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紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

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本の力が落ちたいま、中継走者は何を書評するか

インタビュー:松山巖氏

 ■先ごろ西田書店より、松山巖氏の『本を読む。――松山巖書評集』が刊行された。一九八三年から二〇一六年まで、三三年にわたって新聞や雑誌に書き継いだ、五四一冊分の書評を集成した九〇〇頁近い大著である。松山氏は読売、毎日、朝日三紙の読書委員や書評委員を務めた稀有な書評家であり、書評した本のジャンルは都市と建築、美術と文学、歴史と評論など、実に多岐にわたる。そうした書評群を収めた本書には、一九八〇年代以降の時代の推移や変化をも映し出す、その時々の代表的な本を論じた〝本の事典〟の趣がある。

 本書を手がかりに、三〇年以上におよぶ書評の歩みをめぐって、松山氏に話をうかがった。(9月10日、東京・六本木にて。聞き手・米田綱路〔本紙編集〕)

 ■書評委員になって出会った人々

 ――一九八三年に『カメラ毎日』に書評を書かれて以来、ずっと書評を書き継いでこられました。

 松山 こんな分量になるとは思いませんでした。ただ、これでもあと五〇冊分ぐらいは足りないと思います。先日もアーサー・ビナードと小沢信男さんの対談「日本語と私」(九月二日、東京・両国のシアターXで開催)を聞いて、そのことを人と話しているうちに、以前にビナードの本の書評を雑誌「考える人」に書いたことがあるなあ、と思い出しました。

 ――ビナードさんのどの本でしょうか。

 松山 ビキニ環礁の水爆実験で被曝した第五福竜丸事件を絵にした、ベン・シャーンを主題にした本で、ビナードが著したものです。『ここが家だ――ベン・シャーンの第五福竜丸』(集英社、二〇〇六年)だったと思うんですが、どうもはっきりしない。

 そういうことは他にもずいぶんあるんです。共同通信に頼まれて書いた書評も、ここには入っていません。いつ頼まれたか分からないし、配信されて地方紙に載るので、いつ載ったかはっきりしない。建築雑誌の「建築文化」に書いた書評もあるのですが、やはりいつ書いたか分からない。

 そんな書評がおそらく五〇ぐらいあるはずです。

 そういえば、共同通信では川村湊と交代で、私が「山」、川村が「川」でミステリーのことを連載して、のちに『ミステリーランドの人々』(作品社、一九八九年)という本になりました。その他、池内紀さんとも一緒に書いて、のちに『うその学校』(筑摩書房、一九九四年)になりました。それから藤森照信、柏木博、布野修司の三氏と一年かけて戦後建築の代表作について連載しました。でも、書評となると、何を書いたのか全然覚えていない(笑)。

 ――ここまでおうかがいしただけで、本と人のつながりが方々に伸びていき、本書につながる書評の山脈をなしていく感じがします。

 松山 もともと私が最初に始めたのは、写真集の書評です。そのあと『乱歩と東京――1920 都市の貌』(PARCO出版、一九八四年)を出して、読売新聞の読書委員に招かれました。この本は評判になって、建築や都市、特に東京論への興味が高まった。だから私は建築や都市についての書評を書かされたのですが、その頃は匿名ですから名前は出ない。でも読み返してみると、自分が書いたものはこれだとわかります。

 読売の読書委員に招かれて、東京の本社を訪ねた時に入ったのは、小さな会議室で、いちばん左端に川村二郎さん、次に日野啓三さんが座っていたことをよく覚えています。ビールが置いてあって、右の端には阿部謹也さんがいた。その年に私と一緒に読書委員になったのは、経済学の佐伯啓思さんと民俗学の小松和彦さんでした。その前年からは池澤夏樹さんがいました。

 三カ月ぐらいたった頃から、飲まないで帰るのはおかしい、みんなで飲みに行こうという話になり、お酒の好きな川村さんや哲学者の木田元さんたちと飲みにいくようになりました。そうして三年ほど読書委員をして、終わったと思ったら、こんどは毎日新聞から連絡があり、書評委員になりました。そこで須賀敦子さん、高田宏さんと親しくなりました。そのあと朝日新聞の書評委員に招かれて、木田元さんと再会し、久世光彦さんとも出会いました。

 各紙の書評委員会は少しずつ違いますが、読売の時は読むべき本を各自が持ち帰って読み、次の会で読み合わせをして、本についてみんなで言い合う。その時のことでいちばんよく思い出すのが川村二郎さんです。川村さんは言葉にものすごく厳しい人で、「これは日本語ですか」「こんなものを出すべきではないです」と平気で言いますからね。それをかいくぐって書評するのがまた醍醐味でしたが、川村さんや粟津則雄さんが「これは面白いから松山さんが書評したら」と言うこともありました。朝日の場合はそうではなく、二重丸を付けた人どうしの争いになり、その時に初めて、なんで自分がこの本の書評をしたいかを言い合う。それから朝日の場合は批判することができない。私が書評に値しないと思っても、それは言えないんですね。各紙で進め方が少し違う。

