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紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

1949年創刊。硬派な人文書からホットなサブカルチャーまで紹介する週刊の書評新聞「図書新聞」とe-honのコラボ企画!

「図書新聞」の紙面で紹介した書評や、対談記事をご紹介します。【週1回更新】
取り上げる本や評者を厳選し、確かな見識で深く掘り下げた書評は「読み応えアリ」です!
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 ◆ 3391号(3月9日発売号掲載)

「棄民社会」の象徴

――放射能について、福島について、正しい知識や情報をいまだもっていない
評者:増田幸弘

 ■原子力は科学でありながら、非科学的で、宗教に近い

 あの日から、福島のことが心にこびりついていた。日本を離れて暮らし、なにがどうなっているのか、本当のところがどうにも判然としなかったのもある。義妹が原発事故から一〇カ月後、脳幹出血で亡くなったのもある。まだ四〇代だった。弟が仕事から帰宅したところ、嘔吐して倒れた義妹の傍らで、幼子が無邪気に遊んでいた。原発から距離のある埼玉に住み、「ただちに影響はない」と国に言われたところで、小さな子どもを抱える彼女は放射能を極度に怖れた。空気が家に入らないよう、窓という窓を目張りするほどだった。「放射脳」と笑われるかもしれない。しかし、広島と長崎に投下された原子爆弾や、社会主義時代のソ連で起きたチェルノブイリ原発事故について、放射能の怖さを掻き立てる報道が長らくつづいたのだから、福島はちがうとの単純な説明には無理がある。放射能の雨が降り、濡れたら被曝するとささやかれた。不安を抱えた義妹は、相当なストレスを溜め込んでいたと聞く。因果関係はわからない。震災関連死に数えられているわけでもない。時が経つにつれて生きた心地のしなかった記憶がいつしか薄れ、「病気で亡くなった」と気持ちに折り合いをつけているのにも気づく。ぼくに限らず、3・11をめぐってよく似た浄化の経験をしている人は、きっと少なくないだろう。気持ちのもって行き場がどこにもないのだ。

 あれからさまざまな本を読んだ。テレビのドキュメンタリー番組も見た。しかし、知ろうとすればするほど、わからなくなった。混乱するばかりで、ただなにかを痛々しく感じてきた。当初はさまざまな分野で真相に近づこうとする動きがあり、「日本を変えなくてはならない」との気運があった。福島知事だった佐藤栄佐久の『福島原発の真実』(平凡社新書)や、『見捨てられた初期被曝』(岩波書店)など、読んでいてうなずける本も数多く出版された。しかし、せっかくの真摯な本もデマやプロパガンダにかき消されて埋もれてしまい、共通認識になることはなかった。政治家や役人の言葉も、学者や医者の説明も、記者や研究者の書いたものも、あふれかえる情報のなかで、なにが真実で、なにが正しくないのか、見分けるのは困難だった。放射能は安全か危険か、廃炉か再稼働かなど、極端な二択として問題が呈示され、議論は深まらないまま、いつまでも対立した。それは日本各地に原子力発電所がつくられている状況から、広瀬隆が一九八一年に『東京に原発を!』(JICC出版局)と挑発したころから変わらず、繰り返されてきたことである。「反核」などと口にすれば電気を使うなで終わる。原子力という科学でありながら、なんだかとても非科学的で、宗教に近いものがあった。こうしてなにひとつきちんと反論できずにきたことへのもやもやした罪の意識が、原発に対してぼくにはたしかにある。

 3・11のあと、いても立ってもいられず、宮城や岩手の被災地を取材して回った。志津川や石巻、釜石など、被災前の様子をよく知る街を見て呆然と立ち尽くし、いまだうまく言葉にできずにいる。それでも福島の原発に近づくのは避けてきた。立ち入り制限で取材許可を得るのがむずかしそうに思えた。被曝への漠然とした不安もある。いや、正直を言えば、福島と向き合うのを相変わらずただ避けていた。しかし、昨年九月末、浪江町の帰還困難区域で裁判官らが現場検証する報道写真を見て、自分の目でたしかめたいと突き動かされた。避難指示の解除が一部ではじまっているにもかかわらず、写真に写る人はみな、上から下まで白い防護服で身を固めていたからである。「復興」という言葉とは大きな齟齬がある、意外な光景だった。

