のあいだでもそのもっとも核心的部分は密かに避けるというのが暗黙の了解となっている。こうした点において、本書はいかなる意味でも哲学研究の主流には属さない、まったくユニークな、異端の書物である。

 日下部氏はソクラテス、プラトンに西洋哲学史の始まりを見て、それ以前の自然哲学をその「前史」と捉えるような正統派の哲学史観に異を唱える。ギリシア哲学の本流はむしろイオニアに端を発し、決して対象化しえない構造的自然、すなわちハイデガー的意味での「存在」を捉える自然哲学の系譜なのである。本書ではギリシア哲学の歴史が、アナクシマンドロス、ヘラクレイトス、パルメニデスらによるこの対象化不可能なピュシスの偉大な把握と、ピュシスを対象として捉え、その根源的な把握を平板化する傾向との葛藤として描写される。

 しかし本書において、ギリシア哲学史における不可逆的な出来事としてとりわけ強調されるのは、存在を対象化する把握それ自体を根本原理へと祭り上げ、ピュシスからの決定的な離反をもたらした、ピュタゴラスによる主観性原理のギリシア世界への導入である。この観点からすれば、ソクラテス、プラトンの哲学もこのピュタゴラス主義のひとつのヴァリアントでしかない。これが巨大な主観性として世界を「前に立てる」ヘブライ的な神の観念と結合し、その後の西洋世界を全面的に支配するようになった、というのが日下部氏による西洋哲学史の基本的な見取り図である。氏のこうした歴史観は大筋でハイデガーの「存在の歴史」の衣鉢を継ぐものだが、主観性原理のギリシア世界への導入にあたってのピュタゴラスの決定的な役割を強調する点で、日下部氏本人も自負するように、主観性原理の成立の謎にハイデガー以上に肉薄しえたと認めることができよう。

 ピュタゴラスの出現とともに、ギリシア哲学は構造的な自然概念と主観性の相克の修羅場と化すことになった。この主観性原理がギリシア世界にもたらした深刻な葛藤をイタリアにおけるピュタゴラス派に対する大々的な迫害、主観性原理に接したエンペドクレスの人格的分裂などに即して描き出す日下部氏の筆致はいよいよ怪しい熱を帯びてくる。主観性原理によって隠蔽されたギリシア哲学の真の伝統を救い出そうとする尋常ならざる情熱に突き動かされた日下部氏は、とうとう一般にはプラトンの『パイドン』でソクラテスに貶された二流の哲学者というイメージしかもたれていないアナクサゴラスを「真に偉大なギリシアの哲学者」と断定するに到るのである。

 以上のような本書の「偏向」は、この書物の「ギリシア哲学の講義」という表向きの体裁が期待させるような標準性、中立性にはふさわしくないようにも見える。しかし本書は古代ギリシア哲学を、その断片資料を適宜、引用しながら、一般にはあまり興味をもたれることのない哲学者にも留意しつつ紹介してくれている点で、ギリシア哲学史の全貌をつかむには好個な書物である。日下部氏の言う「歴史的アプリオリー」、すなわち人間存在やその思考の本質構造の洞察に基づいて、伝記や学説の断片から一個の人間として甦らされた古代ギリシアの哲学者たちは、皆いたって大真面目だが、しかしそれがまたある種の滑稽さを醸しだしている。そうした哲学者の奇異な生きざまの描写が、ところどころに挿入される氏のモラリスト的な警句とともに、本書の読み物としての魅力を形作っている。

 本書に関するこのような「肯定的」評価を、否定性こそ真理だとし、「称賛は友情の断念である」と喝破する日下部氏はむしろいかがわしいものと見なすかもしれない。しかし本書が古代ギリシア哲学の全体像を見事に描き出しえているのも、氏が主観性原理から距離を取り、ギリシア哲学のこれまで見落とされてきた陰の側面に光を当てたことに基づいているのだとすれば、本書の肯定性も結局は、その徹底した否定性、反時代性に由来すると言うことができるだろう。

 (防衛大学校教授)