 読売の読書委員になった時、経済学や経済史の本は書評対象としてありましたが、経営論はなかった。ところが、ある時期から突然増えていきました。

 ――八〇年後半のバブル期という時代背景もあったのでしょうか。

 松山 そうですね。だから本によって、逆にその時代に何が出てきたかがわかりますし、書評もずいぶん変わりましたね。私は最初の頃は都市や建築の本を書評しましたが、だんだん文学の書評をするようになりました。

 日野さんというのは面白い人で、誰にでも「小説を書け」と言うんです。池澤さんも詩人だったのが、日野さんに口説かれて『スティル・ライフ』を書いた。それが芥川賞をとったわけです。どうしてだかわからないけれど、私にも「小説を書け」と言うわけですよ。

 ――最初の小説『闇のなかの石』(文藝春秋、一九九五年)は、日野さんの慫慂だったのですね。

 松山 ええ、ですから日野さん、それから川村さんにはずいぶん影響を受けました。

 書評をするなかでいろんなことがあって、妙に業界のことにも詳しくなったのですが、そういうこと以上に、文芸畑の人たちに出会ったことは大きかったです。須賀さんとも毎日の書評委員で知り合って、一緒に酒を飲んで、とても面白かった。書評委員を辞めた後も、須賀さんとは会うようになりました。

 ――須賀さんのことを『須賀敦子が歩いた道』(新潮社、二〇〇九年)や『須賀敦子の方へ』(新潮社、二〇一四年)に書かれています。

 松山 本当はもっとやろうと思ったんですが、パリやアルザスに行かなければいけないでしょう。でも肉体的にもちょっと無理です。

 その他、読売の読書委員には他に篠田一士さんがいました。篠田さんはいつも、ぐでんぐでんに酔っぱらって来る。ものすごく大きな声だったので、隣で読売の偉い人たちが会議をしていた時、たぶん部長や局長クラスの人たちだと思うんですが、こっちへ来て「声が大きいから静かにして」と言った。でも篠田さんは全く動じず、「てめえらもでかい声でやればいいんだ」と言い返したんですよ。おかしくてしようがなかったですね。

記事掲載はここまで。続きは本紙でお楽しみください。
11月下旬以降、全文掲載予定です。

先行研究の博捜と原文に忠実な翻訳が示した解像度の高い一冊

――性を異にする複数名義で書かれた小説群をセットで紹介
評者:岡和田晃

 ■「北方の昏い星」、「スコティッシュ・ケルト最大の幻想作家」……。フィオナ・マクラウド(一八五五~一九〇五)をそう讃えたのは荒俣宏であった。彼は一九八三年に『ケルト民話集』と題し、代表作である短編集The Sin‐Eater and Other Celtic Tales(一八九五)を翻訳した。その後、「幻想文学」三四号(一九九二)や「幽」二二巻(二〇一五)で南條竹則や赤井敏夫によって短編が訳されてきたものの、まとまった翻訳書の新刊としては、本書『夢のウラド――F・マクラウド/W・シャープ幻想短編集』が三十五年ぶりの刊行となる。

 神智学的な素養に満ちた気高きハイランド人女性としてのマクラウド。「フィオナ」という神話的な名が連想させるように、ゲールの民族的伝統を継承しつつ、ナショナリズムの熱狂とは一線を画した慎ましやかな言説展開は異彩を放ったが、死後、彼女の正体は、批評家・詩人として知られたウィリアム・シャープの筆名だったと明かされた。偏見を恐れた女性作家が男性名で作品を発表することは珍しくないものの、この時代に逆を行ったのは稀である。なかでもシャープは、その徹底ぶりにおいて際立っていた。マクラウド名義の手紙では、妹に代筆させて署名の筆跡を変えた。経済的な苦境に陥った晩年、政府へ年金受給を申請する際に本名での仕事だけでは業績が足りず、マクラウド名義をも自作だと公表する必要性が生じてしまった際は、なんと年金そのものを断念したのである(!)。このあたりは、有元志保『男と女を生きた作家』(二〇一二)や松本優子「スコットランドと一九世紀末ケルト復興運動」(一九九六)に詳しい。