 意を決して、浪江町役場に取材申請をした。折り返し総務課防災安全係一時立入担当から返事があり、どのような内容の撮影取材になるのか、企画書の提出を指示された。A4一枚程度で、任意の様式でかまわないという。そのうえで立入りの可否について返事を待つ流れだった。この手の申請はたいてい一発勝負で、ダメと判断されたら覆すのはむずかしい。いったいなにをどう書けばよいのか、取材に行ったことのありそうな記者やカメラマンに当たってみた。しかし、この何年かで現地入りしている人は身近では、プレス向けツアーに加わったカメラマンが一人いるだけだった。いくら日本を揺るがす大きな問題であっても、事件でもなければ過ぎ去ったことをあえて記事にはしない。ノンフィクションを掲載する雑誌が影をひそめたいまの出版状況では、取材したところで、かたちにするのはなかなかむずかしいだろう。仕方なく思いの丈を込めた文章を書いて送ったら、「公益目的での一時立入に関する申請書」というエクセルファイルが添付ファイルで送られてきた。どうやら企画が認められたらしいのだが、それを見て途方に暮れた。取材対象者を特定し、立ち入るエリアを細かく確定しなくてはならないのだ。漠然としたロケハンなど認められそうになく、自分のやろうとしていることが公益目的なのかの自信もない。ダメ元で何軒か心当たりの取材先にメールしてみるものの、返事はなかった。このときぼくは浪江町に立ち入ること自体に許可がいると勘違いしていたのだが、土地勘はほとんどなく、これではお手上げだと思っていたところ、『復興なんて、してません』(第三書館)などの著作で知られるライターの渡部真さんを知人記者に紹介された。事故当初から現地入りして取材を重ね、現在は岩手県に移住して復興を追う強者だ。申請についての情報が得られればよかったが、一緒に回ってもかまわないと申し出てくれた。

 福島を取材することに対し、周囲の人から「防護服を用意しろ」「ガイガーカウンターはどうするつもりだ?」「ダチョウがいるから、運転に気をつけて」などと言われた。みな真顔だった。いまでもそれがごく一般的な福島のイメージらしい。常磐道を東京から福島に向かいながら、ぼくにしても内心、ちょっとした覚悟が要った。勿来あたりの海に何度も出かけたことがあり、なじみの道だが、ならはパーキングエリアに線量計が設置されているのを見て、「ゾーン」に入ったのを意識した。洗面所の掲示板にはこの先、南相馬までの五〇キロ区間を時速七〇キロで走行したら〇・二八マイクロ・シーベルト、被曝すると但し書きされていた。それがどういうことなのか、具体的にはなにもなかった。防護服がなくとも平気だろうか。やはり心配になる。年間一ミリ・シーベルト以下だった放射線の安全基準が事故後、突然二〇ミリ・シーベルトになったのはしっかり覚えている。なにかを都合よく隠しているのではないか、疑心暗鬼にさせた。算数に疎いものだから、単位がちがうだけでこんがらがり、是非の判断ができなくなって思考停止に陥り、考える力を吸い取られた。学者や医者には問題ないとする人がいれば危険だとする人がいて、なにがなんだかさっぱりわからない。だれもが納得する根拠が公に示されることはついになく、低線量被曝や甲状腺ガンを懸念する声は払拭されずにきた。だからといってなにか言えば笑い飛ばされる。その先の高速道路沿いには、放射線量の大きな表示板が設置されていた。渋滞状況を知らせる案内とたいして変わらないさりげなさだが、数値を目にしても渋滞時間の表示のようにはすんなり意味がつかめなかった。原発のある双葉町に近づくにつれて徐々に上がり、二・五マイクロ・シーベルトをピークにまた下がっていった。高速道路が富岡から先まで伸張した二〇一五年の新聞記事には「五」とあるから、この間に半減したことになる。たまたまそうだったのか、除染の成果なのか、はじめて訪れたぼくにはわからない。そもそもいまの日本ではこうした数値が本当に正しいかどうかがあやしい。

