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紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

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 ◆ 3351号(5月12日発売号掲載)

これからわれわれは、モノになる、鬼になる。

――「これはおもしろいぞ」とおもうがままにことばを投げつけている用語集
対談:入江公康×栗原康

 ■単著『眠られぬ労働者たち――新しきサンディカの思考』(青土社)から、早や一〇年。入江公康氏が『現代社会用語集』(新評論)を上梓した。これを機に、本紙読者にはおなじみの栗原康氏とのトークイベントが開催された。本稿はその採録である。(対談日・3月9日、東京・新宿の紀伊國屋書店新宿本店にて。須藤巧・本紙編集)

 ■奨学金は「借金」である

 入江 勢い余って『現代社会用語集』などという、だいそれた本を出してしまいました。私はいろんな大学で非常勤講師をしているんですが、講義をうけるその学生たちに向けて、テキストとして使ってもらおうと書いた本です。いろんな講義をもっているんですけど、非常勤の話が来ると、断ったりすると次の仕事が来なくなったりもするので、社会学だけじゃなくて、社会思想史だとか、社会保障やら社会福祉、ほかにも生命倫理や心理学まで担当しましたね。もうめまぐるしくて、なにを教えていたか忘れましたけど(笑)。

 栗原 ぼくも日本史専攻ですが、大学で世界史をおしえています。

 入江 勉強になりますよね(笑)。そうやってせっかく勉強したんだから、一冊にまとめてみようと。本ができてみると欲が湧いて、どうせだったら本書の項目ごとに文体を変えてみればよかったなんてあとから思いました。ジェイムズ・ジョイスは、どんな文体でも書きわけられると言ったけど、今から思えば、ジョイスばりに違う文体で書かれた項目がズラッと並んでいる用語集にしてもよかったのかも。できあがってからこんなこと言って怒られますが(笑)。

 ところで、栗原さんとのつながりで言えば、かつて早稲田大学には建物の地下にサークル用の地下部室が存在していたわけですが、それを大学当局が封鎖し、学生が使うラウンジと学生会館を完全に管理下に置こうとしたんですね。地下部室は自主管理的で自律的な空間だったわけだけど、おそらくこれから改革に向かおうとする大学にとっては邪魔だった。それに反対する「地下部室闘争」が二〇〇〇年から二〇〇一年にかけてあり、そして二〇〇一年の七月三一日には大規模な行動となったわけです。私自身は学生時代、地下部室と直接の関わりはなかったけど、こういう空間はなくしてはいけないと思ってた。

 栗原 早稲田大学の三号館地下に部室があって、それをみんな「サンチカ」とよんでいました。ぼくはそこにあったサークルにはいっていて、ダラダラと部室に一日中いたりして、夕方になると酒をかってきて、飲みながらおしゃべりしたり、読書会をしたりしていました。いま考えてみると、そういうときが、大学でいちばん勉強しているときだったのかもしれません。……とはいえ、いわゆるお勉強にはなっていなくて、がんばってヘーゲルの本をかってみたけれど、だれもよめず、ひと月くらい勉強会をやったうえで、「このひと、なにいってるんだろうね」で終わりとか(笑)。でも、そういう空間こそが大学にとってだいじだとおもっていました。

 さきほど、入江さんがおっしゃっていた二〇〇一年のときは、ぼくは大学院の修士一年でした。ぼくは大杉栄を読んだりはしていたんですけど、とくに学生運動をやったことはなかったし、権力と文字どおりにぶつかる経験はありませんでした。でも、いざ地下部室の退去がきまったとき、「荷物を運びたいから、もうちょっと時間をくれ」といった要望書を五人くらいで当局にもっていったことがあったんですよね。そうしたら悠長にお茶を飲んでいた職員が、「こっちは忙しいんだよ!」ってどなって、しかも「スクラム! スクラム!」ってさけんでスクラムをくんでぶつかってきたんですよ(笑)。そのとき、「ああ、これが大学の権力かぁ」と。

 入江 ロクでもないですね(笑)。栗原さんとはそのころ知りあってなかったけど、同じ空間にいたわけですね。そういう空間がなくなることに危機感をもっていた人がたくさんいたと思います。七月三一日は、当局による撤去期日だったわけですが、まったく学生側との交渉に応じようとしない。だから、その日、地下部室への入口にピケをはって、当局が封鎖してしまえないようにした。

