本、雑誌、CD・DVDをお近くの本屋さんに送料無料でお届け!

紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

■相互扶助と「叛史」の息吹きを

 ――竹中労『エライ人を斬る』(一九七一年)も編集されています。竹中労といえば『琉球共和国――汝、花を武器とせよ!』(一九七二年)も三一書房刊ですね。

井家上 『琉球共和国』を担当したのは石田明君です。石田君はその後、田畑書店に移って、三一で手掛けた路線を引き継いで展開することになりますが、竹中さんが僕ではなく石田君のところへ行ったのはよくわかります。だって僕は太田竜が嫌いだったから。当時は太田竜がもてはやされていた。でも僕は、なぜ竹中さんが太田竜と密着するのかわからなかった。

 ――三一書房から出た『辺境最深部に向って退却せよ!』(本名の栗原登一名、一九七一年)や『アイヌモシリから出撃せよ!』(一九七七年)など、太田竜の本が熱心に読まれた時期がありました。

井家上 竹中労と太田竜と平岡正明が三人組で、みんな、いや本人たちも「三バカ」と自称していた。だけど僕は窮民革命論というのがいまいち理解できなかったのですね。アナキズムも大杉栄も……。

 竹中さんと僕は三一書房では『エライ人を斬る』だけで、僕が白川書院に関わってから「日本映画縦断」シリーズ(『傾向映画の時代』一九七四年、『異端の肖像』一九七五年、『山上伊太郎の世界』一九七六年)、嵐寛寿郎に聞き書きした『聞き書きアラカン一代――鞍馬天狗のおじさんは』(一九七六年)、マキノ雅弘・稲垣浩編『山上伊太郎のシナリオ』(一九七六年)などで付き合うことになる。もともと『エライ人を斬る』は持ち込みで、編集長の竹村一さんが蹴飛ばした企画だった。じゃあ僕がやりますと始めて、そのままではインパクトがないから告訴状も収録した。

 竹中さんの周りには編集者やシンパがたくさんいたけれども、どんどん去っていきました。僕は竹中さんと一度も喧嘩しなかったし、言うことも聞かなかった(笑)。竹中さんは琉球民謡、島唄にのめり込んで、七四年に日比谷野音で第一回の「琉球フェスティバル」が開催されますが、女性誌にいた僕の友人で、プロダクションを作った伊藤公一がこれを仕掛けた。僕は手伝いに行って、本を作るよりもむしろそっちのほうで付き合うようになりました。でも、若い人たちはどんどん竹中さんから去っていき、新しい人が来ても長続きしなかった。気が付いたらいちばん古顔の僕が残っていたという感じです。竹中さんも心残りだったと思う。

 ――井家上さんが三一書房を去られる七三年前後は、高度成長が終わった後に消費社会が広まり、カウンターカルチャーも消費文化に呑まれ、出版が下り坂になっていく転換期ですね。

井家上 僕が辞める直前から、三一書房は『日本庶民生活史料集成』(一九六八年)をはじめとして史料集の出版を始めます。他の出版社もそうした史料集を出していて、いわば“史料集の時代”になるわけです。でも、現実の社会問題をとおして人間の自由が広がり、運動によって変わっていくきっかけになることが出版だと考えていた僕は、史料集作りに思い入れることができなかった。

 ――人間の動きのなかにあってそこを生命の源泉とし、また投げ返して反響し、新たな動きにつながり、さらにそこから生命を得ていくような出版が減って、史料や研究の成果を本にする出版が主になっていく転機を、あたかも象徴するかのようですね。

井家上 六〇年代は大衆運動の時代だった。僕は東大全共闘の本を作る気はまったくなかったんです。日大全共闘が東大全共闘に行った一九六八年九月二三日、東大の赤門を初めてくぐったと喜んでいるから、お前たちも東大に食われるぞ、と僕は言ったんですが、本当にそのとおりになった。人が何かに向けて動くという運動は、セクトが出てくるような動きではなくて、もっと不定型でダイナミックなものです。ところが、それがセクト化し、結局、大衆運動がなくなっていったんです。そのことも出版のあり方と関わっていると思う。

 ――三一新書を見ると、七〇年代に入って朝日ジャーナル編集部編『三里塚――反権力の最後の砦』(一九七〇年)や同『闘う三里塚――執念から闘志への記録』(一九七一年)など、当時読まれた「朝日ジャーナル」関係の企画も目につきます。

井家上 「朝日ジャーナル」は所詮インテリの左翼雑誌にすぎないといった俗説があるじゃないですか。落語的にいうと「酢豆腐」ですか、でもそればかりではない。朝日だから御綺麗なことは御綺麗で、汚れた部分には手を突っ込まないから、どうしても後になって見れば見るほどおかしい。でも、田中角栄裁判では立花隆の連載を延々と載せたし、筑紫哲也の新人類対談にしても、時代を捉まえている。やはりこういうことは朝日でなければできないですよ。それがいまや、「慰安婦」報道などで謝罪するばかりの事態に追い込まれている。

 ――大手メディアはみずからの役割を果たし、ライターはめいめいができる表現手段で時代を捉えて描く。それが出版を押し上げ、力を得ていく。そうすれば出版は生き生きとしたものになるはずですね。

井家上 それができるためには、やはり運動が必要です。社会運動といった大げさなものではなくても、それがあってこそ出版は生き生きする。ところが、運動というと政治運動みたいになってしまうでしょう。僕がいう運動は、不平不満よりもっと高度な、自己主張というか、それこそ竹中労のいう自由な言論、自由な行動であり、要するに自由ということ。自由をどれだけ自分の根本として主張するか、自由にものを語り、動くかということです。

 そこで僕がいま興味をもっているのが、クロポトキンの『相互扶助論』です。

 ――三一書房から出た、函入り角背の「アナキズム叢書」(全八巻、一九七〇〜七二年)の第三巻『クロポトキン』に大沢正道訳で収録されています。

井家上 ダーウィンが未開から中世まで段階的に適者生存の社会進化論を唱えたのに対して、クロポトキンは同じような事実を未開から中世まで取り上げながら、社会進化論に対して相互扶助論を打ち出すわけですね。要するに競争ではなくて、強いものは弱いものに寄り添い、相互に助け合ってきた歴史をクロポトキンは書いた。大沢正道さんに訊いたら、『相互扶助論』の翻訳は三一書房版しかないそうですが、柄谷行人たちが言っていることは相互扶助論に近いと思います。

 ロシア革命がダメなのは、権力を握って自分たちが支配する側になるからだとクロポトキンは批判する。大杉栄もそう批判するわけですね。相互扶助でお互いに助け合うことは、これからの社会観としても必要なのではないかと僕は思う。ただしクロポトキンには運動論がないんですね。大杉も何もしないうちに殺されてしまった。もしも生きていたらどういう運動論を出しただろうか。とても関心がありますが、アナキストには詩人がやたら多いでしょう。運動論なんてない。石川三四郎にしても、俺は好きなように生きているのだから、みんな邪魔をしないでくれ、自分も邪魔はしないからという。これに尽きるというわけです(笑)。

 だけれども、トマ・ピケティの『21世紀の資本』だって、むしろ相互扶助論のほうでしょう。