 ■「ゾーン」のいま

 常磐道の相馬インターチェンジをおり、ガソリンの残りが気になった。開いているスタンドはあるだろうか。いかんせん、「ゾーン」である。そんな危惧をよそに、ほどなく反対車線側にJAのスタンドを見つけた。慌てて右折したら、ごくあたり前のように従業員が近づいてきた。白い防護服は着ていなかった。大丈夫なのかと思い、軽い動揺を覚えた。給油口を開けるつもりでハンドブレーキを解除してしまい、車が動き出して呆れられたほどだ。冷静になって見渡せば交通量も多く、ごく普通に生活が営まれているように見える。「復興」という言葉が頭をよぎる。渡部さんと待ち合わせた道の駅にもたくさんのクルマが停まっていた。まず事故当初、国道六号線が封鎖された地点に案内された。当時の緊迫した様子を詳しく教えてくれるのだが、立入制限が解除され、自由に通行できるいまとなってはどうもピンと来ない。一面に田畑が広がる国道沿いに、「大甕地区鎮魂感謝闘魂の碑」がひっそりあった。3・11から三年後の二〇一四年に建てられた。そこには「東京電力福島第一原発の爆発事故は人災です」とはっきり印されている。時間が経つにつれて未曾有の自然災害がもたらした事故との刷り込みが徐々に広がっている気もするが、人災とするのが現地の偽らざる感覚であり、後世に伝えたいことなのだろう。碑文の先にはフレコンバッグと呼ばれる黒い袋が、見渡すかぎりに積み重ねられていた。除染された土が中に入っている。これまでニュース映像として何度も目にしてきたが、実際に見るとなんとも異様な光景だった。三段になっていて、いちばん下の列には「1」から「20」まで、真ん中は「19」まで、いちばん上は「18」まで、黄色いペンキで大きな数字が順序よく書かれていた。ここだけではない。それこそいたるところに黒い袋が積まれている。土は放射線量が一定の基準を下回り次第、今後、県内外の公共工事などで再生利用される計画だ。そんなことは聞いていないと、いまになって慌てる人が大半を占める。

 南相馬市と隣接する浪江町に入り、町に漂う空気が一変した。普通、市町村の境を越えたかどうかなど、看板でもなければわからないものだが、ここはちがった。それなりに交通量はあるものの、開いている店は見当たらず、人の気配がまったくしないのだ。

 「除染といっても作業のしやすい平地が主体で、山の斜面などは手つかずのまま、放置されている。すべては政治パフォーマンスですよ。“やっているふり除染”。だから本当は希望なんかじゃない、絶望なんだ。浪江にはもう住めない。だけどそれを言ったらおしまいだろ?」

 と強く言う吉澤正巳さんは、場主をつとめる希望の牧場から一五キロほど先の原発が爆発する瞬間を、望遠鏡で見ていた。そのとき浪江も牧場もこれで終わりだと思ったと言う。以来、福島の状況を知ってもらうために都内で街頭演説をしたり、町長選挙に立候補するなど、なにかと物議を醸してきた。とはいえ原発事故からほどなくして渡部さんが吉澤さんと知り合ったころは、ずいぶん寡黙な印象だったと振り返る。原発事故に際して多くの牛が餓死し、追い打ちをかけるように国は原発から半径二〇キロ圏内の家畜を殺処分するように命じる。これに対して吉澤さんは出荷できないのを承知のうえで、三〇〇頭あまりの牛を生かす選択をした。他で見放された牛も保護してきた。こうした被曝牛はみな命をまっとうし、ここで死んでいく。そのせいかやたら元気がよく、たくましく見える。それもまた原発事故の生み出した異様な光景かもしれない。肉牛は通常、生まれて二年半足らずで出荷されるからだ。

 二〇一七年三月三一日、浪江町は帰還困難区域以外の避難指示を解除した。それにともない常磐線は仙台との折り返し運転をはじめた。しかし、事故前までにぎわっていた駅前商店街は、どの店も打ち捨てられたまま営業しておらず、すれ違う人はいない。歴史を感じさせる味噌蔵や、大きなビジネスホテルには、「解体家屋」と印刷された紙が張られていた。更地になったところも少なくない。路地に入り、昔ながらのアパートがあった。その一室の窓が開いていて、レースのカーテン越しに、洗濯物がハンガーに吊されていた。だれかいるらしいと近づいてみるものの、だれもいない。窓から慌てて避難し、そのままになっているようだ。駐車場には暴走族仕様のオートバイが雨ざらしになって壊れていた。立派な屋敷や、真新しいマンションも蛻の殻だった。雑居ビルを覗いたところ、ふいに一軒のスナックで客引きされた。町で出会った、ただひとりの人だった。よかったら一杯、飲んでいかないか。ランチもやっているという。あいにくまだ昼間だし、浪江町役場の隣にある復興商店街で食事をすませたばかりだった。浪江町の居住人口は五七四世帯八七三人(二〇一九年一月末現在)で、震災前の二万一五四二人に比べ、わずか四%にすぎない。