 栗原 バリケードもきずかれましたね。

 入江 キャンパスの正門前に教員がズラーっと並んで、学生が構内に入れないようにする。外側には大量の学生が集まっていて、おそらく試験が終わった解放感もあったんでしょうけど(笑)、夜中になって門を揺らし始めた。少し離れたところには警察車輛のテールランプが光っているし、なにか起こっているんじゃないかと嗅ぎつけた暴走族がバイクで爆音たててやってくるし、周囲は騒然としていた。「お、これは暴動じゃないか」なんて思ったけど。この日ではないですが、私も襟首つかまれて、警備員に門の外につまみだされたりしました(笑)。

 地下部室は、大学の「核心」のようなものだと思いますね。この「7・31」の約二カ月後に「9・11」がありましたが、抗議者たちは「9・11より7・31」なんて言っていましたね。いまや大学のキャンパスも無機的に浄化され、現在みるような高層化に向かっていくその嚆矢だったと。それは端的に大学のネオリベ改革の初発だった。

 栗原 そうですね。はじめて部室にいったときは、「こんなに、ただダラダラしていていい空間があるのか」とおもいました。そういう雰囲気、「遊び」をあじわうのが大学なんだとおもいます。なにが目的だかわかんなくても、悪ノリで、これカッコいいんじゃんっていって、すっげえむずかしい本をよみはじめたりする。そうい場はだいじだとおもいます。

 入江 そのころ、私は大学院に籍を置いていて、非常勤講師の仕事を始めるようになってました。さて、非常勤講師の給料って、いくらぐらいだと思います? 例えば毎週月曜の一限に講義があるとして、それを月四回やると、いくらだと? 講義の最中、学生なんかに聞いてみると、「十五万くらいですか」と言われたり。

 栗原 いやいやいや~(笑)。

 入江 本当に「いやいや」で(笑)、月に四回やって、月に大体二万五千円から三万円くらいですね。単純計算で、四つの授業を入れると月十万、八つで二十万ということになる。

 栗原 八つの授業をやるのはたいへんですよね。

 入江 ただ喋っているだけだろうと思われるかもしれませんが、九〇分間全力で一人カラオケをやるようなもので、終わるとヘロヘロです(笑)。これ、知的労働というよりはほんと筋肉労働だなと。

 栗原 入江さんはいま何コマもっているんですか?

 入江 いま、多くの場合、通年で授業を持たせてくれませんね。セメスターで前期と後期で半期にぶった切る(これからさらにそれをまた半分にわけるクォーター制を導入しようとしています)。私の場合、前期が八コマ、後期が五コマだったはず。……これで私のおおよそ年収がわかってしまいますが(笑)。何年勤めても昇給もない。ボーナスも当然ない。また、それぞれの大学に出向くわけだから、午前中にある大学で講義し、午後からはまた遠く離れたところに移動する。クタクタです。こういう生活をいつまで続けられるのか。

 このままカネの話つながりで、今日の大事な話をしますけど、学費が異様に高い。国立大学だと初年度で八〇万円くらい、私大文系で一二〇万円、理系で一五〇万円超ですよ。だから「奨学金」がなきゃ通えない学生がたくさんいて、いまは半数の学生が支援機構の「奨学金」を使っています。栗原さんは奨学金は総額いくらくらい借りました?

 栗原 六三五万円です。

 入江 負けた。……いや、勝ったのかな(笑)。私は五三〇万円くらい。元々はもう少し少なかったけど、延滞金がかさんでその額になりました。実際、非常勤講師の給料で返すのは無理でした。まあ、意地もあって返してませんでしたけど。

 栗原 借りたものは、返せない。

 入江 年収が五〇万円のときもありました。

 栗原 ぼくも一〇万のときが五、六年ありました。

 入江 なんとまあ、低レベルな競争(笑)。そういうわけで、奨学金を返していなかったのですが、とうとう去年、裁判に訴えられました。

 栗原 いま、とりたての裁判が年間で六〇〇〇件ほどあるようです。

 入江 まったく目もあてられないひどさですね。「一括で返せ」と言われました。かつては「日本育英会」といっていましたが、いまは「日本学生支援機構」。二〇〇四年の小泉構造改革で半官半民の組織になって、取り立ても債権管理会社に委託するようになっている。いまや国営闇金、貧困ビジネスそのものですね。で、結局、返させられるハメになったのですが、裁判の答弁書では、この国の「奨学金」のあり方それ自体が問題だ、おかしいだろう、と訴えましたが、暖簾に腕押し。司法はこっちのいうことなぞ寸分も聞いちゃいません。

 私は首都圏大学非常勤講師組合という組合にはいってますが、二〇一三年に早稲田大学が非常勤講師を五年で雇い止めにすると言いだし、闘いは熾烈だったけど、組合が完全勝利しました。いま日大に非常勤をゼロにする計画がもちあがっているようです。

 栗原 五年で非常勤講師の全員が雇いどめって……、マジヤベエ!