 他方で日本近代文学にも、無視できない影響が見受けられる。徐々に再評価の進んできた松村みね子(片山廣子)が、『かなしき女王 フィオナ・マクラウド短編集』(一九二五)を訳出していたからだ。松村と交流があった芥川龍之介は、未定稿「或早春の午後(仮)」(一九二四~五頃)で、ケルト神話の“アルスター伝説”に登場する女王スカアハや英雄クーフリンらを想起しつつ、マクラウド作品に熱中した経験を示唆しているし、「囁く者――Fiona Ma‐cleod――」(一九一四頃)と題したシャープ名義作品の試訳を残してもいる。松村が翻訳から離れた後も影響は続き、かの三島由紀夫も、「彼はその空しい淵にゆられて真空の空のあなたこなたに吹き迷はされる鳥の羽のやうであつた。」という松村の訳文の「韻律の美しさ」に心打たれたと書いている(「三島由紀夫十代書簡集」、「新潮」二〇〇七年一月号)。他方で、下楠昌哉が「松村みね子訳のフィオナ・マクラウド作品を研究するにあたっての注意点」(二〇一一)で指摘するように、『かなしき女王』の翻訳には省略されたと思しき箇所があり、一九八九年の復刊版以降は、看過できない脱落が生じてしまっている。

 本書が画期的なのは、右記のような日本におけるマクラウドの受容史をサーヴェイした広範な視座にて編まれ、また訳されたものと読める点だ。大学で幻想文学論を講じている評者は、受講生と一緒に声を出して本書の輪読を続けてきたが、訳文がよく練られているとわかった。巻頭に収められた「鳥たちの祝祭」で、スコットランド西岸部にあるインナー・ヘブリディーズ諸島にあるムル島に近接するイオナという小島に、六世紀に実在した老賢者コルムが訪れ、〈ドルイドたちの島〉が教化されて“ケルト・キリスト教”の聖地となったことへの喜びが綴られる。クライマックスでの、金の鷲、鰹鳥、フルマ鴎、水薙鳥といった、様々な鳥が滑空してくる縦軸のイメージが差し込むのも美しい。「遥か彼方のスカイにあるクーフリンから」と、英雄が地名のように訳されているのも原文に即した処理である。松村の既訳がある収録作「最後の晩餐」では、ユダのイメージには〈影の谷〉というロード・ダンセイニ風のイメージがゆるやかに重ね合わされ、巻頭の長い訳し落としが復元され、「青い世界」は「緑の世界」となってイメージが変わり、キリストにあたる人物が「ヤソ」と書かれていたのがゲール語ベースの「イーサ」に直り、旧訳では、「私は、……」となっていた箇所が、「わたしは〈讃美の織手〉――」と、オリジナルへ忠実に復元されている。こうした綿密な努力によって、より解像度の高いマクラウド読解が可能になったわけだ。

 輪読した際、マクラウド名義の収録作は、“異教”とキリスト教が交錯する際に生じる、習合という独自性への関心が強い印象を受けた。あるいは、常若の神に焦点が当たる「アンガス・オーグの目覚め」(先述した「幻想文学」にも既訳がある)で海神マナナンが描かれるように――中世的なロマンスの発想を経由した視点での――ケルト神話そのものの再話も目立つ。このような作品選定は、後半部に収められたウィリアム・シャープ作品との対比が意識されているのかもしれない。

 というのも、シャープ名義の作品は、あくまでも近代知的な一九世紀小説のリアリズムを土台に書かれ、語りやモチーフ、あるいは幻想性の生成にしても、多くはマクラウドと中心を挟んで正反対に見えるからだ。両者をセットで邦訳し、とりわけ名のみ高かったシャープの中編「ジプシーのキリスト」の全訳が出たのは意義深いことである。水野眞理は「パッションとスティグマ」(二〇〇五)で、同作にホーソーン『緋文字』の影響があるのではないかと推定し、説得力のある議論を進めていた。シャープ名義の収録作「ホセアの貴婦人」、「〈澱み〉のマッジ」も、別に有元志保が試訳と解題を試みているので、これらと併読するのも面白いだろう(「言語文化研究」一七・一八、静岡県立大学短期大学部静岡言語文化学会、二〇一七~一八)。

 なお、本書の解説では、「残念ながら、詩人としてのウィリアム・シャープは日本ではほとんど紹介されなかったようだ」とあるが、日夏耿之介門下の詩人たち(黄眠會)と関係者が興した雑誌「古酒」の第六冊(一九六一年一一月)には、シャープの詩「沈黙の谿」、「夢の幻想」が掲載されている。「仄に光る幽けき流水に/ああ 奇しき孤独の悦びか/夢の谷間の。」と、象徴主義的に訳され、別の訳者によるシュテファン・ゲオルゲ、エズラ・パウンドらの詩と並べられているのも面白い。訳者の早矢仕古狂簡は、「古酒」の同人であった早矢仕宝三の雅号だが、同冊の校正中に没した。その友人であり、『早矢仕寶三詩集』(一九六三)を編んだ英文学者の関川左木夫は、芥川の署名があるUniform Editionのマクラウド全集二巻を所有していた。ひょっとすると早矢仕は、関川の影響でシャープを翻訳しようと考えたのかもしれない。