 「あれからもう八年。避難先での暮らしもすっかり落ち着き、子どもも進学している。福島市やいわき市のような町の暮らしに慣れてしまえば、仕事もなければ店もない浪江に戻る気になんてとてもなれない。戻りたいと思うのは町に居場所を見出せない年寄りばかりだ。あまりに時間が経ちすぎたんだよ」

 吉澤さんによれば、東京電力からの賠償金で生活や仕事を立て直そうと必死になってきた被災者ばかりではなく、中には手にした大金で遊んで暮らしている人、差別や偏見、誤解を避けるため、福島の被災者であるのがばれないよう、引っ越しを重ねる家族もいる。賠償金は二〇一八年末の時点で総額八兆六〇〇〇億円におよぶ。避難せざるをえなくなったことで、不動産に見合う額が補償されたのだが、だからといってこれまでの家が収用されたわけではなかった。帰ることを前提としたのが「帰還」を複雑で、むずかしいものにしている。さらになんの保証もない自主避難した人たちが加わる。こうした事態を招いたのは、責任を中途半端に個人に押し付けるばかりで、国が問題を回避してきたことにある。埋め立てや公害にともなう漁業補償と本質的な構造はなんら変わらない。

 避難指示が解除されたとはいっても、爆発時の風向きと重なるように、浪江町の多くの部分は帰還困難区域のまま残る。東京に通じる国道六号線と、山のなかを福島市に抜ける国道一一四号線という町を通る二本の幹線は通行できるものの、脇に入る道にはことごとく「帰還困難区域」と記された黄色い看板が立ち、バリケードで封鎖されている。オートバイや自転車、徒歩での通行もできない。行き交うのは隊列を組んだ大きなダンプカーばかりで、「環境庁除去土壌等運搬車」と書かれた垂れ幕をフロントに掲げている。道沿いには荒れた家が目についた。一軒の農家にはなぜか壁にカレンダーが五種類もかけられていた。つきあいのある業者から贈られたものをすべて飾るほど、地縁の強い土地柄なのがうかがえる。カレンダーは事故のあった「平成二三年三月」からめくられず、そのままだった。封鎖された路地の向こう側、帰還困難区域に建つ一軒の家が目を惹いた。モデルハウスに見まがう家が、ススキの生い茂る荒野にぽつんとあった。外観は真新しく見えるのに対し、窓ガラス越しに見える障子は明らかに別の柄の紙でちぐはぐに、しかし丁寧に補修されていた。表札には花の模様がある。新築した家に引っ越してまもなく被災したのだろうか。ぼくの知る福島出身者にも、そうして事故に巻き込まれた人がいる。定年後、故郷に戻るため、退職金を注ぎ込んで実家を改築し、田舎暮らしをいやがる彼の妻をなんとか納得させた矢先だった。

 ■3・11によって明らかになった、この国の本質

 海岸には津波に呑まれた家が残っていた。これまでとはうって変わり、ものすごい力に襲われた痕跡が至るところに残る。体育館のドアはくの字型に曲がり、土台だけの家や、部屋のなかでピアノがなぎ倒されている家など、同じ町内でも被害の様相がまったく異なる。このあたりは津波と放射能の二重被災にあっているのだ。漁協だった建物の屋上からは、福島第一原子力発電所が見えた。「あれか」と思った。裏門に通じる道には警備員が一人で立っていた。当初は警察の役割だったが、いまは民間に切り替わっている。それだけ危機と混乱は脱したということだろう。原発までおよそ五キロに迫ったが、防護服は着ておらず、都心の工事現場にいる警備員と変わらない軽装だった。写真を撮ろうとしたら、投げやりな声でどなられた。