 入江 去年、岩波ブックレットで『経済的徴兵制をぶっ潰せ!――戦争と学生』という冊子を刊行しました。栗原さんにも登壇してもらいましたけど、早稲田での勝利の報告も兼ねた組合でやったシンポジウムをまとめたものです。非常勤講師は大学で学生を教えているわけだし、講師ももとは学生で、研究するために大学院に行き、その間ずっと学費を払いつづけ、結果、尋常ならざる借金を背負う。だから学費と奨学金の問題は、学生の問題だし、自分たちの問題でもあるわけです。ブックレットのタイトルにある「経済的徴兵制」とは、ようするに「借金返せなかったら自衛隊に入って戦争にいってこい」ということですが、政治の中枢でそういうことをあからさまに言いはじめたんですね。

 栗原 奨学金の返済には一〇年の猶予期間があるのですが、ぼくは今年がその一〇年目です。

 入江 「返せ」というのが執拗に来ますよ。いまは一カ月返済が遅れても「脅し」が来るらしい。

 ここで言っておかねばならないのは、奨学金が「借金」であることによって、大学に企業が侵入する大きな原因になっている、ということ。つまり大学にたいする企業支配をまねく、非常に都合のいいツールだということですね。

 栗原 定職につかなければ、借金を返せないってなりますからね。

 入江 だから学生は就職活動に必死に駆けずり回り、労働市場に自分を売り込むためのスキルを上げるとか資格がどうとか、職業訓練じゃあるまいし、そんなことばかりになっている。

 栗原 借金をかかえていたら、そうなってしまいますよね。

 入江 学生の半数が利子つき奨学金を借りていて、大学を出ると同時に、三~四〇〇万円もの借金を背負っている。高い学費と奨学金のあり方が、企業支配を招くと考えねばならない。本来であれば、大学は率先して企業を排除し、その影響を最小限に食い止めないといけないはずなんですけどね。起きているのはその逆の事態ばかり。

 栗原 奨学金を借りていない学生たちも、親に学費をはらってもらっていたり、バイトをしながらの生活だったりしています。本書に「負債」(P99)の項目がありますが、じぶんが借金をしていなくても、「負い目」になります。「こんだけ親にがんばってもらったんだから、こんだけバイトしてがんばったんだから、このお金は投資だ。それなら就職をがんばらなくてはいけないよね」と。大学にいくことが、贖罪みたいになって、仕事をゲットすることに一本化されてしまう。

 本書には「学費」(P18)という項目もあります。ホントにいいことが書いてあって、「よもやいないとは思うが、『借りたものは返すべきだ』とか、『学費無償化』に反対する大学の教師がいたら、なにも考えてないか、治癒しがたく愚かな証拠なので、その場で糾弾すべきである」と(笑)。

 ぼくが非常勤講師をしている東北芸術工科大学は、かなり自由なところで、授業も好きにやらせてもらっているのですが、それでもアリャリャってときはあって。いま世界史をおしえていて、狩猟採集民の生活は「はたらかないで、たらふく食べたいだ」といったり、「キリストは借金を返さなくていいといっている」なんてしゃべっていたら、ついに学生から当局にクレームがはいりました。不謹慎な教員がいると(笑)。

 入江さんもクレームを言われたことがありますか?

 入江 ありますよ。非常勤講師だけど、学生は教授と間違えるらしく、「入江教授は奨学金を返さなくていいと言っている」とタレこまれました(笑)。だけど実際には私は「奨学金を返さなくていい」とは言ってなくて、「本来は返さなくていいはずのものを強制的に返させられている」と言ってるのだけど。あとは「この授業は偏向している」「言っていることが左翼だ」とか(笑)。

 栗原 一〇年も二〇年もおなじ研究をやりつづけている大学教員が、偏っていないわけがないんですよね。偏向、だいじ!

