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紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

『日本エスペラント運動人名事典』

柴田巌/編 後藤斉/編
峰芳隆/監修

ひつじ書房

日本エスペラント運動の汲めども尽きぬ豊饒な泉がここにある

――国家や民族の違いを越えて繋がるエスペランティストの系譜を読む事典
評者:室生孝徳(ロシア思想)

 一八八七年にザメンホフが提唱した、特定の民族集団に属さない国際語であるエスペラントは、国家や民族の違いを越えて母語を異にする人間どうしが意思疎通する言語として世界的な普及運動が続けられてきた。本書はそのなかで日本エスペラント運動を記録した六七〇頁を超える大著であり、運動の全体像を伝える事典である。収録された人物は二八六七人(物故者のみ)、さらにエスペラントに関連したさまざまな活動や著作などが記述され、より深く読み進めたい読者にも有益な文献紹介が付されている。まさに日本エスペラント運動を読む事典であり、本書自体が日本エスペラント運動の現時点における集大成といっても過言ではない。

 さまざまな読み方ができる事典だが、試みに「あ行」の秋田雨雀の項目を見てみよう。日本エスペラント運動をリードする秋田は最初、二葉亭四迷の『世界語』と、青森・黒石時代の同級生だった鳴海要吉をとおしてエスペラントに触れた。鳴海はエスペラントを独習し、下北半島を舞台にエスペラント運動を行った。「な行」にある鳴海の項目も充実しており、彼がローマ字論者および口語短歌誌の主宰者として自作の短歌や秋田の短歌をエスペラント訳し、秋田の戯曲「緑の野」や田山花袋「トコヨゴヨミ」のモデルにもなったことが記されている。

 秋田は一九一四年、来日したエロシェンコと会ってエスペラントを学び始めた。時は戦争と革命の二〇世紀の号砲となった第一次世界大戦勃発の年である。国家と民族が幾重にも対立し敵対していく趨勢のなかで、彼らはエスペラントをつうじて流れに抗し、国家と民族の違いを越えて繋がろうとしたのだった。

 一九二七年、訪ソした秋田はエロシェンコと再会した。時はレーニン死後、後継者をめぐる権力争いが熾烈化し、スターリンがトロツキーら反対派を追い落としたその最中である。民族友好と国際主義を旨とするはずのソ連社会主義は、スターリン主義へと硬直化し、国家と民族による分断を推し進めてエスペラントを敵視する。エスペランティストたちにとってはまさしく酷寒の時代だった。

 秋田の訪ソのおりに随行した一人に、エスペランティストでのちにロシア文学者となる鳴海完造がいた。鳴海は三五年、キーロフ暗殺後に大テロルがソ連を覆う直前までかの地にとどまって、レニングラードとモスクワの両大学で日本語を教えた秋田や鳴海要吉の同郷人である。エスペラントと青森を結ぶ系譜がここに浮かび上がってくる。

 そのほか、一九二二年に「水平社宣言」を起草した西光万吉が、同じ年にエスペラントを学んでいるのも興味深い。水平運動の創始者の一人である西光は、部落差別と闘う運動のなかで、その理念をエスペラントにのせて全世界に発信したのである。「さ行」に収められた西光の項には、最高が一九六七年に世界連邦主義者エスペラント会に参加し、自作の「老人と童話」のエスペラント訳を諸外国の国連関係者に送付したとある。水平運動は西光のなかで、和栄政策という彼の国際平和主義へと展開したが、それを広める言語はエスペラントだったのである。

 そしてもう一人、忘れられないエスペランティストがいた。鹿野武一である。彼は戦中、兵役の中で同じエスペランティストでのちに詩人となる石原吉郎と知り合い、親交を結んだ。敗戦でともにソ連に抑留された鹿野と石原はそこでもう一人のエスペランティスト、菅季治と知り合うことになる。菅は引き揚げ後に、いわゆる徳田要請問題で国会証人となって追いつめられ、自殺した。彼の『語られざる真実』は遺書であるとともにエスペランティストとしての理想を刻んだ不朽の記録である。そして石原は後に『望郷と海』に収められた「ペシミストの勇気について」で、エスペラントの体現者ともいえる鹿野の姿を描いている。ここには日本エスペラント運動の精神的脈流があった。

 頁を開いて思うままに紹介したが、読者はみずからの関心に沿って本書を紐解いてほしい。そこには日本エスペラント運動の、汲めども尽きぬ豊饒な泉がある。(ロシア思想)

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