 「ここも撮影許可がいるんですよ!」

 すみませんと頭を下げてその場を離れる。ほどなくパトカーがやってきた。警備員が呼んだのだろう。職務質問されると身構えたが、そのまま行き去った。ナンバープレートの照会はしているだろうから、物好きな観光客として見過ごされたのかもしれない。それから双葉町に向かった。原発の町に通じる国道六号線は二〇一四年には通行制限が解除された。幹線だけに思いのほか交通量が多い。しかし、ガソリンスタンド、コンビニやファミレス、電気店や自動車ディーラー、紳士服店など、街道沿いならではの大型店がどこも廃墟と化していた。ドアが開いたままのコンビニを覗いた。地震で棚から落ちた商品がいまだそのまま散乱していた。床に落ちている地元紙『福島民友』の日付は「二〇一一年三月一一日(金)」とある。事故直後、なにかで見た写真がいまだ同じように撮れることに驚かされる。ずいぶん長い時間が経っているのに、新聞紙は不思議なほど色褪せていない。まるで時が止まったままである。双葉駅に通じる道は閉鎖され、通行書がなければ入れなかった。ここにはかつて「原子力 明るい未来のエネルギー」と書かれた看板があった。一九八七年、原発推進を謳って設置されて以来、長らく町の誇りのはずだった。しかし、保存の声があったにもかかわらず、老朽化で二〇一五年に撤去される。それが表向きの理由で、ただただ気恥ずかしかったのにちがいない。そんな大人の事情は容易に想像できる。帰還のはじまった浪江町とはちがい、双葉町は全域が帰還困難区域に指定され、人口は0のままである。

 ほどなく「福島第一原子力発電所」の道路標識があり、木立の向こう側にクレーンが林立しているのが見えた。送電線がうねるように空高く張り巡らされている。その先の交差点を原発の正門に向けてクルマを走らせる。「ようこそ福島第一原子力発電所へ 直進この先一・五キロ」との案内板の先に警備員が立ち、通行書を確認していた。大きなマスクこそしているものの、ここでも防護服は着ていなかった。ほぼ同じ時期、帰還困難区域の視察に訪れた裁判官たちが重装備だったのに比べ、拍子抜けするほど対照的だ。エリートは守られ、下々は打ち捨てられる。なんだか棄民社会を象徴する光景に見えてならなかった。そう、あの報道写真にぼくが突き動かされたのはそのギャップなのである。戦争が終わって満州から引き揚げるときも、軍人や役人が優先して帰国し、一般は命からがら逃げ惑わざるをえなかった(吉澤さんの父親も、ぼくの母親も三〇万人近くいるとされる棄民の一人である!)。このときと同じことが福島でも繰り返されているわけだ。

 警備員に通行書がないのを知らせると、とくにとがめられることなくUターンを指示された。その割にはもうひとりの警備員が、いそいそと車止めで道をふさいだ。突っ込んだらタイヤがパンクする鋭利なものだが、その気になれば避けて通り抜ける十分なスペースは残されている。厳戒態勢にはほど遠いものの、そのとき撮った写真を改めて見れば警備員の眼光はするどい。引き返して国道六号線を南下すると、ほどなく大熊町に入る。第一原発は双葉町と大熊町の境に建っている。第二原発も楢葉町と富岡町にまたがる。こうして地元自治体に広くお金をばらまく仕組みが原発推進を支える手法だった。大熊町も双葉町と同じく、ひとりの住民もいない。国道沿いの民家や店舗はことごとく大きなバリケードで厳重にふさがれ、異様な光景がつづく。空き巣を防ぐためだとされるが、車を停めさせないようにしているのはすぐにわかる。写真を撮ろうにも停車する場所がどこにもなく、あったとしても決まって警備員がいた。最後に富岡町に行った。海の近くにある駅舎が津波で流され、線路だけが残る映像をニュースで見ていた。これまでとはちがう場所に駅が新設され、二〇一七年に常磐線上り電車の終着駅として再開した。富岡・浪江間はいまも不通で、代行バスが走る。下りが一日六便、上りが五便ある。富岡町もまた原発から半径二〇キロにあたり、全域が警戒指示区域に指定されていたが、一部を除いて解除された。しかし、名所になっている桜並木のつづく住宅街は静まりかえり、途中から帰還困難区域として封鎖されていた。夕方六時過ぎに帰ろうとすると、東京に向かう常磐道は断続的な渋滞がいわきインターまでつづき、復興に向けて多くの人が働いているのを実感した。事実、第一原発の廃炉作業だけで一日平均四〇〇〇人が携わり、それをはるかに上回る人が除染作業をしている。

 こうした福島の現状はいま、とくに立入許可を申請しなくてもその気になればだれもが目にできる。本や記事を読んでもこれまでどうもピンと来なかった部分も、現地に行けばわずかながらも埋まる。当初の危機的な状況を脱してはいることさえわかっていなかったのだ。福島が北海道、岩手に次いで全国三位の広い県で、「フクシマ」と一括りにするのがむずかしく、それが風評被害を招いているのも改めて感じた。それにしては東京に戻ると「内部被曝したな」と口々に言われた。冗談とも本気ともつかない、意地の悪い口ぶりだった。アンタッチャブルなものに触れたことへの戒めにも聞こえた。わずか三日の滞在で、どれだけぼくが“被曝”したのかはわからない。別に痛くもかゆくもないし、たいしたことないと思っても、あえて指摘されたらやはりドキリとしてしまう。それもこれも放射能について、福島について、正しい知識や情報をいまだもっていないからだろう。