 いまの学生にとっては、どうしても「学費をとられている」という感覚がつよいのでしょうね。大学の授業も就職につながるものだから、就職からそれている内容が語られると、学生のほうがキレてしまう。

 入江 インターン制度なんてのも導入されて、とことん企業の侵入を許容してしまっている。まあ、もちろん大学の学生はちゃんと話せばわかってくれますが、ここははっきり言っておくけど、いまの大学のどうしようもなく狂っている部分ですね。

 栗原 さいきんになって、給付型奨学金が導入されました。それはいいことだとおもいますが、でも「学費をはらうのはあたりまえだ」という前提があると、給付型奨学金をうけた学生にも、やっぱり負い目の論理がかぶさってきます。「国からおカネをだしてもらって、大学にいくんだから、国や社会の役にたつようなことをやっていかなければならない」と。でもすごいのは、本書を読んでいると、しぜんとその論理からスッとぬけだしているんですよね。あえて強調しておきます。本書を読めば、みんな、「カネをもらったからといって、われわれがしたがうとおもったらおおまちがいだ」と、胸をはっていえるようになっているでしょう。

記事掲載はここまで。続きは本紙でお楽しみください。
6月中旬以降、全文掲載予定です。

人生をつかまえるための声を探して

――語り手の声は深い共感とともに読み手の中に長くとどまる
評者:奥瀬陽平

 ■七〇年代の終わりにインドからアメリカへ移住した四人家族の物語がこれほど親密に感じられる理由は、なによりも語り手の声にある。この自伝的小説を語るのにふさわしい声を見つけるため、著者のアキール・シャルマは三〇代のすべてを費やしたという。

 移住から二年、一家の次男アジェ十歳のとき、兄ビルジュは難関の名門高校に合格する。優秀なビルジュは一家の期待の星だ。アジェは自慢の兄について言う。「兄が意見を言うと、ラジオで放送されたみたいな感じがして、何を言われても正しいにちがいないと思えるのだ」。

 しかし入学の日を目の前に、ビルジュはプールの事故で脳を損傷し寝たきりになる。目はひらいていても何も見えず、話すこともできない。家族の生活は一変する。苦しみから逃れようとアルコールに溺れていく父。毎朝、祭壇の前でヒンドゥーの神々に祈るだけでなく、ビルジュを目覚めさせることができると主張する「奇跡の使い手」たちにもすがろうとする母。夫婦は激しい喧嘩を繰り返す。

 アジェもまた、持っていき場のない感情に押しつぶされた毎日を過ごす。あまりに悲しいときには、自分自身から抜け出すことを覚える。「僕は歩きながら喘いでいる。と同時に、僕自身の不幸が僕のそばを歩きながら、僕のなかに戻れるよう、呼吸が静まるのを待っているのがわかった」。

 兄だけが言葉を失ったことに対する罪悪感。両親が自分よりも不幸であることへの後ろめたさ。アジェの揺れ動く複雑な感情心理が精緻に描かれる。回復の見込みもなく、寝返りを打つことすらできないビルジュを前に、「どうして」という答えのない繰り返された問いに引き戻される家族。重大な出来事を包み込んで流れていく日常の様々な場面を通じて、家族それぞれの祈りと孤独がくっきりと浮かび上がる。激しくぶつかり合いながらもお互いを思いやる柔らかな気持ちや、ときに訪れる家族の優しい時間が静かに語られる。抑制された感傷が作品に奥行きを与え、語り手の声は深い共感とともに読み手の中に長くとどまる。

 アジェは中三の冬にヘミングウェイに出会う。「黙って苦しむことに重きを置いているように見えるヘミングウェイを読み続けているうちに、わが家の苦悩がひとつの物語のなかに含まれているように見えてきた」。そして自らも書くことで自分の人生を観察しているような距離感を手に入れる。それがアジェの救いになる。「書くことは僕を変えた」。

 物語はプリンストン大学を出て投資銀行に入り猛烈に働いて年間七十万ドルも稼ぐようになったアジェが、弁護士の彼女とメキシコのリゾートでくつろいでいる場面で終わる。「僕がやらなければならないのはただひとつ、物語の最後に、思いもよらない、それでいて自然にも思えることを付け加えることだった」。かつてアジェが読んだ「ヘミングウェイについての論考」に基づくかのように、著者はニュアンスに富んだ一文を最後に添える。

 一方、冒頭で四十歳のアジェを出して回想の装いを取り入れたことで、語り手が使う言葉の制約を外すとともに、読者を内容の重たさから救っている。そうした技術的な試みから創作上の舞台裏まで、著者は今年三月に来日して行ったトークイベントで極めて率直に明かした。「人生をつかまえようとした」この作品の執筆に十二年半をかけ、完成した本の三十六冊分に相当する七〇〇〇ページを書いたという。最後の場面と最初の場面の間に流れる十数年は、著者がこの作品と格闘した時間にほかならない。そんな風にして生まれる小説があるのだ。人生を前に進める上で、どうしても書かれなければならない作品がある。無言の兄の声を探すことで、弟は作家になったのだから。

