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紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

群島の眼からアジア太平洋世界を眺める
群島の眼からアジア太平洋世界を眺める

――石原俊氏インタビュー 『〈群島〉の歴史社会学』をめぐって

▼「現代社会学ライブラリー」(弘文堂)の一冊として、石原俊氏の『〈群島〉の歴史社会学――小笠原諸島・硫黄島、日本・アメリカ、そして太平洋世界』が刊行された。コンパクトながら好著だ。これを機に、海や島をめぐる歴史や、必ずしも本書の枠におさまらない「3・11」をめぐってなど、著者の石原氏にインタビューした。(インタビュー日・2月5日、東京・神田神保町にて。聞き手・須藤巧〔本紙編集〕)

■「歴史」と「歴史ならざるもの」の徹底的なあらい直し

――ミクロな視点とマクロな視点でパッチワーク的に構成された本書は、社会学のダイナミズムを改めて感じさせてくれました。本書は3・11を扱った本ではありませんが、そのインパクトを石原さんなりに受け止めて書かれた本だと言明されています。その本が「群島」、島を扱っているのは示唆的だと思いました。「擬似大陸」という言葉が本書では何度も出てきます。われわれの足元は「島」であるにもかかわらず、「大陸」に擬態するようにした歴史の展開がありました。その中で、石原さんの言い方をすれば島々を「はけ口」「捨て石」「飛び石」「要石」にしてきた事実があり、石原さんはその「歴史」と「歴史ならざるもの」、あるいはその関係性と非対称な関係性を本書で描き出したと思います。

石原 3・11の翌日に福島第一原発が爆発して大量の放射能が飛散し、福島を中心に多くの人びとが難民化し始めたとき、私の脳裏には、敗戦後の日本が独立・復興と引き換えに、米軍の核ネットワークの「要石」としてアメリカに差し出し「捨て石」としたために、長い間故郷に戻ることができず難民化させられた、小笠原諸島や硫黄諸島(火山列島)の人びとのことが思い浮かびました。硫黄諸島の元住民は、今年で一九四四年の強制疎開から七〇年になりますが、いまだに故郷喪失状態にある。3・11とは、これらの島々を「捨て石」として踏み台にしつつ、経済成長の夢の中でまどろんできた「擬似大陸」日本の政治体制・社会体制が、決定的に破綻していく兆候であるわけですが、ここで自分の研究領域に立ち返って、「歴史」として登録されてきた物語と「歴史ならざるもの」として打ち捨てられてきた経験との非対称な関係性を、徹底的にあらい直しておく必要があると痛感しました。

 私は本書の序章「群島の想像力」でまず、島をめぐる思想史の最も基本的な部分を振り返っています。島を根源的に思考した思想家として、日本では例えば宮本常一の膨大な仕事があり、海外ではエドゥアール・グリッサンといった論客がいますが、かれらは島の開放性と閉鎖性、交通性と孤立性、中心性と辺境性、自律性と従属性について繰り返し論じています。コロンブス以来の五〇〇年のグローバリゼーションが、島を閉鎖性と孤立性から解き放ち、島に開放性や交通性を持たせました。しかし同時に、そのグローバリゼーションこそが、島から中心性・自律性を奪い、その住民たちを辺境性・従属性のもとに置いていったことを、私たちはもう一度思い起こす必要があると思います。近世をearly modernと捉え、グローバリゼーションの中での「五〇〇年の近代」を「歴史ならざるもの」とされた側から見ていったときに、島は最も重要な地点のひとつです。事実としても、コロンブスが最初に到達したのはカリブ海の群島でした。また、南北アメリカ大陸も、ヨーロッパの自意識である大陸意識からは、進出/侵略の対象としての外洋世界に浮かぶ巨大な「島」として扱われたわけです。

 本書は小笠原諸島や硫黄諸島といった北西太平洋に浮かぶ小さな群島の眼から、海洋世界の「五〇〇年の近代」、とりわけ環/間太平洋世界(Trans‐Pacific World)の「二〇〇年の近代」を描き直そうとする、いわば定点観測の試みです。小笠原諸島と硫黄諸島はともに長らく無人島であり、特に前者は一九世紀前半、西太平洋・東アジアに最初のグローバリゼーションの波が押し寄せる中で、捕鯨船の過酷な労働環境に耐えかねた脱走者、あるいは漂流者や海賊など、世界各地にルーツをもつ雑多な人びとが集まる寄港地になっていきます。近代の始まりとともに人が住み始め、伝統的なローカル・ルールがないところに、グローバリゼーションの波に乗ってきた海の移動民がアナーキカルで開かれた自律空間を形成していく。だが一九世紀後半になると、近代国家建設中の日本が小笠原諸島を併合し、二〇世紀にかけてこの群島から開放性や自律性を奪い、住民を辺境性・従属性のもとに置いていくのです。小笠原諸島はもともと無人島だったゆえに、世界市場や主権国家・国民国家や近代法といったさまざまな近代的な制度の力が、生に近いかたちで表れたといえます。その後も小笠原諸島や硫黄諸島は、総力戦体制や冷戦体制のもとで、大陸や「擬似大陸」の側から「捨て石」にされていく。そのあげく、これらの群島で生きた人たちの経験は、「歴史ならざるもの」として忘却されてきた。これらの群島には、近代世界の中で島が置かれてきた歴史性・空間性が、非常にクリアなかたちで表れています。

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