 (文芸評論家・ゲームデザイナー)

清田政信の個の思想にとって、パブリックな光とは何だろうか

――孤絶した精神、尖鋭な詩意識には現在の詩や思想の根底に通ずるものがみとめられる
評者:神山睦美

 ■沖縄の詩人・清田政信の七〇年代から八〇年代に書かれた批評と詩を収録したこの書の中で、清田は一貫して個の思想ということに執着する。近代の自意識、近代の明晰さというものが、共同体の暗域、風土の残酷さを潜り抜けるとき、詩の言葉がはらまれると清田はいう。そして、「共生を説くすべての思想を対象化せよ、一言で尽すとすぐれて個を造型しうる思想のみが他者の心を動かす言語をもち得るということだ」と宣言するのである。

 これを沖縄と本土という問題に差し替えてみるならば、清田はその同質性を徹底して批判し、異質性を浮き彫りにしようとしているといえる。つまり、沖縄に日本列島の原質を見出す視点を退け、沖縄こそが列島を異化するものとしてとらえられなければならないと主張する。その孤絶した精神、尖鋭な詩意識には現在の詩や思想の根底に通ずるものがみとめられる。

 ただ、現在からみると清田の思想はもう少し多層的にとらえる必要があるのではないかというのが率直な感想である。共同体や風土に対して個や自意識を対置する方法は、吉本隆明『共同幻想論』における「共同幻想は自己幻想と逆立する」「共同幻想は自己幻想と対幻想の内部で追放されなければない」に対応するとみなすことができる。当然清田の詩意識は、吉本の「固有時との対話」に原型を見出すことができるものであり、それだけでなく、戦後詩が現実化してきた孤立した内面、「自己を最初の他者として定立する」詩意識に根差すものといえる。

 だがこのような内面や詩意識は、八〇年代のポストモダンの時代を経てさまざまな形で対象化されてきた。一つはそのような意識は、結局は独我論に帰するものではないかという批判であり、もう一つは、どのような孤独な内面も言語によって表出される限り、他者との共存在をモメントとしているのではないかという批判である。しかし、清田の個の思想には、これらの批判に耐えうる勁さがないとはいえない。独我論批判が他者との葛藤の欠如を挙げるのに対して、清田の個の思想は、むしろ規範や制度の仮装のもとに自立を妨げようとする他者との葛藤をモティーフとしているからだ。同じように共存在からの批判についても、それが、共生を仮装することによって、一方的に共同体や風土や土着的慣習を押し付けてくるとき、それらを敢然と拒否することによって、個は屹立するとされる。

 それならば、ハンナ・アーレントがプライベートとパブリックという言葉でとらえた、人間の精神のありかたを引き合いに出してみるならばどうだろうか。アーレントによれば、パブリックな光が射しこんでくるのは、「なんの助けもなく、進む方向も判らずに、人間のそれぞれ孤独な心の暗闇の中をさまようように運命づけられ」た者が、「矛盾と曖昧さの中にとらわれ」ながらも、なお「他人の存在によって公的領域を照らす光」(『人間の条件』)をもとめるときであるという。つまりプライベートな領域に追いやられた者が、自立するためには、このような公的領域を照らす光がもとめられなければならない。

 では、清田の個の思想にとって、パブリックな光とは何だろうか。沖縄同質論に対置された異質なる沖縄というのがそれではないか。つまり、本土の原質とされる沖縄は、いつでも起源論にまつわるロマンティシズムからのがれられないので、むしろどのような起源論にも堕しない沖縄、それこそが公的領域としての沖縄といっていいのではないだろうか。それは、アーレントのいうように他人の存在によって照らされ、そのことによって他人の存在を照らすものである。もっというならば、共同体や風土のこちら側で融和しあうものたちのエリアではなく、それらから疎外された存在の苦難をたがいに分かち合うことでかたちづくられるものにほかならない。

 アーレントは、それを別の場所で、共苦(コンパッション)という言葉で語るのだが、清田の個の思想の根をたどっていくならばそこに行きつくのではないかと思われるのである。ただ、残念なことに時代の制約もあって、そこまで思考が届いているとはいい難い面もある。清田が、もう少し思想的営為を続けていたならば、『共同幻想論』の吉本が、のちに『アフリカ的段階について』や『母型論』において共同幻想には収まらないエートスについて語ったように、清田もまた、沖縄の古層に生きているそれについて語り出すのではないかと思われたのだった。

 (文芸評論家)