 訳者は芥川賞作家の小野正嗣。「僕がプリンストン大学に合格したのは、出願書類の一つとして提出した短編を、自分自身も兄を水難事故で亡くした人が読んだからだと知った」。そんな作品内のエピソードと符合するかのように、共有するものの多さを偶然知ることとなった二人の出会いから、著者が探し当てた声を見事に伝える日本語訳が生まれた。何かが生まれるとき、そこにはいつも目に見えない無言のえにしがある。

 (会社員)

野球は日系人コミュニティでも希望だった

――皮肉なことに、「やる者も見る者も本気だった」という収容所では、好きな野球を思う存分楽しむことができた
評者:河野和憲

 ■第二次世界大戦中、十一万人を超える「敵性」外国人とされた日系人は、強制収容所へと送られた。これは米国政府の政策だった。日米開戦後、一九四二年、各州での強制収容所開設の時期をみると、ポストン収容所(アリゾナ、五月)、ツールレイク収容所(カリフォルニア、五月)、マンザナール収容所(カリフォルニア、六月)、ヒラリバー収容所(アリゾナ、七月)、ミニドカ収容所(アイダホ、八月)、ハートマウンテン収容所(ワイオミング、八月)、グラナダ収容所(コロラド、八月)、トパーズ収容所(ユタ、九月)、ローワー収容所(アーカンソー、九月)、ジェローム収容所(アーカンソー、十月)と、わずか五カ月のあいだに十カ所も建てられた。

 日本人による最初の米国への移民は一八八五年に始まったという。明治維新で都会と地方の格差が拡大したことによって、多くの若者たちは希望を抱き「米国」へと旅立った。しかし、彼らを待ち受けていたのは「孤独」と過酷な「労働」だった。当初、日本政府が斡旋した職種は、工場や製材所そして農場だった。のちに米国西海岸への移民を個人的に行う者も生まれた。すると、米国の労働組合は「勤勉」な日系人に強い反感を抱くようになり、経営者たちはそのような日系人に対して脅威を感じるようになった。そしてアジア人による土地の購入や借用を制限し、一九二四年には日本人の「移民禁止法」を制定。やがて一九四二年二月、F・ルーズベルト大統領は「軍事活動に重要とみなされる地域からいかなる人物も追放できる権限」を軍に与えた。日系人の米国への忠誠心を疑い、「日系人を排除することが必要」と唱えた。日本人の血を引くすべての者に対し、移転所への出頭を命じたのだった。

 同時期の大リーグの選手たちはどうだったのか。強打者ハンク・グリーンバーグ(ユダヤ系)は従軍のため活動は9シーズンにとどまり、差別や嫌がらせを受けたが331本塁打、1276打点と活躍。四割打者のテッド・ウィリアムズは第二次世界大戦と朝鮮戦争に従軍し、通算打率・344、521本塁打、通算出塁率・482という驚異的な活躍。大打者ジョー・ディマジオは一九四一年、56試合連続安打という空前絶後の記録を樹立。しかし従軍のため実働は十三年だった。

 本書の主役、日系二世のハーブ(ムーン)栗間は、カリフォルニアから強制立ち退きでジェローム収容所へと送られた。収容所内での栗間投手の活躍をみれば、地元のリーグか日本で「プロ野球」選手になりたかったことは間違いない。しかし、農作業(イチゴ栽培)、家族(両親)の世話、そして「差別」といった問題が障壁となる。皮肉なことに、「やる者も見る者も本気だった」という収容所では、好きな野球を思う存分楽しむことができた。「日系100大隊」や「442連隊」といった強豪チームとの対戦では、数千人の観客が詰めかけた。「I had a good life」と栗間は感慨深く述べている。

 日系人の代表的な野球チームでは、西北部(シアトル)の「日本アスレティッククラブ」、南カリフォルニアの「LA日本」が強豪で、LA日本にはジミー堀尾(文人)、サム高橋(吉雄)、松浦一義といった、のちに日本のプロ野球でも活躍する選手たちがいた。北・中部カリフォルニアでは「フレズノ体育会」「サンノゼ旭」「スタクトン大和」が強豪で、なかでも「カリフォルニア日系人野球の父」といわれたケン銭村(健一郎)は、フレズノ野球団を率い全米を巡業、大リーグ選抜や黒人リーグのチームと対戦した。ベーブ・ルースやルー・ゲーリッグと一緒の写真もある。また、銭村親子は一九四三年三月、強制収容所内に自力で野球場を建設した。野球未経験者を含む多くの若者たちに野球を指導し、収容所内の白人チームとも対戦。文字どおり「野球(ナショナル・パスタイム)」は、日系人コミュニティにおいても「希望」となったのであった。

 (彩流社編集・製作)