日本にとって、近代世界にとって太平洋とはなにか

――他者への構想力を押し広げようする意図を確立した好著
評者:佐藤幸男

 ■太平洋を挟んだ戦争が開始されてから77年が過ぎてもなお、戦争に取り残された人びとが救いをもとめている。太平洋にとっての戦争はそれだけではない。戦後の冷戦戦略の傘下におかれた太平洋は、ミサイルの発射実験の基地となり、標的の島となり、核の実験場ともなって環のなかに取り込まれた。そして、現在この地は、マイクロプラスチックが堆積する環境破壊の縮図のなかにある。太平洋はつねにコロニアリズムの延長線上におかれているからこそ、日本にとって、近代世界にとって太平洋とはなにかを問わねばならない。「南洋」研究の批判的な視座がここにある。太平洋がゴミ捨て場のように大国の翻弄されてきた歴史からぬけだし、主体的な語りを手にするには戦争の記憶ばかりか、国家による暴力やその語りを反転させる課題のどのように取り組むのか。他者との共存可能性を追い求めるためにも、戦争の記憶や永続するコロニアリズムを想起する手法が求められるゆえんである。

 そのような問いに応答する試みのひとつに「戦争を知らない若者世代」の現地慰霊祭への参画が近年、増加している。次世代に継承するために戦争の断片的な記憶を紡ぎながら、追体験する営為が慰霊の旅である。また、高知県マグロ被災船の調査資料発掘に立ち上がった地元高校生らが、矮小化されたビキニ環礁における米国水爆実験の情報封印を解いた。その被災者たちの証言記録が昨年末に写真集となって公刊された(岡村啓佐『NO NUKES‥ビキニの海は忘れない』)。太平洋は、日本にとってもはやゴジラやビキニ水着発祥の地ではなくなろうとしている。

 ところで、本書はマーシャル諸島ウォッチュ環礁で、敗戦濃厚な戦火のもとで餓死に追い込まれた宮城県出身の佐藤冨五郎が書き残した日記の全文解読を中心に編まれている。この編さん作業を通じて、冨五郎の長男・勉さんが父の足跡を追って現地に赴き、戦場を隈無く歩き、地元の人びとの多様な声を補助線としながら、他者への構想力を押し広げようする意図を確立した好著である。本紙2018年下半期読書アンケートで日本言語史家の安田敏朗さんも推挙しているように、召集時から餓死するまでのあいだ、2年間に及んで描き綴った戦場日記を中心に、インタビュー、エッセイを散りばめながらマーシャル諸島の現在に読者を誘ってくれる。そこには、日本から遠く離れたマーシャル諸島を知るためには、西洋列強、日本、米国、太平洋島嶼国との関係を歴史的に紐解くことから始まり、太平洋認識の視座転換を促す論考に目を止めながら、南洋移民に象徴される越境的な人びとのつながりに注目する。物語の主体はいつも国民国家の歴史であり、移植民者のライフヒストリーはその補完物すぎないとされてきた視座を転換させたところは見事である。

 日本から4千キロの距離にある「南洋群島」のマーシャル諸島で73年ものあいだに堆積された時間を「歴史」という枠に収め切ることはできない。本書の副題に記されている「歴史実践」とはひとりの人間が「異境」にあって、戦争という惨劇のなかでも生きる苦渋を催告すること、その記憶には生活の営みや太平洋のしおらしい土地の文化のなかで死を考えること,苦難のなかのただ中を歩き、いくとしへるとも忘れない記録を紡ぎ、伝承することが死者の想いへと繋がること。記録に残らないひと、埋もれてしまうひとたちの記憶を語ることはけっしてむかし話ではないことなどを、明らかにすることが、慰霊という実践である。

 国際機関太平洋諸島センターのガイドによれば、マーシャル諸島はオーストラリアとハワイの中間、赤道の北、日付変更線の西に位置し、200万平方キロの広大な海域に5つの独立した島と29の環礁のほか、約1225のサンゴが群生する海域世界とされる。この群島は、南北に平行した環礁が2つの列島(東側をラタック列島、西側をラリック列島)からなり、捕鯨、コプラ、漁業資源に恵まれ、まるで昨年公開されたサモア諸島の豊かな自然と人びとの生活風景をドキュメント化した『モアナ:南海の歓喜』を彷彿させるほどに豊饒な地域空間であったことがわかる。豊かな「資源の呪い」のごとくその裏面では、本書の舞台であるクワジェリン環礁には日本の軍事基地があり、クワジェリン環礁には米空軍基地が、マジュロ環礁には米航空母艦基地が居座った。また、ビキニ環礁やエヌエタック環礁では核実験が繰り返された。移/植民と戦争という二重の歴史による惨劇と向き合う銃後の残響が記憶されていた。本書を通読しながら編者は旅びとのようでありながら、巡礼者のようにもみえた。霊砂を手にした富五郎の長男・勉さんの姿は書籍と上映作品「タリナイ」で環礁に染みついた戦争の記憶を呼び戻そうと格闘してかのようであった。

 (南洋地域研究)