 「事故直後から現地の声を伝えてきたつもりですが、伝わっていないのだとすれば無力感を覚えます」

 渡部さんがふいに漏らした言葉を忘れられないでいる。3・11はメディア不信の新たな源流となった。マスコミはきちんと事実を伝えていない。都合よく編集するから、正確ではない。批判を受け、東京電力での記者会見をそっくりそのまま速記するスタイルの記事が出てきた。自由報道協会はその推進役として当時注目を浴び、渡部さんは中心メンバーの一人だった。しかし、趣旨とは裏腹に、いささか政治めいた動きに取り込まれていったという。記者は取材相手の言っている内容が「正しい」ことを前提に記事を書く。そう思えるまで、さまざまな角度から取材する。言っていることが不正確な気がすれば一つひとつ確認し、怪しい点は裏をとる。それでも不審な点があれば記事にしない。しかし、3・11以降、国は巧妙でいてあからさまな嘘を重ね、こうした取材のありようを反故にしてきた。行政が統計を改竄し、御用学者と呼ばれる人がお墨付きを与えることで、怖ろしいことに、嘘は嘘でなくなる。それによりまるで戦時中の大本営発表に似た事態をメディアにもたらした。佐藤栄佐久元福島県知事は『福島原発の真実』で、「官僚は平気で嘘をつき、裏切ってくる」と激しい言葉を綴った。「官僚主導」から「政治主導」「官邸主導」へと国の舵取りが大きく転換していくなかで、官僚という顔の見えない存在ばかりか、顔の見える首相まで「アンダー・コントロール」などと臆面もなく嘘をついた。なにが本当で、なにが正しくないのか、ますます訳がわからなくなるばかりだった。

 3・11は国の本質がエリート支配者による作り事であり、改竄であり、欺瞞だということを露呈しつつ、たとえそうであっても正しいと信じさせる空気を広めた。「こんな人たち」と首相から人差し指を突きつけられた人は「反日」と呼ばれ、「あんな人たち」と反目した。それもこれも福島をなかったことにしなければ、「国体」を維持できなくなるからだろう。「原子力災害からの福島復興の加速のための基本指針について」や「福島再生加速化交付金制度」などの名称ににじみ出る通り、国が露骨に「復興」を急かしてきたのもそのためにほかならない。もし仮にぼくが記者ではなく国政に携わる立場だとすれば、きっと同じように考えてしまうだろう。うしろを振り向かせず、とにかく前を向かせるように仕向けるのだ。そのジレンマに戸惑いを覚える。

 この間、来年のオリンピックに向けて東京の街は加速度的に変貌してきた。しかし、「復興五輪」という言葉とは裏腹に、東京にいるとまるで福島なんて存在していないと感じる。原発のある双葉や大熊、富岡、あるいは浪江といった町の状況が復興からあまりにほど遠い現実なのは見ての通りだ。

 「最初は放射能なんてとんでもないと思い、説明会などでもつい声を荒げたものです。しかし、いろいろ調べていくうち、闇雲に怖れずに折り合いをつけることにしました」

  被曝の町に生まれ育ち、現在、復興にかかわる人が口にした言葉の真意を、福島を取材してからというもの、繰り返し考えてきた。折り合いをつけることが当事者の考える「復興」に思えたからだが、多くの被災者たちが一人ひとりそれぞれに折り合いをつけ、あるいは折り合いをつけられずにいまを生きている。とはいえ大人はいざしらず、子どもに折り合いをつけられるはずはない。ぼくの弟もあれから愚痴ひとつこぼさず、頑なに二人の子どもを育てている――。

 (フリー記者、在スロヴァキア)

文学こそが夫婦の紐帯

――この二冊を併せて読めば、二人の共同戦線が大きな成功を収めたことは一目瞭然だ
評者:伊藤氏貴

 ■平成文学史が書かれるとすれば、その一つの柱は「家族の終焉」ということになるだろう。

 明治以来の近代文学は「家」からの解放を目指し、そこで確立された個人は、先祖から伝わる「家」の代わりに、自ら「家族」を選ぼうとした。「家」の象徴たる父親との対決、「家族」というゴールに至る過程としての恋愛が描かれ、しかしやがてまた、手に入れた「家族」が思ったほどの理想郷でなかったときの葛藤や失望が描かれた。

 そこまでが昭和だとすれば、平成においてはもはや「家族」はただ滅びゆくものとして後景に退いた。そんななかで、この二冊は文学と家族との関わりを描き、おそらく最後のと言っていいだろう燦然たる輝きを放っている。

 一昨年の夏、六十六歳で乳癌で亡くなった川村亜子には、もともといくつもの翻訳の仕事があった。しかし、夫の川村湊によれば、「妻の本当の夢は、小説家となることであり、創作の道を進むことであったことは間違いない」という。その妻の作品を、小説を中心にエッセイや紀行文とともに一冊としたのが『たがめ・冬の川辺・蓬』である。妻の夢を、死後に夫が叶えたのだ。

 しかし、著書はなくとも同人誌では知られた存在だった。評者も、『朝』という歴史ある同人誌に寄せた彼女の作品をいくつか読んでいた。平成はまた、商業誌と同人誌との間に深い溝が刻まれた時代であったが、そもそも商業誌や単行本によらなければ創作の道を進むことができないわけではない。家事、育児を中心に生活しながら、少しずつでも書き継ぎ、発表し続けてきた作品たちは、仮にここに集められずとも、彼女が立派な作家だったことを証している。

 たとえば表題作の一つ「蓬」では、老いた母の蓬摘みにつきあう娘が、子どもの頃に蛍見物に連れてこられた記憶をよみがえらせるが、そこに不穏な思いがよぎる。つまり蛍のいる淵とは死の淵だったのではないか、母は私と無理心中をしようとしていたのではないか、と。紙一重のところで平穏の裏に大きな悲劇の潜む恐ろしさを、静謐な筆致で描く見事な短編だ。平成の初めに書かれたこの作品では、家族は辛うじて維持されている。

 一方、おそらく自分の死期を既に予想していたであろう二〇一七年に発表された「たがめ」では、主人公の女性は浮気を続ける夫と離婚し、友人は夫に先立たれている。しかしもちろん、これは時代の空気を呼吸する作者の想像力の産物であり、夫、川村湊は妻を想う良き夫として生きながらえている。

 無病息災、というわけではない。糖尿病と、それから来る慢性腎臓病を長く患い、自分の方が当然先に逝くだろう、というのが夫婦間の共通理解だった、と夫は言う。『ホスピス病棟の夏』は、その考えを突然裏切った、妻の乳癌発見から、彼女を看取るまでの克明な看病の記録(表題作)、そして妻の死後、自ら闘病しつつ妻の遺稿集を編むまでの記録(「津尾石室の冬」)とから成る。

 ホスピス病棟のラウンジでパソコンを開きながら、この状況を客観視し、少しでも苦しみから逃れんがために、現況を書き綴る。「救われる。救われないかもしれない。少なくとも、この時間、このひと時の不安や恐怖はなだめることができるのだ」。

 あるいは、妻の状態を知るために、大量の書物を読む。これまでも、「何か問題が起きれば、その問題に関するさまざまな本を読むという習慣を身につけていた」。問題について読み、書く。それはつまり文藝評論家の生き方そのものであり、妻と自身の病に遭遇しても、その生きざまにはなんらゆるぎがなかった。

 看病の記録に交えて回顧される内容に従えば、二人は大学の文藝サークルで出会い、つまり文学を志す同志であった。そしてこの二冊を併せて読めば、この共同戦線が大きな成功を収めたことは一目瞭然だ。

 もちろん、二人の子育てを含め、家事の負担が平等だったわけではなく、主に夫の評論活動を妻が裏で支えるというかたちであったろうが、それでも二人の生活の中心は、なにを措いても文学にあった。そのゆるぎのなさこそが、二人の関係をも支えていたのではないかと思われる。病が重るにつれ自己中心的になる妻を、それでもそばに寄り添い支えつづける夫は、妻の死後、自身の文学活動をしばしお預けにしても、妻の活動をまとめて世に出すことに専念した。

 平成文学は家族の終焉をその一つの特徴とすると冒頭に述べたが、平成の終わりに出されたこの二冊は、文学こそが夫婦の紐帯であったことを示す稀少にして貴重な一組の書物となった。

 (文芸評論家)

リアリティとファンタジーの闘い

――カーターの小説家としてのキャリアの転換点ともなった作品
評者:生駒夏美

 ■サイケデリックな幻想と現実が入り混じる、ユニークなマジックリアリズム小説である。原作者カーターのエッジのきいたアイロニー豊かな文章表現は、幻惑的かつ刺激的なイメージを走馬灯のように次から次へと繰り出し、読者を酩酊させるのに十分だ。文字作品でありながら、色彩豊かなイメージを目の前に浮かび上がらせる、そんな不思議な力を持つ。1972年に発表されてからすでに50年近く経とうとしているが、全く古びる様子がない。決して単なるファンタジーではない。恋愛の本質についての、そしてその恋を文学作品に書くことについての実に鋭い洞察、つまりはメタフィクション、文学論ともなっていて、何度読んでもその度に新たな知的興奮をもたらしてくれる傑作である。

 国を救った英雄として崇められ、名士として物質的には不足ない老後を送るデジデリオが、そもそも彼が英雄と呼ばれるようになったきっかけである若き日の冒険をノスタルジックに回想するのがこの物語の体裁である。デジデリオに課された使命は、街に攻撃を仕掛けてきた敵ホフマン博士を殺害すること。しかしホフマン博士は一筋縄では行かない人物である。何しろ現実世界を想像上にしか存在しないイメージで作り変えてしまうのだから。家の扉がいつの間にか真っ赤に変わっていたりするくらいならともかく、鳩がヘーゲルの言葉を引用したり、食べ物が一瞬のうちに汚物に変わったり、死んだ人間が再び現れたりするのだ。ホフマンに対抗するのは決定大臣。現実と嘘をはっきりと分離させ、想像力を封じ込めようとする。中世の魔女狩りさながらに、大臣は焼却装置を用いる。黒焦げになれば本物、ならなければ幻想というわけだ。そんな大混乱の中、ホフマン暗殺の命を受けて旅に出たデジデリオは、理性の限界を試すようなグロテスクでエロティックな事件に次々と遭遇する。フロイトが描く無意識の世界のように、欲望があらゆるグロテスクな形状をとって現れる。冒険の伴走者は、ホフマン博士の娘アルバティーナ。様々に姿を変える彼女にデジデリオは夢中になる。長い旅路の末にたどり着いたホフマンの城で、デジデリオはとうとう自分の欲望に対峙することとなるのだが……。

 デジデリオという名は「欲望」を意味する語から派生している。精神分析論に詳しい読者であれば、デジデリオの旅路のあちらこちらに、フロイト理論の論じる欲望の戯画を見つけることができるだろう。他の文学作品や理論への言及も多い。アルバティーナはプルーストの『失われた時を求めて』のヒロインから取られている。プルーストの作品と同じように、この作品も「失われたとき」を求める構図になっていることは興味深い。単にヒロインの名前を借りただけではない深い関係がそこにはある。ぜひプルースト作品と共に読んでもらいたい。ホフマンは作家E・T・A・ホフマンだけではなく、幻覚ドラックLSDの発明者ホフマンにも所縁がある。これらは全てこの作品の奥行きを増す効果を持っている。一つの小説世界がいくつもの小説世界や幻想世界そして現実世界に接続していて、読者は広大な文学の迷路に迷い込む旅路へと誘われるのだ。

 カーターはこの作品を日本滞在中に書いた。当時、カーターは日本人男性と恋愛関係にあり、初版の献辞(結局印刷前に変更しているのだが)は「私のアルバティーナ」とカーターが呼ぶ彼に捧げられている。この作品は、カーターと恋人との関係についての分析でもあり、彼女の日本滞在の物語として読むことも可能だ。作品中に日本から得たモチーフを見つけることも楽しい。

 しかし何より、この作品がカーターの小説家としてのキャリアの転換点になっていることは見逃せない。これ以前の作品ではどちらかといえばリアリズムに属する作品を書いていたカーターだが、これ以降は決然とアンチリアリズムに進んでいく。リアリティとファンタジーの闘いという本作の内容は、作者自身による小説制作における問題提起と試行錯誤の足跡でもある。デジデリオの辿り着いた結論は、作者カーターが小説家として得た啓示とも言え、『血染めの部屋』などの後期の作品群はこの小説を出発点として書かれている。すべての文学愛好家に、強く薦めたい一冊であり、日本語訳で多くの読者の目に触れることを喜びたい。

 (国際基督教大学教授)